第30話 『Recollections at that time』

7階でエレベーターを降りて、真ん前にある玄関扉の鍵を開け、中に入った絵梨香は、そのままドアにもたれて、しばらく立ち尽くしていた。

今日一日が、自分の中でうまく処理ができない……そんな感じだった。


リビングに戻ると、置いたままになっていた携帯電話の通知ランプが光っているのが見える。

由夏ちゃんかな、と思った。

本当は電話して、今日あった新たな事件についても話すべきだとは思ったが、また身体がだるくなって動けなくなりそうだったので、先に“今からお風呂に入る”とだけメッセージを送った。


頭から勢いよくシャワーをかぶった。

今はただ、無になりたかった。


タオルで髪を拭きながらバスルームから出てくると、また携帯電話が鳴った。

今度は蒼汰だった。


「絵梨香、大丈夫か? さっきから2回ぐらい電話したんだけど……」

「あ、ごめん。お風呂に入ってた」

「由夏姉ちゃんが言ってたから、そうなんだろうなと思ったよ」

「由夏ちゃんに連絡してくれたの?」

「ああ、あれからすぐにな」

「そっか……」

「大体のことはもうオレから話しといたから。由夏姉ちゃんは今日は絵梨香には電話はしないって言ってたよ。疲れてるだろうから、自分に説明させるのが可哀想だって」

「ありがとう蒼汰。助かったわ」

「で? 本当に大丈夫なのか?」

「うん」

「あの眠気は?」

「あれからずっとないわ、大丈夫」

蒼汰がふーっと息を吐くのが聞こえた。

「なぁ絵梨香、今日起きたことがどんなことか……分かってる?」

「ああ……」

「これは犯人からの宣戦布告だ。どれぐらい危険な事か、わかるよな?」 

絵梨香は直ぐには言葉が出なかった。

「大丈夫だ。警察がちゃんと動き出した。高倉さんもお前のこと認識したわけだから、犯人を絶対にお前に近づけないよ。もちろんオレもだ」

「ありがとう……」

「でも、絵梨香自身が意識をもって気を付けないといけないって事は、わかるな? 由夏姉ちゃんとも話してたんだけどさ、仕事から帰る時間も明るいうちにしないとな」

「うん。今日も家に着いた時間はまだ明るかったわ」

「じゃあしばらくはそれくらいの時間に帰れよ。時間が合う時はそのまま一緒に『RUDE BAR』に行こう」

「ええ、ありがとう」


ベッドに入って、今日の出来事を 思い起こしてみる。

痛みはないものの、頭は依然ぼんやりしていた。



今日は会社から一旦家に戻って、一人で軽く夕食をとってから、すぐに『RUDE BAR』に向かった。

あまり覚えてはいないが、どうも店に入って30分もしないうちに、眠ってしまったらしい。

気が付けばソファーに寝かされていて……

蒼汰に聞くところによると、完璧に寝てしまったのではなく、まるで泥酔しているかのように、薄く意識もあったそうだ。

その辺りは記憶が飛んでいる。

現に、自分が店にはいる前から既に、頭がふわふわしていて、階段さえよく見えなかった。

どうも、蒼汰と来栖零と二人に抱えられて、ソファーまで連行されたらしい。

そう思うと物凄く恥ずかしくなる。


それよりも、目が覚めた時のあの激しい頭痛……

それだけではない。

痛みと共に、耳をつんざくようなボリュームで頭の中にサイレンのような音が鳴り続ける。

呼吸が上がり、息苦しい感覚……

閃光のような何かが駆け巡る、夢とも現実とも言えないような幻覚的な映像が脳裏に浮かぶ。


私はどうしてしまったんだろう?

もはや身体的疾患だけでないことは、私にでもわかる。


そして、そこに追い討ちをかけるような、あの黒い紙……

数ヵ月前に目撃した、切り付け事件を思い出す。

ここのすぐ北の大通りで目撃した女性の、血で真っ赤に染まった左腕が、目の奥に焼き付いている。


実感はないが、あの矛先が自分に向けられたと言うことなのだろうか? 

それならば、きっと、ものすごく危険なことに巻き込まれているのだろう。


そう解ってはいるけれど……

確かに恐怖心もあるけれど……

でも。

エントランスで見てしまった、あの零の苦しげな表情が頭から離れず、何度も何度も、心があの場所に戻ってしまう。


いつも強引なほどに人を導いていく彼の、もろく弱い一面を見てしまったかのような罪悪感と、いたわりに似た不思議な気持ちが、絵梨香の心を占領した。



翌日、絵梨香が会社を終えると、ビルの前で蒼汰が待っていた。 

「絵梨香、今日は美味しいものを食べに行こう」

蒼汰は絵梨香をつれて、駅と反対方向に歩いた。

「そういえばこの辺り、もう長いこと来てないわ」

そういいながら辺りを見回すと、ディスプレイされた洋服の季節も全く変わっていた。


「そうだ! あの日以来、この道を通ってなかったわ」

そう言うと、蒼汰がくるりと振り向いた。

「そう、あの店に行こう」

絵梨香は顔を上げ、頷いた。


『ミュゼ・ド・キュイジーヌ』

そうだ、こんな感じだった。

美術館のような佇まいで、褐色の美しいフォルムのインテリアに囲まれた、落ち着いた雰囲気の空間……

ただあの日は、来栖零との最悪な対面のせいで、回りもよく見ることができなかった。


あの日と同じメニューを注文する。

銀の匙に乗せられた色鮮やかなアミューズは、口に入れた途端サーモンとオリーブの香りが広がって食欲をそそるものだった。

更に、目でも楽しめる7種類ものオードブル、レンズ豆のスープもこの上なく美味で、メインの牛フィレ肉とフォアグラのポアレは絶品だった。


「どう? 絵梨香。お味の方は?」

蒼汰が明るく聞いてくる。

「それはもう! 素晴らしいわ」

「なんか、まるで初めて食べたみたいな感想だな」

皮肉っぽく言う蒼汰に、絵梨香は豪語する。

「ホントね、あの日はここに座っていたもう一人のせいで、ろくに味もわからなかった。ああ、もったいないなぁ、こんなに美味しかったなんて」

「今日は堪能できたんだから、良かったじゃん」

「うん。サイコーね! ところで私をフッたモデルさんは、今日は? また捜査会議?」

「ああ、零もここに誘ったんだけどな。さすがにバツが悪かったかな? 断られた」

蒼汰も、あの日のことを思い出すと、笑いも恐怖も甦ると言って絵梨香を笑わせた。


食事を終えて、二人は『RUDE BAR』に向かった。


「絵梨香ちゃん、今日は元気そうだ。よかった!」

波瑠が安心したような顔で絵梨香を迎える。

「波瑠さん、昨日はごめんなさい」

「いいよ、絵梨香ちゃんは疲れてるだけなんだから、俺達に対して気にすることなんてないって」

「ありがとう。今日は美味しいディナーも食べてきたし、大丈夫!」

横にいる蒼汰が波瑠に目で合図をした。


「波瑠さん、零は?」

蒼汰の言葉に、波瑠は奥に目をやった。

奥のパーテーションが開いて、高倉警部補が顔を出した。

「こんばんは」

「高倉さん! もう来てたんですか?」

「うん、さっそくお言葉に甘えてね。相澤さん、大丈夫? 昨日はちゃんと眠れたかな?」

「はい、大丈夫です」

「何か気付いたことかあったら、どんな些細な事でも話してね、絶対だよ」

「はい、ありがとうございます」

高倉は、絵梨香の顔を見て少し安心したような表情をした。

蒼汰に向かって頷く。

「あ、どうぞ入って」

高倉はパーテーションを広く開けた。

「入ってもいいんですか?」

「もちろん! あ、相澤さんもいいかな?」

「え? 私もですか?」


中に入ると、零がパソコンに向かっていた。

眼鏡をかけて、せわしなく両手を動かしながらちらりと二人を見た。


突き当たりの壁にはホワイトボードが設置され、見覚えのある名前がいくつか書かれており、それぞれその下に、びっしり文字が書かれた紙がマグネットで貼られていた。

「わあ! 凄いですね。本当に『想命館』で見た捜査会議室みたいだ」

「そうだろ? さすがに顔写真はここには貼れないけどね」

「今どんな捜査をしてるんですか?」

「有効な証言だけ集めて、時系列を作ってるんだ。それと、証言に矛盾がないか一つ一つ裏を取ってる。あとはそれをつなぎ合わせて、犯行時刻を分析してるところだ」

「高倉さん、オレ達にも手伝えることはありますか?」

「実はそれを、零君と相談してたところなんだ。実はね、西園寺章蔵さんのこれまでの普段の生活がやっぱり見えないんだよ。僕たち捜査官が聞き込みに行くより、近親の君たちに聞いてもらうのがいいんじゃないかって話になっててね。あと、相澤さんにも、スタッフという立場から『ファビラス』の当日スタッフと『想命館』のスタッフの人達にも、もう少し突っ込んだ話を聞いてもらえたらありがたいなって思うんだけど、どうだろ? 協力してもらえないかな?」

高倉が覗き込むように絵梨香に近づく。

「ぜひ協力させてください! 私でお役に立てることがあるなら、何でもやります!」

絵梨香のその強い言葉から、章蔵に対する思いが溢れた。

「決まりですね! 何から始めます?」

蒼汰が軽快に言う。

眼鏡をかけた零が立ち上がった。

その風貌は、兄の来栖駿に少し似ていた。

「この週末、西園寺家に行こう。いいか?」

二人は頷いた。


第30話 『Recollections at that time』

               ー終ー

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