第113話 『Can't Get You Out Of My Mind』

零は、車に乗って皺の入った袖に目をやった。

瞼の裏に昨夜の闇の奥に揺れる炎と、その向こうにある、絵梨香の息遣いを感じた。


胸に何かつかえたような苦しさを感じ、零は座席から体を起こして大きく息をついた……


熱い思いと共に沸き上がる苦悩と戸惑い……

同じ思いを抱いているであろう彼女を救いたくて、メッセージを送ろうとスマホを手にした。

彼女の心を癒したくて、ただその一心で……


画面に触れる寸前に、そのスマホがパッと明るくなった。

無情にも、そこには高倉という文字が浮かび上がる。


「はい。わかりました。ありがとうございます」


零はエンジンを切って、エントランスに目をやる。

スマホに目をやると溜め息をついてそれをポケットにしまった。


おもむろに立ち上がると、ジャケットを羽織った。

ボタンを止めながら数歩あるいた所で、前から視線を感じる。


「あら、今お帰り?」


「ええ、そちらも?」


零の平然とした態度に、佳乃は辟易とした表情を浮かべながらも、笑顔を作って近付いてきた。


「よっぽど大事な用事があったのね? でないと……」


「でないと? なんです?」


零が聞き返す。


「いえ、あなたの最優先事項ってなんなのかと思って」


零は涼しい顔で答える。


「ああ、西園寺家で大きな動きがあったので……」


佳乃の眉根が寄るのを確認した。


「へぇ……そう……あ、そうだ! 聞いたわ、田中さんって絵梨香さんのストーカーしてたんでしょ?」


「そんなことまで、話したんですか……参ったな……」


「口外したりしないわ! 絵梨香さん、大丈夫? 想命館に来たときも倒れちゃったし、彼女大変なんじゃないの? 彼女を抱き上げる役はまたあなた? それとも江藤さんかしら?」


「一体、どこで見たんですか? 俺が彼女を抱き上げるところを?」

 

「いえ……見てないわ。想命館のフロントの子に聞いただけよ」


「そうですか。小田原さん、あなたは6年前の 事件の犯人が、身近な田中だったことを知って、どう思いましたか?」


「……どうって……私も今日聞かされたばっかりで……」


「許せない相手に、復讐もしないまま死なれて、どう思いましたか? 俺は自分の手で殺したい人間が勝手に死んだ時、とんでもない喪失感に襲われました。なんとしてでも、もっと早く見つけて、自分の手で制裁を下せばよかったと、この手で殺せばよかったと……後悔しました」


「あなた……いつもと違う……何て言うか……」


「いや、俺はいつもこうですが。いかにも、あなたが言うような “分裂質タイプS型” らしい発想でしょう? 俺はいつも、こうやって犯人に思いを寄せて捜査しています。被害者のあなたが平然としてるのが、ちょっと不自然に見えただけです。では失礼します」


「ちょ、ちょっと! あなた……」


「まだ何か?」


「西園寺家の問題……って」


「あなたに関係が? 部外者のあなたにお話できるとでも? まあ……でも、ひとつ言えるとしたら、世の中がざわめくようなことが起きるかもしれません。では、気をつけてお帰りください。通り魔はいなくなっても、犯罪はなくならないので」


零は、大きなストライドでそこを立ち去った。




「お! フィクサー発見! え……」


「なんだ? どうした佐川」


「いえ……おそらく小田原佳乃と、予定通りうまく遭遇して話をしたんだと思いますが……」


「ああ。で、どうした?」


「小田原と別れて、こちらに向かって歩いてる時に、零くんが少し笑ってるように見えたんです。なんかちょっと、不穏な雰囲気を感じました」


「うん……俺も今日の零くんは少し違って見えるな。どうしたもんか……本人に尋ねるべきか、静観するべきか……」


零が戻ってきた。


「高倉さん、いよいよさっきの話を確かめることができそうです」


「え? さっきの話って?」

佐川が二人の顔を見上げた。


「君が、“あくまでも仮定の話だ”と言って俺に話したことだな?」


「そうです」


「何か仕掛けてきたのか?」


「ええ、動きがあるかと思います」


話が見えずキョトンとしている佐川をつかまえて、高倉は言った。


「佐川、何人か見繕って、絹川美保子の過去を探ってくれ。6年前を重点的に、そしてその時期に、小田原佳乃と何らかの接点がないかもだ」


「え? 葬儀社の小田原佳乃と、西園寺家の新婦の絹川美保子ですよ? 一体、何の関係が?」


「それを探してきてくれ」


「……わかりました」


「佐川さん、加えて、今からしばらく、この二人が接触するかどうかも調べてもらいたいです。あと、相澤絵梨香の強姦未遂事件の時の、野次馬の記録がありますか?」


「ああ多分……ビデオか写真は撮ってる筈だけど」


「その中に小田原佳乃がいないか、探してみて下さい」


「え……!」


高倉が佐川の肩を叩いた。

 

「あ……わかった、手配するよ」




夕日が差し込むように熱を帯びながら、少しずつ手すりの影を伸ばして行くのを、零はまた屋上のベンチで、一人佇んで見ていた。


捜査にこと関しては、ようやく思うように動ける気がした。

ここまでの道のりは長くもどかしいものだった。

これから、勢い付いて捜査は進展するだろう。

同時に自由になる時間も減っていくことは、目に見えていた。

それでもいいと思う気持ちがあるのは、単に捜査の進展を喜んでいるだけではなかった。


「俺は、逃げ腰になっているのか……」


どんな事件も、どんな局面も、真っ向から当たって打ち勝ってきた。

しかし……

絵梨香が、蒼汰が……

大切なもの守るのは、どんな屈強な相手と戦うよりも、苦しみを伴う。

改めてそれを知ると、それは恐怖にすら思えた。


腕時計に目をやる。

ポケットから、車の中でも見つめていたスマホを取り出し、その画面を、また見つめる。

そして、耳に当てた。



「もしもし。波瑠さん……駅ですか?」


「ああ、お前の推理通りだ。名古屋に行ってる蒼汰に頼まれて、目下、絵梨香ちゃんを待ち伏せ中だ。このまま偶然を装って、彼女と一緒に 大通りまで行くことになるだろう。で、どうした? 捜査が行き詰まってるのか?」


「いいえ、逆です」


「そうか。じゃあ行き詰まってるのは、もっぱらこっちの問題だな。絵梨香ちゃんに連絡は?」


「出来ていません」


それぞれに溜め息をついた。


「しようとトライはしたわけだ?」


「まぁ……一応」


「踏み出せないのは、お前の腹が決まってないからだろ? 恋愛に悩むのは構わないと言ったが、自分の気持ちぐらいは知っておいた方がいいだろうな。なに、確かめるのはいたって簡単だ。そうだな……例えば、このまま彼女ともう二度と二人っきりで会えなくなる、そう仮定するだけでいいんじゃないか? それに耐えられるか、そして自分ではない誰かが彼女の心も体も支配し、彼女がその相手に笑いかけ、それをお前が傍で祝福して微笑ましく見ることができるか……お前の得意な想像力を働かせるまでさ。簡単だろ?」


零は黙ったままだった。


「おいおい、零! 帰ってこいよ!」


「あ……大丈夫です」  


「脅かすなよ……ったく。さて、零、今夜は物理的に彼女に会えるのか?」


「いえ、会議が立て込んでいます。捜査は進展していますし、体はあかないと」


「そうか、じゃあ絵梨香ちゃんをうちの店 RUDE BARに誘っても構わないな?」


「ええ」


「基本的に、お前とのことは一切聞かないつもりでいる。ただ彼女が抱えきれずに話したくなったのなら、聞く覚悟はできている。複雑な立場だからね。お前が昨夜、あれから店に戻ってきたことも家に泊まったことも言わないつもりだ。お前にこんなことを言ってしまっている時点で多少矛盾もあるが、まっさらの状態で始めろよ。しがらみを考えるな。明日は会えるのか? お前が会わないのなら、また俺は今日みたいに絵梨香ちゃんを待ち伏せすることになるからな」


「明日はなんとか時間を作ろうと考えています」


「そうか。それならなるべく早く、彼女に伝えてやってほしいな。お前と同じように、いや、それよりももっと彼女は不安を抱えているだろう。わかってるよな?」  

 

「はい」  


波瑠との電話を切ってから、零はベンチに座ったまましばらく画面を見つめていた。   


そしてメッセージを開く。 

「明日、時間が取れることになった。迎えに行く」


おそらく、波瑠の待つ駅に向かう電車の中で見ていたであろう彼女のメッセージ欄には、すぐ既読がついた。


「早く会いたい」


彼女からの返信の第一声は素直な言葉だった。

後ろ暗さに支配されている自分とは違って、彼女は少なくとも、自分の心に正直で前を向いている。

零は、さらに後ろめたさを感じた。

思いが深いほど、罪深いような気持ちになる。

彼女と会えば、そしてその聡明な思いに触れれば……自分の中に渦巻くしがらみの糸を紐解くことが出来るかもしれない。

そんな希望が抱けるような彼女のメッセージが次々と送られてくる。

明日は打ち合わせの出先から直帰の予定で、その場所に迎えに来てほしいと書いてあった。

せめてその彼女の期待に応えられるように、自分の思いを彼女に理解できるように伝えよう。

そう思った。




「おお! 絵梨香ちゃん、今日は随分早いね」


「波瑠さん! 駅で会うなんて珍しいね! どっか行ってたの?」


「ああ、今日は経営者同士の会合があってね。絵梨香ちゃんと反対向きの電車に乗ってた」


「そうなんだ! 今日はお買い物大量ってわけじゃないのね」


「ははは、まだ残ってるしね。そうだ! 良かったら絵梨香ちゃん、うちの店に食べに来ない? 晩ごはん、まだだろ?」


「え、いいの?」


「いいよ! 一人じゃ食べられないし、それに昨日ちゃんとラップして冷蔵庫入れてくれたでしょ? 一緒に食べよう!」

 

「やったー」



『RUDE BAR』のカウンターには華やかな料理が並んだ。


「うわ! 今日も高級ブッフェみたい!」


いつになく彼女のテンションが高いのは、あの後すぐに、零からのメッセージを受け取ったからだろう。


明日会えることを、こんなにも分かりやすく目を輝かせて喜んでいる彼女を見ると、蒼汰には悪いが、いい時間を送ってほしいと思わずにはいられなくなる。


「今日はシャンパン開けようかな、このメニューにも会うし。絵梨香ちゃん、好きだろ?」


「え! いいの?」


「俺も飲みたいし」


「ああっ! ひょっとして!」


「なになに? 絵梨香ちゃん、今日はまた、テンション高すぎない?」


「波瑠さん! 由香ちゃんは? 何て?」


「え? そっちか……昨日停電してから由夏さんと話さなかった?」


「話したけど……由夏ちゃん心配してくれてたからだろうけど、すごい勢いで……聞こうとしたら阻止されちゃった」   


「阻止ねぇ」


「ええ、その話はまた今度って……どうして」


「あはは、実は俺も阻止されちゃって……」


「え? ええっ!」


「今ファビュラスは大きな展開を迎えているそうなんだ、それは知ってる?」


「いえ……ただ説明もなくこんなに由夏ちゃんが出張に行きっぱなしっていうのは不自然だと思ってて……」


「そうだろうね。社員の君にも秘密裏に動いているわけだから……」


「それがどうして“阻止”に繋がるの?」


「由夏さんに、“今動けるのは私だけだから、この動きを止めるわけにはいかないの” って言われたんだ」


「えっ!」


「ただ……“私って男の人の後ろを貞淑についていくというよりは思いっきり肩を並べて歩くタイプなんだけど、いいの?” とも言われた」


「え! それって……」


「ああ、俺も自分に都合のいいように解釈してる」


「やったー! やったね! 波瑠さん」


「いやいや、“やったー” は早すぎるよ、絵梨香ちゃん。由夏さんのオニのような忙しさはあなどれないからね」


「まあそうだけど、気持ちがなきゃ言えない言葉だよ! やっぱり嬉しい!」


「絵梨香ちゃんにそう言ってもらえると、心強いなぁ」


「早く “おめでとう” って言いたい!」


「あはは、そこはグッと我慢していただいて」


「もう……もどかしいなぁ」


「そう? もどかしいのは……おっと失礼」


絵梨香はパッと顔を上げて波瑠をみた。

 

「……波瑠さん」


「……ごめん……フライングか」


「ううん……」


絵梨香は息をついて視線を下げた。


「前にさ、“今、絵梨香ちゃんが心に抱いているのは、恋心なの?”って聞いたことがあったんだけど、覚えてる?」


波瑠からのその問いに頷く。


「うん。事件の翌日……退院した日だったね。あのときは……そんな感情が、自分の中に生まれて戸惑ってた。事件のショックもあったしね。ずっと心が不安定でわからない感情がいつまでも心に引っ掛かったままとどまっていることが、なんだか辛くて……胸が詰まったような、変な気持ちが続いてて」


「その時は、心の中に誰かがいるって、それが仮に恋愛じゃなくて友情でも、いいことだよね? なんて俺は言った。誰かを想って、誰かのために何かしてあげたいっていう思いには、何か特別な温度があるからって。でも、それだけじゃないな。そんな簡単な話じゃなかった。お互いに生まれていた気持ちがようやく確認出来ても、苦い思いが君たちを責めてるんじゃないかって……心配してたよ。二人は向き合っていけるのか?」


「うん、もう……はじまってしまったから」


憂いを帯びた絵梨香の俯き加減の表情は、これまで波瑠が見たことのないような美しさを放っていた。


「そうか……俺だって祝いの言葉を送りたいが……複雑な立場だな……絵梨香ちゃん、大丈夫か?」


「大丈夫じゃないよ。辛い……私も辛いけど、彼がどう思っているのか……すごく不安になる」


「そうだな、アイツは他の事に関しては誰よりもタフで冷静だが、その相手が蒼汰となれば……」


「でも、想いはお互いの心に届いたから」


まっすぐこちらを見てそう言った絵梨香のその想いを尊いと思った。


その時、テーブルに置いてあった絵梨香のスマホが明るくなって、着信音が鳴った。

 

そこに「蒼汰」という文字を確認した波瑠は、さっと持ち上げて電話に出る。

途中絵梨香に代わるも、ほとんど波瑠が話して通話は終了した。


「波瑠さん……ありがとう。なんか、ごめんなさい……」


「さあ、今日はなんだかわかんないけど、豪華なブッフェパーティーを楽しむぞ! さぁ、乾杯!」


彼女の不安を払拭するように、波瑠は明るい表情でシャンパングラスを掲げた。


第113話 『Can't Get You Out Of My Mind』ー終ー

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