第146話『For the first time in a long time』
ダイニングテーブルに新聞を広げ、差し込んでくる朝日を眩しそうに見上げながら、蒼汰は広いリビングを見渡す。
ここは自分の
最上階の優雅な部屋からは昼夜問わず、素晴らしいロケーションが広がる。
こんなラグジュアリーな空間で、とんでもない
被害者はここの住人、相澤絵梨香。
命こそ取られずに済んだが、多大な心の傷を負わされた彼女と共に、もう一人の被害者となった自分も、彼女を見守る形であれからしばらくこの部屋に身を置いていた。
ずいぶん前のような気もするが、時折昨日のことのように生々しくそのシーンを思いだし、息が出来なくなるほどの苦しさに襲われる。
無意識に、完治しているはずの刺された傷跡に手をやっている自分に気付くこともままあった。
二人の女性による監禁事件に巻き込まれてから、絵梨香の生活は大きく変わっていた。
心の傷は、体の傷のように目に見えるようには
そして、更にそれには明確な終わりは見えず、根絶されたかどうかは、本人はもとより、どんな専門家にかかっても測ることはできない。
周囲の細やかな配慮で、ゆっくりと静かで平穏な暮らしを送ってきた絵梨香に、由夏の古くからの知人でもあり、信頼を寄せている天海病院の院長である天海宗一郎医師は、次のステップを与えた。
「おまたせ、蒼汰」
そう言いながら部屋から出てきた絵梨香を見上げる。
蒼汰はその姿に、持ち上げたコーヒーカップの手を止めた。
「ん? 蒼汰、どうしたの?」
「あ、いや……」
"あの頃に戻ったみたいだ"と言いそうになって、蒼汰は慌てて言葉を飲み込んだ。
動作を再開して、カップを口に運びながら、平然を装う。
「なんか、気合い入ってんなぁと思ってさ。そのメイク、時間かかったんじゃね?」
絵梨香はグッと蒼汰を睨んだ。
「失礼ね。なに着て行こうかなって悩んだだけ! そんなに厚塗りしてないわよ。え……なんか変?」
そう言いながら伏し目がちに前髪をつまむ絵梨香から、蒼汰は目が離せなくなる。
長い睫毛とすっかり細く憂いを帯びた首もとから、慌てて視線を外した。
「あ、いや……ちゃんと元気そうに見えるよ」
絵梨香は目を上げて大袈裟に肩をすくめて見せた。
「なによそれ? 私はずっと元気よ。なんせ、こうるさい監視役が、食事もコラムの執筆も管理してくれるお陰で、今やすっかり健康優良児よ。太らないようにするのが大変なんだから!」
皮肉っぽい口調でそう言いながら笑っている絵梨香の横顔をほほえましく眺めていると、ここの生活が始まった当初の血の気のない絵梨香の顔がフッと浮かんで、また蒼汰の心を締め付けた。
慌ててそれをかき消す。
とにかく、良かった。
通常に戻れたのだ。
見覚えのあるブラウスを着た絵梨香の傍らには、バッグと共に上着が置かれている。
それは季節が変わったことを意味していた。
「ほら、ぐずぐずしてると電車一本遅らせることになるぞ」
「うわっ、ホントだ。あ! やだ! 靴を選ぶの忘れてた!」
バタバタしながらマンションを出た二人は、心地よい日差しと風を受けながら川沿いの道を下りていった。
このまま南下すると、対岸には絵梨香が襲われた事件現場となった、あの公園が見えてくる。
自宅療養が始まって以来、リハビリ程度のちょっとした買い物に絵梨香を連れ出す際でも、マンションの南側に下りることはなかった。
今回の出社にあたって、GOサインを出した天海医師に、蒼汰はその件についても相談した。
天海は、絵梨香自身がその道を避けようとしない限りは、あえて先回りの行動をせず、注意深く観察するようにと言った。
呼吸の乱れや、額に汗がにじんだり、言動に不可解な点を感じたらすぐさま自宅に連れ帰るようにと指示されていた蒼汰は、さりげなさを装いながらも、絵梨香の様子を細やかに観察していた。
絵梨香が少し顔を右に向けただけでドキッとしてしまい、思わず上ずってしまう自分の声に更に汗をかきながら、蒼汰はどうでもいい話を機関銃のように話し続ける。
「ちょっと蒼汰! 家の中じゃないんだから! 外でそんな大声でつまんない話をしてたら、後輩に引かれちゃうわよ」
「は? つまんなくて悪かったなぁ!」
朝日に照らされ、朗らかに笑う絵梨香の頬の向こう側から公園が消えると、その安堵から蒼汰はまたベラベラと喋り始めた。
「あ……」
話の途中でそう口走った絵梨香の視線の先には、シャッターが下ろされた店があった。
国道沿いの横断歩道の前、そのシャッターを背に二人は並んだ。
「……このファンシーショップ……閉店したのね。知らなかった……」
「ああ……コンビニになるみたいだ」
「へぇ……そうなの。駅に降りてここにコンビニがあったら便利よね」
真っ直ぐ向いたままそう言った絵梨香の言葉に表情はなかった。
青信号に一歩踏み出す絵梨香に、慌ててついていく蒼汰は、今一度そのシャッターを振り返ってから、彼女の隣に並んだ。
この一連の事件の首謀者、小田切佳乃と絵梨香を直接繋ぐきっかけとなったこのファンシーショップ。
「ここにも犠牲者あり……か」
そう呟いて口を押さえた。
絵梨香には届いていない。
「ああ……蒼汰!」
その言葉にハッとする。
「ど、どうした?」
「定期券、切れてた」
「あ……あっそうか! 申請しなきゃな!」
「うん、そうね。なんか……」
そう言って
「どうした?」
「うん……時間が経ったんだなぁって……思って……」
蒼汰は視線を落とす絵梨香の肩に手をやった。
「大丈夫だ! 仕事に遅れは取ってないぞ。在宅であれだけの記事が書けりゃ、誰もブランクなんて感じたりしないさ。ま、敏腕編集者のオレが側についてるからなんだけどな!」
絵梨香は笑顔で頷いた。
電車に乗り込み、車窓に流れる景色を、絵梨香は終始ぼんやりと眺めていた。
降車駅のホームに降り立った時、絵梨香はようやく口を開いた。
「何もかも……元通りよね。夏が来る前のあの平穏な毎日が、また過ごせるんだわ。蒼汰のお陰。ありがとう」
絵梨香からそんな確信をついた言葉を聞いたのは、事件以来初めてだった。
たじろぐ思いを押さえながら、蒼汰は満面の笑みで応える。
「な、なんだよ、礼なんて言うなよ。絵梨香、それだけじゃないぞ、むしろパワーアップなんだからな」
「うん」
「だから……なにも心配しないでさ、出社するんだ」
「うん。ありがとう」
蒼汰は眩しげに絵梨香を見つめながら、何度も頷いた。
改札を出て、蒼汰の出版社がある北口とは反対側の南ロータリーから続く連絡橋越しに『
絵梨香は軽く手を振ると、一人くるりと背を向けて『ファビュラスJAPAN』へ靴を鳴らし始めた。
ガラス張りの窓に眩しいほど朝日が反射する光が、まるで差しのべられた手のように見えて、絵梨香がそれに飲み込まれていくような錯覚に陥る。
「かぐや姫か! っつの!」
そう言いながらも、蒼汰は一つ任務を終えたかのように、大きな溜め息をついた。
絵梨香の姿がすっかり消えたところで、
社に入って早々会議を二つこなし、数時間が経過するも、蒼汰はそわそわしっぱなしだった。
事件後の初出勤。
絵梨香にとって療養期は長く充分に感じられただろうが、蒼汰から見ればまだまだ危なっかしく見切り発車に近い感覚があった。
こんな日に限って会議が立て込んでおり、落ち着かない蒼汰は身体が空く度に絵梨香へメッセージを送っていた。
何度目かのメッセージを送った直後、絵梨香から直接電話がかかってきたので、あわててスマホに耳を当てる。
聞こえてきた声は絵梨香のものではなく、その意外性に驚いて、蒼汰は落としそうになったスマホの画面を確認した。
「こら! うちの社員にプライベートなメッセージをいくつも送りつけるなんて!」
「え……ええっ! ゆ、由夏姉ちゃん?!」
「ったく、変な声出してんじゃないわよ!」
後ろから絵梨香の笑い声が聞こえてくる。
「ご心配なく、絵梨香はしっかり働いてるわよ。っていうか、あんたもちゃんと仕事しなさいよね! さっさと仕事を片付けて、18時には迎えに来なさい! わかったわね?」
「あ……あの、なんで由夏姉ちゃんがそこに……」
「は? 返事は!」
「あっ! はっ、はい!」
「よろしい。会社の前で待ってるわ。もう『ルミエール・ラ・コート』予約してあるの。じゃあね」
「あ……」
切れた画面を見つめながら、蒼汰は大きく溜め息をついた。
「びっくりした……」
確かに
そう言った波瑠にメッセージを入れると、すぐに返信が来た。
何故か由夏の帰国を知っていたようで、『ルミエール・ラ・コート』を予約したのは波瑠だったらしい。
蒼汰は首をかしげる。
「変だな……波瑠さん、昨日の夜はそんなこと言ってなかったのに……ということは帰国は今朝?」
もう一度メッセージを送り波瑠に訪ねると、自分もさっき連絡もらったばかりだと返信が来た。
「ふーん、波瑠さんもまだ会っていのか……あの二人、久しぶりの再会だよな。盛り上がるんじゃねぇの!」
ニヤリとしながらも、絵梨香の
第146話『For the first time in a long time』-終-
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