第111話 『Immorality』

ようやく零と心を通わせる事が出来た絵梨香は、玄関で靴を履く零を引き留めたい衝動を押さえながら、たまらなく切ない思いでその背中を見ていた。


パタンとドアの閉まる音がした後も、今ならこのドアを開け放って、裸足のまま外に出たら、また彼が抱きしめてくれるかもしれない……

その衝動を抑えるのが、大変だった。

絵梨香は、胸を押さえながら大きく息をついて、その場に座り込んだ。



気がつけば、南側のベランダに出ていた。


電気がちらほらともり出した、暗い川沿いに目をやりながら、彼の姿を探す。

表情など分からないほど小さな、彼の影を見つけた時の喜び……

そして追い続け、気付いて欲しくて願い続ける この気持ち……


こんなに何かに心が支配をされるのは初めてだった。

流れ出した感情というのは、こんなにもき止めるのが大変なんだと実感し、目を伏せた。


再び、見失った彼の姿を探していると、その影がこちらを向いて静止しているのがわかった。


私に気がついた。

そう思うだけで胸が踊った。

絵梨香は精一杯腕を振る。

その影もすっと腕を伸ばすのが見えた。

そして踵を返して、彼は通りの向こうに消えていった。


彼が見えなくなってからは、やはりまた経験のない虚無感が絵梨香の中に芽生えた。

ただ寂しいとか、人恋しいだけではない感情……

それがこんなにも息苦しかったり、自分を自分じゃない行動に掻き立てたりすることに、まだ気持ちがついていかない。


ベランダから部屋に入り、カーテンを閉め、ゆっくりとテーブルに戻ってきた。

日常に近い光景のなかに、また彼の残像を見てしまう。


そしてテーブルには、画面が真っ暗の携帯電話。

彼は蒼汰に電話してやってと言った。

その瞳に曇りはなかった。

言葉のニュアンスの中に、ジェラシーも感じられなかった。

彼にとって私はどういう存在なんだろう……


昨日まで、いや、ほんの数時間前まではなかった感情に翻弄されながら、絵梨香は携帯電話をじっと見つめていた。


この電源を入れて、蒼汰と一体何を話せばいいのか……

たくさん嘘をつかなければならないのに……


頭が混乱していく。



何分経ったか分からないほど、その画面とにらめっこをして、意を決して電源を入れた。


すぐに着信のバイブレーションが鳴って、落っことしそうになりながら、恐る恐る画面を見る。

それは由夏からの電話だった。

妙にホッとする自分がいる。


「もしもし、由夏ちゃん」


「もう! 絵梨香! 連絡つかないから心配したじゃない! 最初はもしかしてエレベーターに閉じ込められてるのかと思って……」


「蒼汰と同じこと言ってる」


「そうね、蒼汰に電話したら絵梨香は部屋には戻ってるって言ってたから大丈夫かなと思ったんだけど。そっちはどう? もう停電は回復した?」


「うん。さっき電気がついて」


「そっか、よかった」


「なんか電話も繋がりにくくなってたから、ほんと心配して、慌てていろんなとこ電話しちゃった」


「いろんなとこ?」


「うん、蒼汰とか波瑠くんとか、あと零くんにも電話しちゃって……」


「え?」 


「さっきまで『RUDE BAR』にいたんだよね。波瑠くんから聞いてたから……零くんに送ってもらったんでしょ? その時はまだ停電してなかったの?」


「あ……うん…… ギリギリ大丈夫だった」


「そっか」


「あの、由夏ちゃん、彼はいつ電話に出た?」


「ん? 零くん? 彼はついさっき連絡がついたところ。電車に乗ろうとしてたらしくて、電源切ってたって、言ってた。絵梨香のことはちゃんとマンションまで送ったから大丈夫だろうって、教えてくれたの」


「……そう」


心底ほっとして、息を殺しながら吐き出した。


「絵梨香、お風呂とか、まだだったらそれからでもいいんだけど、蒼汰にはもう一度電話してあげてよ。すごい心配してたから」


「分かった」


「じゃあ、なるべく早く寝なさいよ! 明日はきっと晴れるわね。私はまだあとどのぐらい帰れないかな……だけど、ちょくちょくは連絡入れるから。そっちにいなくても、ちゃんと業務報告は全て上がってくるんだからね! 絵梨香がサボってたら私の耳には入るんだから! ちゃんと仕事しなさいよ!」


「あはは、わかりました、専務。……あ! 今日は波瑠さんと……」


「絵梨香! その話はまた今度!」


「え!」


「じゃあね、絵梨香。ああ、そうだ! 蒼汰にはあなた達が『RUDE BAR』に行ってたこと、言ってないから!」


「え? どういうこと? 由夏ちゃん?」


「じゃあ、おやすみ!」


由香はそう言って一方的に電話を切った。



……気づかれてる、そう思った。




シャワーを浴びる前に、蒼汰に電話をした。


いつものように話しているだけなのに、蒼汰のその明るい言葉の裏に、なにか知ってるんじゃないかとか、気付かれているんじゃないかとか、そういった疑念が沸いた。

話の内容が頭に入ってこなくて、まともに返答するので精一杯だった。


そして優しい言葉をかけられるたびに感じる罪悪感は、予想していたよりも遥かに辛く、全て吐き出して懺悔したくなる衝動と、早くそこから逃れたい気持ちとが交錯して、酷く胸が痛み、苦しい時間を過ごした。


蒼汰と電話を終えてシャワーを浴びる。


髪に、耳元に、頬に、唇に……

彼が触れた感覚が残っている。

指には、彼の指が絡んだ感覚と、彼の素肌に 触れた感触……


まるで熱に浮かされているかのように息が短く、体は火照り、鼓動は高く耳の内側で脈打っている。

目をつぶると、すぐ近くに感じた零の息遣いや視線が蘇ってきて、さらに胸を締め付ける。


あんなに求め合ったのに、次に明るい太陽の元で彼に会っても、私たちは同じ関係なんだろうか?

自分たちの行動が、あまりにもこれまでに比べて現実離れしているようで、疑問をいだいてしまう。



これが恋だっただろうか?

もっと淡い色彩の中に、あったような……

そして気づく。

この恋が、背徳心の中にあることを……

 

そして同じ空の下で、真正面から微笑みかけてくる蒼汰の目を、私はちゃんと捉えることが出来るのだろうか……



絵梨香は髪から滑り落ちる水滴を見ながら、大きく息をついた。

混乱して泣き出しそうなこの気持ちのなかに、今ある確かな気持ちは、たった一つしかない……


最後にもう一度、彼とキスをしたかった……


ただそれだけだった。




『RUDE BAR』のドアチャイムが鳴った。

波瑠が見上げると そのシルエットがそこに突っ立っている。


「早く降りてこい! 零」


零は黙ったまま、伏し目がちに階段を降りてきた。

さっきは二人で座っていたカウンターの今度は左側に一人で座る。


カウンターにはキャンドルがいくつか並んでいた。

停電の間、波瑠もじぶんたちのように、キャンドルで明かり取りをしていたのだろう。


「一応駅までは行ったのか? 電車、止まってたろ?」


「はい。すみません」


「謝ることないよ。どうせお前は今日、自宅に帰ることはなかったはずだ」


「どういう意味ですか?」


「お前、絵梨香ちゃんを送って、駅に行ってここに戻ってくるまでに、普通なら何時間もかかんないだろ? 何かあったか……ああ、愚問か。野暮なことは聞くもんじゃないか」


そう軽く言った波瑠は零の様子を伺った。


零は依然、神妙な顔をしていた。


「ようやく……自覚したんだな?」


零は言葉を発せず、小さく頷いた。


「絵梨香ちゃんもか?」


もう一度頷く。


「めでたく相思相愛、なのに、その顔つきか……まぁ、わかるよ。俺んとこにも何度も電話がかかってきたからな、蒼汰から」


その言葉に、零が少しうつむく。

 

「絵梨香ちゃんの所にもかかってきただろう? 散々お前たちの邪魔をしたんだろうな」


「波瑠さん……」


「あ、すまんすまん。別にお前たちを責めてるわけじゃないから。蒼汰の行動は見てとれる。それはアイツがいたって直線で絵梨香ちゃんに向かっているからだ。それがお前たち二人を苦しめているんだろう。お前にしたら、つい数日前に蒼汰とこれまでの監視について話したときに、アイツを思いやって絵梨香ちゃん自身には興味がないようなことを言って、それはそれでまたアイツを怒らせて……お前の言動が蒼汰を気遣っての嘘だと言うことにも、アイツは全く気づいてない訳じゃないが、それでも二人の気持ちを突き付けることは、零にとっても絵梨香ちゃんにとっても、厳しい選択なんだろうな。だが、こうなった以上、俺にも責任はあるな。ある意味、確信犯だったから……」


「どういう事ですか」


「そもそも今日は、蒼汰に代わって俺が絵梨香 ちゃんを 駅で待ち伏せするか もしくは偶然でも装って 絵梨香ちゃん宅に送り届ける予定にしてたんだ」


零はグラスを置いて、波瑠の話を聞いていた。


「それを予定変更したのさ。警察署に寄って九条のカツサンド差し入れてお前と話してたら、絵梨香ちゃんにも美味しいものを食べさせたくなってな、それで、由夏さんに聞いた時間に『ファビュラス』のビルの前で待ち伏せしたんだ。で、ここに連れてきた。お前も招待した上でな。お前とは時間も決めてなかったし、無理に引き合わせるつもりもなかったが、会うも会わぬも運命だと思ったからな。そしたらやっぱりお前たちはここに揃った。運命ってヤツを垣間見た気がした。今この時もな」


波瑠は氷の音を立てながら、グラスを空けた。


「こんな話、聞き出すつもりはないけど、お前ら2人は晴れて結ばれたっていう感じはしないな」


零がバッと顔を上げた。


「波瑠さんにはかなわないな……」


零は呟くように言うと、視線を落としたまま頷いた。


「蒼汰を思ったら、一線を越えられなかったか。解るよ、お前の気持ちは。ただ、もう走り出してしまったのなら、そんなことはもう、たいした意味をもたない。あとは男として、絵梨香ちゃんを悲しませるようなことだけはしないことだ」


波瑠は自分のグラスの氷を踊らせて酒を注ぐと、零のグラスにも同じように流し込んだ。


「今日ここRUDE BARにお前ら2人が来てたことは、蒼汰には言ってない。由夏さんには言ったけど、由夏さんも蒼汰には言わないだろう」


零が顔を上げた。


「大人ってのはさ、自分たちのあらゆる経験上、色々な忖度が身についてるんだ。複雑であればあるほどな」


波瑠は零の方を向いた。


「複雑な立場は、当事者のお前たちだけじゃないからな。俺だって相当複雑な立場だろ? 誰の味方も応援も、無責任にはできないよ。だから今は何も言わないけどさ。だけど二人の気持ちがそこまで高まると、もうやむを得ない域に達してると思うから……だから秘密にしたんだ、きっと由夏さんも同じだ」


「すみません……俺、うまく解決できそうにありません」


「いいよ。そうやって悩んでこそ恋愛じゃないか? それでなくてもお前はさ、抱えるものが多すぎる。そしてそれらがすべて大きすぎる 正直俺じゃ無理だもんな、尊敬するよ。だからなおさら本心を言うと、お前を支える人が彼女であったらいいなと思う。そしてもうひとつ本心を言うと せめてその恋愛に関してだけは、一点の曇りもなければいいのになって……そう思っちまう」


波瑠はカウンターに乗り出すように零に近づいた。


「さあ零、今日は家に泊まれ。お前が話したかったら存分に聞いてやるし、何も話したくなければ黙って寝かしてやるよ。とにかくその濡れたシャツをさっさと着替えて、風呂に入ってもらわないと俺も気が気じゃないからな、もう帰ろう」


嵐が通り過ぎた後の街は、黒いビニールシートを敷き詰めたような煌めきと、漆黒の闇をまとって、静かに更けていった。


第111話 『Immorality』ー終ー

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