第142話 『執事の伝言』
部下に来客だと聞かされて、二人は名前も聞かず足早に会議室に向かった。
その人物を見て思わず高倉が声を上げる。
「松山さん! どうしたんですか……こんな所にいらっしゃるなんて!」
仕立てのいいスーツに身を包んだ気品のある初老の男性は、柔らかく微笑んだ表情を少し引き締めてから言った。
「
高倉は手をつけられていないコーヒーの簡易カップを下げて、部下に耳打ちをしてから松山の方に向き直った。
「すみません、こんなものを。なんせ無骨な男所帯なもので……」
高倉が恥ずかしそうに言うと、松山は上品な笑顔で頭を下げる。
「お忙しいお二人に、断りもなく勝手に出向きまして、こちらこそ申し訳ありません。何とぞおかまいなく」
特別珍しい来客から「
「松山さん、以前は大変お世話になりました。御馳走になった上にあの豪邸に泊めていただいたのですから」
「いいえ。とても楽しい夜でした。
ノックの後、女性
「僕、こんなに鮮やかな黄緑色のお茶、見たことがありません」
高倉がまた恥ずかしそうにしながら、佐川をたしなめる。
「こんな所でも一応来客用のお茶くらいは用意してあるんだ。普段俺らが
三人同時に茶碗を持ち上げる。
「うわ! 何ですかこの甘味と渋味のハーモニー!」
高倉は今度はその頭をはたいた。
松山は笑いだし、二人を微笑ましく見た。
「ほう、こちらは八女玉露ですね」
「そうなんですか? 俺たちは普段、煮詰まったコーヒーしか飲んでないんで、何も分からないんですがね。お恥ずかしい話しですよ」
全員が 茶托に茶碗を戻したところで、松山が話し始めた。
「零様の……出発の日が決まりました」
「え!」
一瞬空気が止まったかのように、二人も言葉を失った。
予想はしていたものの、彼の置き手紙も状況も、ここから居なくなることを指し示しているにすぎなかった。
「ってことは、フィクサー……あ、いえ、零くんがアメリカに発つのは、もはや決定事項なのですか?」
「はい」
「そんな……さっきから失踪した零くんの手がかりはないかと、所持品を探ってたところなんですよ。全く急に消えるなんて! しかもアメリカでしょ、ひどいですよ!」
口を尖らせ言いたい放題の佐川に代わって高倉が頭を下げる。
「ったく、すみません。で……アメリカに発つ出発日が、決まったと?」
「はい、
「あ、いやまぁ、そうなんですけど。もちろん零くんのおかげなんですが……」
「そうですか。ではもう終息ということなのですか?」
「ええ、後は事務的な手続きだけですので……」
「なるほど。事件はもう零様のお手を離れたと。あの体調を崩された後も、零様は事件解決に向けて夜もろくにお休みにならず、ここで過ごしておられたのでは?」
「あ……確かに。そうですね。いくら休んでくれと言っても聞く耳も持たなかったんで……何せ彼は、物凄いスピードで案件を次々に片付けていくもんですから、把握している自分達ですら、付いて行くのに精一杯でして」
「やはりそうでしたか。零様はあの家にも帰ってきておりませんでした。別宅に連絡を入れても留守のようでしたし。それが昨夜、急にお帰りになったんです」
「昨夜ですか……俺たちに
高倉と佐川は顔を見合わせる。
「お帰りになって早々、せっせと旅支度をなさっておられて。理由を聞く私にも、色々な手配をお申し付けになるだけで、詳しくは話して下さいませんでした。ただ、お手伝いをしているだけで零様がこれからどうなさるのかは、わかりましたが」
「ああ……全く! 僕らもいつもそんな扱いですよ! 前もって言ってくれたらいいのに、わけの解らないまま散々動かされて、後になってようやく、"あ、この為にやってたのか"って気付かされる……みたいなね」
高倉が佐川を制す。
松山はにこやかな笑顔をしてから口元を少し引き締めた。
「零様とお会いすることは、もう不可能かと思われます」
「え……どういうことですか?」
「零様から、本日のアトランタ行きのチケットの手配を申し付けられました」
「え! き、今日?」
「はい。ですので、もうお会いになることはできないかと……」
「ということは、零くんは今、空港ですか?」
「はい。私がお見送りすることも拒まれて、ご自分の車で行かれました。後ほどお車を駐車場から引き取るように申し付かっています」
「そんな……」
「見送りはいらないから、お二人にアメリカ行きを告げてほしいと。そう申しつかって、こちらに参ったのです」
佐川がスマホを取り出した。
「おい、佐川! どうした?」
「零くんに電話するんですよ! 僕も高倉さんも何度も電話したのに、ずっと出ないし……文句ぐらい言わせてもらいたいですしね」
「あの、佐川様……きっとこちらの端末におかけだったのですね?」
松山は胸元のポケットから見覚えのある端末を取り出した。
「あ!」
「申し訳ありません。今、零様は別のスマートフォンをお持ちになって出かけられました。お二人にもご自分で連絡をされたらどうかとご提案したんですが、きっと零様の中でも迷いがおありなのでしょう。それゆえ、私から話してくれと頼まれたのです」
「なんだよ……それ」
「まぁそう言うな。彼にとっても辛い事件がいっぱい詰まった端末だろ? それを日本に残して新たな思いで出発しようとする零くんの気持ちも解る気がする。そうだろ?」
「そりゃ、まあ……あ、松山さん、今すぐ電話したら、零くんは捕まりますか?」
「おい、おまえ! 俺の話を聞いてなかったのか!」
秋山は時計を見ながら頷いた。
「ええ。搭乗手続きは済んでいると思いますが、あと少しは空港で過ごされる時間はありますね。かけてみられますか?」
松山は自分のスマホを操作して、零の番号を出すと、二人の方に向けて差し出した。
「では……ちょっと失礼します」
そう言いながら佐川が携帯電話に耳を当てた。
「あれ? 話し中だ」
高倉と顔を見合わせる。
そんな二人に、松山が静かに言った。
「これは憶測ですが……きっと江藤君に電話しているんだと思います」
「江藤君に?」
「ええ。伝えてくれと私に頼まれたのは高倉さんと佐川さんお二人だけです。藤田コーポレーションのCEOには、昨夜急遽アポを取って会い行かれたようですし、伊波波瑠さんには空港に入ってすぐに連絡した、とまでは聞いております。江藤君への伝言はそこには含まれていなかったので、きっとご自分で連絡されるのかと」
「なるほど」
「昨夜ご連絡されるかなと思ったのですが、まあ江藤君のことですから、連絡をしたらすぐに飛んでくるでしょうし、それを見越して、ギリギリの搭乗前に電話をしているのでしょうね」
「全く……何をやっても策士だな」
その佐川のつぶやきに、松山も微笑みながら言った。
「全くでございますね」
それから松山は二人に、零がアメリカの大学に呼ばれている経緯を話した。
犯罪心理学の論文の内、半分は実践から来ているので、"高倉さんと佐川さんには、そういう意味でも世話になった"と言っていたことも、松山は零のようすを再現しながら事細かく説明を施す。
「あともう一つ……こちらに関しては本来は詳しくはお話できない内容ではあるのですが、警察でもこの件に関してはご協力をいただいたので……」
口外のないようにと付け加えた上で、松山が話し出したのは、西園寺家の事だった。
「現在は故 西園寺章蔵氏のご長男の泰蔵氏が当主となられたのですが、泰蔵氏には跡取りがおらず、
「このままでは西園寺家の血が途絶えると……」
「ええ……それで一度、席を設けることになりまして、視察の意味合いもあったかもわかりませんが、西園寺家へ出向いたのです。御兄妹である葵様が仲に入られ、ご長男の駿様も出席され、もちろん当の零様もお呼びしましたが……忙しいという理由で参加を拒まれて。零様は“任せる”との一言を私に託されたので、会合には私も同席させていただいたのです」
「まさか零くんが、西園寺家の……」
「来栖家の人間が婚姻以外の条件で他の財閥の養子になるなど、これまで例をみない事です。当初はそんな発想すらなく、来栖家としましても、もしそのような事を持ちかけられたらお断りする方向でお話をするつもりでおられたと思います。ですが、来栖家当主も、ご長男も、自らがこの事件の概要を全て把握されているということもあるので」
「そうですね、わが日本の警視総監と警視でいらっしゃるわけですから」
「ええ。ただ単に妻のお
「つまりそれは、零くんが西園寺家の養子になるという……」
「はい。左様でございます。このような経緯で来栖家から西園寺家への零様の養子縁組の話が進みましたが、これは前例がないゆえに誰も……零様ですら予想のつかなかったことであったかも知れません。とはいえ、西園寺家の当主を継がれるご長男の泰蔵氏も、零様のご希望を尊重すると仰っていますし、その泰蔵氏もまだお若いこともあって、段階的に話を進めていくという形にとどまりました。今回のアメリカ行きも、零様を一度事件から引き離したいと
「警視総監が……そうですか。ではすぐに縁組みが行われるわけではないんですね」
「はい。数年後になると思われます」
佐川が大きな溜め息をついてから、ポツリとぼやいた。
「ああ……これで零くんはまたひとつ、僕たちから遠い存在になりましたね」
その言葉には高倉だけでなく、松山もほんの少しうつむき加減で頷いた。
第142話 『執事の伝言』ー終ー
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