第145話 『Want to make you feel better』

蒼汰の気配を感じながらも、なかなか寝付けなかった波瑠が眠りに落ちた頃、外はもう白み始めていた。


誰かの肩に手を伸ばしかけたところで目が覚めた。

部屋を見回すと、いつもより少し明るく感じる。

ハッとしてガバッと起き上がった波瑠は、時計に目をやり、すぐにリビングに向かった。


そこに蒼汰の姿はなく、ソファーの横にはきれいに畳まれた布団がうず高く積んであった。


「しまった、起きれなかったか」


蒼汰がここに泊まるようになってから、一度たりとも見送らなかった日はなかったはずだった。


「ああ……コーヒーも入れてやれなかったな」


ため息をつきながら、波瑠は音のないリビングを見回し、静かにキッチンに向かうとコーヒーを挽き始めた。


寝不足のせいか、目の奥に痛みがある。

二日前の零の沈痛の「すみません」との謝罪の言葉、そして昨夜の由夏の憂いを帯びた「ごめんなさい」という声が、耳に残ったまま、波瑠の心を揺さぶる。


目を閉じると、昨夜『Rude Bar』に訪れた時の蒼汰の複雑な表情が浮かんで、また波瑠は首を振った。


「俺は、何をしてやれるんだ…….」


コポコポという音と共に湯を吸い込む豆を見つめながら、波瑠は深呼吸をして、心を澄ませる。

充分蒸らしたあと、香りを確かめるように、コーヒーカップを持ち上げた。



その時インターホンが鳴った。

早朝の訪問者を不信に思いながら、カップから顔を上げる。

蒼汰が戻ってきたのかもしれないと思った。

今日は絵梨香の出勤日だ。

彼女を見送りついでに、寝坊した自分をいじりに来たのかもしれない。

そう思いながら、そのままインターホンの前に立ってモニターを覗いた。


「ん?」


そこに立っていた人物を見た波瑠は、カップを落としそうになって 慌てて見直す。

そして息を整えた後、通話ボタンを押した。


「由夏……さん?」


モニターの向こうで少し神妙な顔をした相澤由夏がちょこんと頭を下げた。



玄関を開けると、由夏は申し訳なさそうな表情で立っている。


「おはよう、由夏さん」


「あ……おはよう。ごめんね……朝から押しかけて……スマホにも電話したんだけど電源が切れてるみたいで……ちょっと勢いで出てきちゃったから、どうしようかなって思って……迷惑だとは思ったんだけど、直接来ちゃった。あ、ああ、あげてもらわなくてもどっかその辺のカフェでも……話が出来たらいいなと、思ったんだけど……まあ、朝早くからそれも迷惑だろうし……あ、出直しても……」


波瑠は優しい表情のまま、由夏の腕をつかんだ。

「何言ってるの。迷惑だなんて。どうぞ」


「いいの? 上がっても……」


「いいに決まってるでしょ。あ、もしかして何か疑ったりとか……?」


「そういうわけじゃ……じゃあ、お邪魔します」


「適当にかけて」

そう言ってリビングに由夏を促して、波瑠は再びキッチンでコーヒーを淹れた。


「いい香りね。波瑠くんのコーヒー飲むの、久しぶりだな」


「そうだね」

そう言いながらカップを由夏の前に置いた時、由夏の視線がソファーの横に積まれた布団に移った。


「あ、これはさ……」


「分かってるわ」


「えっ、分かってるって……どういう」


「他の女性が泊まったなんて思ってないわよ。実は……さっき見ちゃったの。蒼太の姿をね」

由夏は確認するように波瑠の顔を覗き込んだ。


「私は大通りのコンビニにいたの。そしたら川沿いの道を蒼汰が上から降りてきて……思い当たるとしたらここしか考えられなくてね。こんなに朝早くに、カサブランカレジデンスにいるはずの蒼汰があんなところに居て、そしてここにあるこの布団の山を見たら答えは出たようなものね。それで……毎日なの?」


「まぁ」


「そう……」

由夏は俯いた。

「何かあったのか聞いてもいいかな?」


波瑠はコーヒーを促した。

そして同時にカップ置いたタイミングで、蒼汰がここに通うようになった経緯を話し始める。

由夏は膝に手を置いたまま、神妙な表情で何度も頷いた。


「何か大きなことが起こったわけじゃ……ないと思う。蒼汰と絵梨香ちゃんは会えばいつも昔のまま変わらず仲良くやってるよ。ただ訳は聞かないでほしいと蒼汰に言われてね。だからなにも聞かないまま、こんな生活が始まったんだ。だからこれは推察ではあるけど……蒼汰は絵梨香ちゃんとの楽しい毎日に、自分の体が馴染んでいくことに恐怖を覚えているんじゃないかと……俺にはそう思える」


「蒼汰……そうだったの。で、絵梨香は気づいてないの? 毎晩なんでしょ?」


「天海病院で処方されている薬の事は俺も天海先生から話を聞いてるんだけど、睡眠作用もあるから起きないはずだと」


「でもだからって、こんな生活をずっと続けてちゃ……」


「確かに。蒼太の心身的負担を考えればやめたほうがいいと思って 何度か言ったんだけどね。まあ、面倒くさいぐらい真っ直ぐなヤツだし」


「そうよね」


「それに、絵梨香ちゃん、零について何一つ聞いてこないって。蒼汰はそんな絵梨香ちゃんを見ながら、彼女の思いの深さを感じたんじゃないかな」


由香は俯いたまま何度も頷いた。


「俺も、由夏さんに聞きたいことがあったんだけど」


「……なに?」


「零と会ったんでしょ? 空港で」


由夏は顔を上げ、目を伏せて笑った。

「ああ……やっぱり、わかってた?」


波瑠は頷いた。

「健斗さんから零のフライト便を聞いたんだね」


由夏はふうっと息をつく。

「全部お見通しね。なんだか波瑠くんも零くんみたいになってきたんじゃない?」


「それで? 零からは、期待通りの答えを?」


「ああ、今度立ち上げる出版社のファッション雑誌のモデルをお願いしたら、あっさりと断られたわ」


「そう」


「……ごめんなさい。冗談はさておき……波瑠くんはそれを聞いてどうするの?」


「俺は由夏さんがそれを聞いて、どう思ったのかなって」


由夏は大きくため息をついて、カップに手を伸ばすと、コーヒーを飲み干した。

「この味に似てる。コク深くてすこぶる美味しいけど、酸味があって、そして苦いわ」


「おかわりはいかが?」


由夏は波瑠を見つめて頷いた。


「じゃあ、酸味も少ないまろやかなコナコーヒーにしよう。バニラマカダミア。買っといて良かったよ」


キッチンに立ち、コーヒーミルで豆を挽く波瑠の姿を、由夏はじっと見ていた。

規則的な音とともに漂い始める甘い香りは、コポコポという音と共に芳醇な香りに変化し、由夏の心を癒す。


波瑠が持ってきたカップをそのまま受け取り、鼻先にくゆらせると、由夏はその香りをスーッと吸い上げてから空港での零の様子を話し始めた。


「でもね波瑠くん、零くんと会ったことは、蒼汰と絵梨香には言わないつもりなの。零くんに、そう約束したから」


テーブルに戻したカップを見つめながら、由夏はか細い声で聞いた。

「波瑠くん、どうすればいい? それぞれの思いを知ったところで、私にはどうすることもできないわ」


波瑠は由夏のその華奢な肩に手を伸ばした。

ハッとする。

その光景は、さっき目覚める際のものと寸分違たがわなかった。

波瑠は更に手を伸ばし、由夏の肩にそっと置いた。

「周りの人間がどう動こうが、なるようにしかならないよ。かくいう俺も、ヤキモキしてる。わかってはいるんだけどね。助けになりたいって思えば思うほど、非力だと感じるんだ。誰かが操作出来るもんじゃないし、決めるのは当事者だから」


「うん、わかってるんだけど……辛くて」


「それで彼らに会わず、先に俺のところへ?」


「ごめんなさい……」


「また謝る……困った人だな」

波瑠が由夏の頭に手を置くと、由夏は波瑠の胸に飛び込んだ。


由夏をを抱きしめて、その背中をさすりながら波瑠は優しく言った。

「由夏さん、あまり眠れてないでしょ?」


「どうしてわかるの?」


「俺も同じだから。零と、そして由夏さんから電話があってから」


由夏がふっと顔を上げた。

その潤んだ目を覗き込みながら、波瑠は優しく微笑んで見せた。


「眠ってもいいよ。少しでも気を休めて。由夏さんはいつも気を張り過ぎだよ。なにもかも、抱え込みす過ぎ」


由夏は波瑠の胸に頬を寄せ、目をつぶると、背中に回した手に力を込めた。



第145話 『Want to make you feel better』- 終 -

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