第144話 『Parted at the Airport』

蒼汰は屋上に佇んでいた。

これからあらゆる出版社から集められた編集者による会議が行われ、来春の新進作家フェアのノミネート作品の捻出について結構な重要事案をプレゼンしなければならない。

蒼汰の担当する作家の命運も掛かっていることもあって、本腰を入れて下準備をしてきた大事な局面。

なのに、まるで頭を持っていかれたかのように、何も考えられなかった。

それは紛れもなく、さっき受けた零からの電話のせいだった。


「アイツ、ふざけやがって! オレに相談もなしにアメリカだと!  しかも……空港から電話してくるなんて! どうしようも出来ねぇじゃねぇか! クソッ!」


叩いたフェンスから伝わってくる痛みより、心の方が痛い気がした。


「どうするんだよ、絵梨香のことは……なぁ、零!」

空に向かって声をあげる。

遠くアメリカの地に飛び立った親友にはもう届かないのだと解っていても、更に親友の名を呼んだ。



肩を落としたまま、蒼汰は暫し俯いたまま頭を巡らせる。

そしてまた、おもむろにスマートフォンを耳に当てた。


波瑠ハルさん。あのさ……いや、ごめん、こんな時間に。寝てた?」


電話の向こうの声に寝ぼけている様子はなかった。

「いや、眠れなくてな。お前は? どうしたんだ、勤務中じゃないのか?」


「ああ……そうなんだけど」


波瑠はふうっと息をついた。

「零……だな。連絡があったんだろ?」


「えっ……あ、ああ……知らねぇよあんなヤツ。どこへでも行っちまえってんだ!」


「蒼汰……」


心配そうな波瑠の声をかき消すように蒼汰は大袈裟に声をあげる。

「あ! ひょっとして波瑠さんにも? そっか、それで寝られないとか……」


「まぁ。その後、人と電話してたのもあってな」


「ふーん……そっか」


波瑠は静かな声で言った。

「蒼汰、落ちてるんだろ? 強がるな。零と何を話したんだ?」 


蒼汰は観念したように息を吐いた。

「理由がどうとかっていうより、何もかも気に入らない! アイツさ、搭乗寸前に電話して来るんだぞ!」


「お前を空港に来させないためだな。まぁ、零らしいな」


「感心してる場合じゃないだろ!? 絵梨香の事も考えないでさ!」


荒ぶる蒼汰をよそに、波瑠は依然、静かな調子で尋ねる。

「蒼汰、今夜はカサブランカレジデンス絵梨香のマンションに帰るんだよな?」


蒼汰はばつの悪い声を出す。

「あ……波瑠さん、もう一日……絵梨香のことお願い出来るかな?」


「どうした? なんで帰らないんだ?」


「いや、それは……残業になりそうで……」  


「本当にそれだけか?」


そう聞かれて、蒼汰はトーンを下げた。

「波瑠さん……」


「確かに、零の行動はお前にとっちゃ突拍子もないことに映るだろうが、零は零で着々と準備してたんだ。 今朝から俺の所に一体何人からの電話があったと思う? 零を皮切りに、健斗さん藤田所長に高倉さんもだ。健斗さんには今後の行きさつも割と詳しく話してるみたいだったが、高倉さんと佐川さんには零は直接電話をしないで、警察署に松山さんがやって来て説明をしたそうだ」


「え……」


「俺たちが思ってたよりも、零の意思は固かったみたいだな」


蒼汰は手すりにもたれて、大きく息をついた。

「確かに……アイツ言ってた。"来栖零でいられる時間は限られてるから、最後の使命をアメリカで全うしたい" って。オレは……"そんな使命なんか、亡くなった婚約者は望んでないだろ" なんて……言っちまったけどさ……」


「蒼汰、お前の気持ちは零には伝わってるさ。少し時間を置こう。冷静を保ってても大きく環境が変わるんだ、零自身もあちらで落ち着くまでは、まともにこれからの事を考えたり出来ないだろうから」


蒼汰はしばらく頭を巡らせる。

「そりゃそうだな。オレならとっくにバーストしてる」


波瑠は改めていた。

「じゃあ蒼汰、お前が今日帰らない理由は、まだ残ってるか?」


「あ……それは……絵梨香に何て伝えていいか、分かんなくてさ」


「まぁ絵梨香ちゃんは元気に見えてもリハビリ中だしな、今日の今日に話すわけにはいかないだろ。けどまぁ、お前が心配してるのは大方、彼女の前で自分が不自然な態度をしてしまわないかどうかって事なんだろ? ちがうか?」


「……波瑠さんにはかなわないな」

スマートフォンを耳に当てたまま、蒼汰はポケットに手を突っ込んで俯いた。


「なぁ蒼汰、絵梨香ちゃんさ、明日久しぶりに出勤になったんだ。聞いてるか?」


蒼汰は顔を上げる。

「いや? え、何でそんな急に?」


「由夏さんが帰国することになったらしい」


「え? いつ?」


「それは知らされてないが……健斗さんの話だと、幾つか国内で商談をまとめてからこっちに戻るらしい。来週早々に会議があるらしいから、その頃かもしれないな。『ファビュラス』のスタッフが慌てはじめたみたいでさ。急に召集がかかったって、絵梨香ちゃんが昨日、嬉しそうに話してた」


「そうなのか……知らなかった」


「お前が帰ったら話すつもりなんだろ」


「そう……かもな」


「蒼汰、今夜は帰ってやれ。ネタバレになるんだけどな、絵梨香ちゃん、お前に夕食作りたいって言うからさ、昨日買い物に付き合ったんだ」


「えっ……そうなんだ……」


「彼女にしたら、仕事に復帰できることも、由夏さんに会えることも、お前と共有して一緒に喜んでもらいたいんだよ。わかるだろ?」


蒼汰は手摺てすりから身を起こした。

「ああ……わかった。今夜は戻るよ。でもさ、また……」


「わかってる。深夜はまたうちに来るんだろ。お前の布団はクリーニングしといてやったぞ」


「ありがとう、波瑠さん」


「ああ。それと、由夏さんが戻った時にみんなで食事に行こうって話が出てたから、絵梨香ちゃんと相談するといい」


「そっか、わかった。ねぇ波瑠さん……」


「ん?」


「その……ありがとう。オレ、まだうまく自分の気持ちが処理できてなくてさ……」


「ああ。お前だってリハビリが必要なんだ。零の件は少し置いておいて、二人がそれぞれ生活基盤を取り戻すのが先だろ?」


「うん。そうだな」


「だったらさっさと仕事を片付けて、早く帰ってやれ。絵梨香ちゃんの嬉しそうな顔を見たら、お前のモヤモヤなんて吹っ飛ぶさ」



午後の会議を無事に終え、定時に会社を出た蒼汰は、絵梨香の好物の 『CatherineキャサリンFieldフィールド』の 紙袋を手に、カサブランカレジデンスに帰った。


七階のエレベーターホールから真っ直ぐ玄関ドアに向かうと、ほんのりとスパイシーな香りがした。


「ほぉ、なるほどね」

蒼汰の頬に自然と笑みがこぼれた。

そして玄関に駆け寄ると、久しぶりのような感覚を抱きながらインターホンを押す。


「ただいま!」

そう言えることに喜びを感じる。


「おかえり、蒼汰!」


エプロン姿でそう迎えてくれる絵梨香の笑顔を見ると、この時が永遠に続けばいいと思った。

このまま、何もかも忘れることが出来たなら……


「どうしたの?」


「ああ、いや……あ、ほらこれ! 絵梨香の好きな『CatherineキャサリンFieldフィールド』だ」


「わぁ! ありがとう。食後のデザートにうってつけね」

絵梨香は嬉しそうにその紙袋を受け取った。



荷物を置きに部屋に戻った蒼汰は、ベッドメイキングされた布団を見つめた。

今夜も使用者の居ないままのこのベッドを適度に乱して、ここを後にする。

波瑠の家に行く身支度として、早く帰るために残してきた仕事の道具を、パソコンと共にバッグに詰め直した。



「絵梨香のカレーはホントにおばさん譲りだよな? 子供の頃に絵梨香ん家で食べたのとおんなじ味だ」


「そうね、カレーは私がママに教えてもらった料理の中でも、一番好評だったから」


「好評……? 誰にだよ?! あ! わかった! 大学に入ってすぐに出来たあの彼氏か! そうだ、絵梨香、オレに毒見させたよな!」


「もう! 変なこと思い出さないでよ!」


睨む絵梨香に、おどけた顔を見せながらも、芳醇な香りと共にほんの少し残っていた苦い思い出が心をつついた。



その夜、蒼汰は波瑠のマンションではなく、『LUDE BAR』のドアチャイムを鳴らした。


「随分早いなあ。絵梨香ちゃんはもう寝たのか?」


「ああ、明日は久しぶりの出勤で準備に手間取るかもしれないからって、早々にね。しっかり薬も飲んだ」


「そうか。由夏さんの話は?」


「うん。ある程度は聞いた。とりあえず、日程が決まったら『ルミエール・ラ・コート』予約しようって。波瑠さんも来れるだろ?」


「ああ。楽しみだ」


「うん」


「蒼汰、そろそろ店は閉めるけど、どうする? 今夜はもう少しここで飲んでいくか?」


「いや、 実は会議資料持って帰っててさ。今日は絵梨香のカレーと話に存分に付き合ったから、仕事しないまま来ちまった」


「そうか、そりゃ大変だな。じゃあ、さっさと閉めて帰ろう」



帰宅と同時にパソコンを開く蒼汰に、波瑠はコーヒーを入れてやり、キーボードの音を背に自室に戻った。


寝不足のはずなのに、ちっとも眠気はやって来なかった。

それは昼間、蒼汰との通話を終えた直後に、かかってきた電話のせいだろう。



「……波瑠くん」


「由夏さん?! 久しぶり……こんな時間にどうしたんですか? そっちは深夜でしょ」


「あ……実は今、日本なの」


「え?! 近々帰国だとは……健斗さんから聞いていましたけど……」


「そうなんだけど……ごめんなさい。波瑠くんに言わないまま」


「そんな、謝ることじゃないでしょう。嬉しいですよ。それで……いつ、会えますか?」


「あ……ごめんなさい。まだ何ヵ所か行かないといけない所があって……ちょっとイレギュラーな帰国だったから。でも近いうちにそっちに一旦は戻れるわ。あまり長居はできないけど……ごめんなさい」


波瑠はふうっと息をつくと、優しいトーンで言った。

「謝ってばかりだ。どうしたんですか? 帰国したのに元気がないわけは?」


「あ……今は話せなくて……約束したから。あ! ごめんなさい、私、訳の解らないこと言ってるわね」


「また謝る。由夏さんは、元気なんですか?」


「ええ」


「ならいいんです」


由夏の後ろでアナウンスが流れた。


「え? 今、空港ですか?」


「ああ……そう。これから国内線の乗り継ぎがあるの」


「これから? 何処へ?」


「ああ、関西へ」


「そうなんですか」


「あの子達の状況もゆっくり聞きたいんだけど、今ちょっとバタバタしてて……落ち着いたら連絡するわ。私も……聞いてほしい話も、あるし」 


「待ってます。由夏さん、俺が由夏さんの帰国を他の人から聞くことを気にして電話してくれたんでしょ?」


「ええ、ごめんなさ……」


波瑠は由夏の言葉を遮る。

「いいんです。忙しいんだから、あまり無理しないで。蒼汰と絵梨香ちゃんは元気ですよ。俺がしっかり見守ってますから」


「ありがとう」


「しっかり食べて! あ、でもお酒はほどほどにね。俺はいつまででも待ってますから」


「波瑠くん……」


「じゃあ、いってらっしゃい」



真顔に戻った波瑠は、暗くなった画面をしばらく見つめ、一人呟く。

「空港……」


関西に行くのなら、直接関西国際空港を使うはずだった。

でも先ほど由夏の声の向こうに流れたアナウンスは羽田を示していた。

由夏は零に会うために、わざわざ羽田に寄ったのかもしれない。

健斗が自分より先に由夏の帰国を知っていたことに、少し違和感を感じていた波瑠は、それでようやく腑に落ちた。


由夏は零と何を話したのか、健斗は何を話させようとしたのか、そして、由夏はなぜその事を自分に話さなかったのか……


ベッドに寝転んで天井を見つめたままの視線を時計に移すと、もう何周も針が回っていることに気がついた。

何度もごめんなさいと言った由夏の声を胸に抱いて、波瑠は静かに目をつぶった。


第144話 『Parted at the Airport』- 終 -

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