第143話 『decision in the airport』

零は一人空港にいた。

大きく切り立ったロビーの窓から、朝日を浴びた機体が美しく並ぶ様を見ながら、ふと空を見上げる。


「あーあ、まるで "この空を見上げるのはこれで最後かぁ" とでも言いそうな顔よね?」


後ろから聞こえたその声に、零は振り向いた。


「あら、違ったわね。アメリカに行っても空は一緒か?」


零の驚いた顔を見て、声をかけた主は嬉しそうに笑った。


「あはは! 天才のあなたでも予見出来ないこともあるのよね。そんな戸惑った顔を見るのは初めて……じゃなかった。二回目かしら?」


「由夏さん……」


由夏は自分のスーツケースのハンドルから手を離して、一歩零に近付いた。


「ほら、春だったかな? そう、あなたが絵梨香のことをこっそりつけてて、マンション前で私に見つかっちゃったでしょ? あの時もあなた、そんな顔してて……それでちゃっかり取引して、サマコレのモデル、引き受けてもらったのよね!」


「……藤田先生ですか。俺がここに居る事を教えたのは」


由夏はふうっと息をつく。

「なんだ、すぐバレた。つまんないわ! でも私もちょうど今日帰国予定だったのよ。時間を合わせてみただけ」


「そうでしたか」


「あ、でもセンセを責めちゃダメよ。仕方ないでしょ? なにしろ私の親友の旦那様なんだから。ああ。偶然を装うつもりだったのに……やっぱりあなたには、何でも見透かされちゃうのかもね」


零は首を振る。

「いえ、わかってませんよ。どうして由夏さんがここに来ようと思ったのかが」


由夏は零を睨んだ。

「ウソつきね。本当はわかってるはずなのに」


自嘲的な表情の零を、由夏はグッと見上げる。


「まだ蒼汰には言ってないんじゃない?」


「……はい。どうしてそれを?」


「だって、もしあの子に言ってたら、今この場であなたに突っかかってるに違いないから」


「あはは。確かに」


零は窓の外に目をやりながら笑った。


「ねぇ、言わずに行く気なの? 蒼汰、怒るわよ!」


零は顔を戻して首を振る。

「いえ、離陸前に電話するつもりです」


「はは。賢明よね」


そう言って腕組みしていた由夏が、急に真面目な顔を零に向けた。


「でも、そんな賢明なあなたが、とんでもない間違いを犯そうとしてるんじゃないかって、私は思えてならない。だからこうしてここに来たの」


零はその視線をじっと受け止めた。


「そう、絵梨香の事よ。あの子が今どうやって生活してるかは、警察にも話してるから、あなただっておおよその情報はあるんでしょうけど、あの子の心の中の事まで考えたことある?」  


「いいえ」

零は表情を変えないまま答えた。


「それは……考えないようにして来たからよね?」


「蒼汰がいるので、必要ないかと」


由夏は大きく息をついた。

「あきれた! そりゃあなたは、蒼汰の気持ちも痛いほどわかってるわけだし、蒼汰が絵梨香を大事にする事も分かってるんでしょうけど。でもね、今更聞くのもバカらしいくらいだけど、絵梨香の事、ちゃんと考えてくれてるわよね?」


「俺に役割なんてありません。もう、捜査は済んだので」


由夏は目を見開いた。

「なに言ってるの! そんな筈ないわ。大切に思ってるでしよ」


「大切に思っていますよ。親友の大切な人ですから」


由夏が眉根を寄せて、零の腕に触れた。

「あなたね! 蒼汰のために絵梨香を諦めるとでも? そんなの……」


その問いに、零は何も答えなかった。


「いいわ、質問を変える。あなたにとって蒼汰はどういう存在?」


「無二の親友です。後生出会うことのないであろう、かけがえのない友人です」


由夏は更に零の腕を掴む。

「だからって! あなたは蒼太のために絵梨香のこと……」


零はその言葉を遮って、また首を振った。

「由夏さん」


その言葉尻の強さに、由夏は息を飲む。

「零くん……私は……」


「ご心配には及びません。俺は大丈夫です。絵梨香……彼女も蒼汰といれば 心が落ち着いてくるはずです」


由夏は目を伏せながら大きく横に首を振る。


「いいえ零くん、絵梨香の気持ちはそんなに単純なものじゃない。私は同じ女として、あの子の気持ちが解るの。絵梨香がどれほどあなたを思ってるか……それに、あなただって! 零くん、私を見くびらないで。忘れたの? あなたが絵梨香を守ろうとして、毎日毎日私に連絡をよこして、秘密裏にあの子の行動を見張ってたこと。気持ちがなきゃ出来ない筈よ。もう言い訳なんて通用しないんだから!」


零は表情を見せないまま、じっと由夏を見下ろしている。


「余計なことはしないわ。だけどね零くん、あの子がもし、あなたを諦めないと決めたら、私は惜しみなく協力する。それが仮に甥っ子が切ない思いをすることになってもね。思わない? 何よりも勝るのは、真実でしょ? あなたのお得意の事件もそうであるように、愛だって真実が勝つのよ。だから! 忘れないで。あなたのシッポを掴んでいる人間が、ここに居るってことをね!」


零は深呼吸するように肩を上げ、大きく息をはいた。

「まいったな……」


そう言ってまたさっきのように、窓越しに空に目を向けた。


「それでも……行くのよね?」


「ええ」


「絵梨香に告げずに?」


「すみません」


「全く……あなたって人は」


由夏は溜め息混じりに笑った。

ついて微笑む零の顔を、まじまじ眺める。


「あなたの笑顔が見られてよかった。だってね、私、この業界で長年スカウトしてきたけれど、その中であなたが一番スペックが高かったの! ホント、うちの専属モデルに使いたいくらいなのに……こんなにイイ男が、無骨な犯罪心理学者になるだなんて……勿体ない! ねぇ、内々の話なんだけど、今度雑誌を創刊する話があるの。新たに出版社を建てるのよ。その名も『相澤出版』。すごいでしょ? 絵梨香と一緒にやっていくつもりよ。零くん、一度でいいからあなたもモデルとして出てもらえないかな? 人気にんき出ると思うんだけど!」


「由夏さん、いくら由夏さんの頼みでも、それはちょっと……」


「えーっ、本当に惜しいわ、もう!」


二人はお互いに笑顔を投げ合った。


「そろそろ蒼汰に電話するのね?」


「はい」


「だから私は退散してあげたいんだけど、どうしても聞かなきゃ帰れない事が一つだけあるの。聞いてもいい?」


「何ですか?」


由夏は真っ直ぐ零を見据えた。

「今がどうとは言わない。あの時の、あなたの絵梨香への愛は、本物だった? 私はそう感じた。強くね。それは、間違いないわよね?」


返事のない零に、小首をかしげて見せる。

「あら? 答えるまで帰らないけど? なんなら飛行機にも乗せないわよ!」


零は観念したように目を伏せた。


「間違いありません」


「ようやく自白したわね」

由夏は零の胸を叩いた。


「今日ここであなたに会った事は、絵梨香にも蒼汰にも言わないわ。あなたたちが今複雑で、それをほどくのにどれだけ時間がかかるのか、誰にも分からない事だけど……でもね零くん、きっと運命はあなたたちを真実に導くはずよ」


由夏はスーツケースに手をかけた。


「由夏さん、お元気で」


「ええ、あなたこそ。海外での活躍を陰ながら応援してる。さっき勿体ないナンテ言っちゃったけど、あなたの成功を祈っているのは本心よ」


「ありがとうございます」


「それに…… 今からが厄介よね? 蒼太の怒ったところ、想像するだけでも恐ろしい」

由夏は大袈裟に肩をすくめて見せた。


「ええ、全くです」


「あなたは怒られて当然だけど、私だってね、きっと散々愚痴に付き合わされるんだから! 責任を感じてほしいわね」


「はい、申し訳ありません」


「じゃあね、零くん」


由香は零の首に腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。

そしてにっこり笑って見せると、手を振りながら背を向けた。


零はその後ろ姿を、いつまでも見送っていた。


そして彼女が見えなくなると、おもむろにスマートフォンを取り出し、耳に当てる。


ワンコール終わらない程の速度で、電話がつながった。


「もしもし……」

電話口から重苦しい空気が漂ってくるのを感じる。  


「実は、今から……」

零のその言葉に被さるように、蒼汰はまくし立てた。


「零! お前、どういうつもりだ! お前がグズグズしてるから、絵梨香は一向に元気を取り戻せないんだ! 預かってるオレの身にもなれよ!」


「蒼汰……」


「事件が解決したなら、早く絵梨香を迎えに来いよ! そしたらオレも……」


「それは出来ない」


遮られた蒼汰は、零のその言葉に驚いた。

「は? なに言ってんだ? 零!」


「俺は誰かの人生は背負えないし、寄り添ってもやれない」


「な、なに言ってんだよ。絵梨香の気持ち知ってて……」


「資格がないんだ。俺は誰かを幸せに出来ない」


零の後ろで空港アナウンスが流れた。


「ちょっと待て。零、今どこにいる? まさか……」


「ああ、これからアメリカに発つよ」


「はぁ! なんだと! 勝手なことを」


荒ぶる蒼汰に、零は静かな声で言った。

「蒼汰、聞いてくれ」


「なんだよ!」


「俺は日本を離れる。ただ単に離れるだけじゃない。来栖零としていられる時間も限られてる。俺はその時間をアメリカでまっとうする。それが今俺が出来る最後の使命だからだ」


「使命だと……お前はそうやってまだ自分を縛るのか? そんなお前を見て、亡くなった婚約者が喜ぶとでも思ってんのか? そんな使命感なんて、誰も幸せになんねぇじゃないか! 今も現に、こうしてる間にも絵梨香は……」


「蒼汰!」


零はまた蒼汰の言葉を遮った。

「悪い。もう搭乗する」


「なに言ってんだ! アメリカに行くなんてよせよ! ダメだ零! 絵梨香はもう限界なんだ! 頼むから会いに来てやってくれ!」


「蒼汰……無理だと言ってるだろ」


「零、頼むよ。あいつは……絵梨香は」


「蒼汰……幸せになってくれ。すまん、じゃあ」


そう言って零は耳からスマートフォンを外した。


最後に聞こえた自分の名を呼ぶ親友の声が、頭の中で何度も繰り返された。


きつくつぶったまぶたが震えているのがわかった。

零は伏せた目の上に手を置いて、くうを仰ぐ。


そこには、あらゆる美しい光景とその傍らで微笑む絵梨香の姿が浮かんでは消え、零の胸を更に締め付けた。


それを裁ち切るように、眼力を込めた目をゆっくりと開いた零は、感情を拭い去り、無表情なまま搭乗口へ向かって歩き出す。


もうどんな景色も、人の声も、零の中には入ってこなかった。


第143話 『decision in the airport』 - 終 -


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