第110話 『Can't Stop Thinking About You』

カーテンを開け放った窓に張り付いて、停電で光を失った外の様子を見ていた。

仰げばすぐ近くに零の顔があり、そのしなやかな腕が絵梨香の鼓動を早めている。


稲光と共に地響きのような大きな音が耳をつんざき、体を硬くする絵梨香を、零は後ろから強く抱きしめた。


息が止まりそうになった。


絵梨香は大きく息を吸う。


「ごめん……」


後ろから耳元でそう言った零の言葉に、絵梨香は首を振った。


そして、彼の手首に触れた。

指先に力を込めて彼の手に重ねると、その力強い腕に頬を寄せた。



零が大きく息を吐く。

その裸の腕を、絵梨香の首元まで上げて、抱きすくめた。

そして、そっと身を浮かし、彼女を自分の方に向かせた。


絵梨香は背中に、ガラスのひんやりとした感覚を受けながらそっと顔を上げて、うっすら光る彼の表情を探った。

彼の目も、同じように絵梨香の顔を見下ろしていた。


しばらく見つめあった後、零は強く絵梨香を抱き締めた。

そして絵梨香も彼の胸に身を寄せた。

彼に包まれたくて。

その耳を彼の素肌に押し当て、彼の心臓の音を聞いた。

零の心の中に、自分がいるかどうかを確かめるかのように。



次の稲光が起こって、絵梨香は思わず目をつぶった。

そして、目を開けた時には、彼の顔が見えないぐらいに近くにあった。


そして……唇が重なった。


その口付けは、本当の意味で自分に向けられたものだと、実感できた。


熱く、甘い、口付けだった。


自分が、彼が、これほどまでにお互いを求めていたなんて、今の今まで知らなかった。


幾度となく口づけを交わし、二人は強く抱き合ってその存在を確かめた。



零はふわっと絵梨香を抱き上げ、かすかな炎の光を頼りに、テーブルのそばのソファーにそっと下ろす。


小さく揺らめいた光が、彼女の頬を際立たせた。

炎の映るその目の中に、自分だけを映したいと 思った。


頬にかかる髪をそっとかき上げると、彼女の肩が少しこわばって見えた。

その肩にそっと手を置いて、更に瞳を覗き込む。


「まだ……俺のことがこわい?」

彼女の頬に手をあてて聞いてみる。


「……いいえ、私がこわいのは……あなたじゃなくって、自分がどうなっちゃうかって……こと……」


零は彼女を胸に抱きとめた。


「俺も同じだ、自分が怖い。お前を俺だけのものにしたい……そう思ってる自分が」


彼女がはっとした表情で零を見上げた。

零はその顔にかぶさるように、身を屈めながら 彼女の唇を塞いだ。


何度も何度も熱くキスを重ねながら、零は倒れこんだソファーの、身体を支える自分の指が震えていることに気がつく。


とてつもない、大切な宝物を手に入れたような喜びと、そのはかなくも壊れそうな存在を失いたくないという恐怖に、胸が圧迫された。

そしてその全ての不安をかき消すように、更に 強く、彼女の唇を支配した。


最後の蝋燭ろうそくが揺らめいて漆黒の闇にその影を作る。


その時、求め合う二人を引き裂くように、ソファーのすぐ横のテーブルの上で、無機質な光を放ちながら携帯電話のバイブレーション音が鳴った。


彼らはそれに目もくれず、お互いに向かい合っていた。

音と光が消えた時の安堵感は、その空間こそ自分たちが求めていたものだと改めて気付かせてくれる。


しかし、消えて程なくして、再びその通知はやってきた。


零は彼女を寝かせたまま、その明るい画面を覗き込んだ。

それに照らされた美しい顔をぼんやり眺めていた絵梨香の目に、その表示を見た時の零の青ざめたような表情が映った。


何も言わず零は絵梨香の元にやってきて、髪を撫で頬に手を添えながら唇を奪う。


ようやく消えた光はほんの束の間で、また無情な機械音をたてて二人の間に立ちはだかる。


唇を外した零は、少しため息をついて、絵梨香の首に手を伸ばし、ゆっくりと抱き起こした。


驚く絵梨香に向かって、優しく髪を整えながら言う。


「蒼汰からだ。出てやって。心配してるんだろう」


そう言って、テーブルからスマホをそっと取りあげて、絵梨香の手に握らせて、自分は窓の方に歩いて行った。


絵梨香はうつむきながら一つ大きな息をついた。

呼吸を整えてから画面に手をやる。


スワイプして耳に当てたそこからは、心配する蒼太の声が聞こえた。


「もしもし、蒼汰?」


「絵梨香! 心配したよ、どうして電話出ないんだ!」


「あ……ごめん。音出してなくて……蝋燭ろうそくとか探してたから、気が付かなかった」


「ってことは、家にいるんだな?」


「うん。とっくに帰ってるから。心配かけちゃってごめん」


「そら心配したよ。なんせこっちは名古屋だからさ、どうもしてやれないし、どんな状況かもわからないしな。マンションについてたって、エレベーターに閉じ込められることだってあり得るわけだし、一人で暗くて怖い思いしてるんじゃないかなってさ」


絵梨香は胸が苦しくなった。

「ううん、大丈夫だったよ」

 

「そっか。でもなんか元気はないみたいだけど」


「……そりゃそうよ、これだけ雷がガンガン鳴ってるのに、小学生じゃないんだからテンション高く楽しいわけじゃないでしょ?」


「そうだな。それでも不安なんだろ? 絵里香はいつも無理するから……このまま朝まで話そうか?」


優しい蒼太の声が、ものすごく息苦しくて、絵梨香は思わず目をつぶった。


「ごめん、蒼汰。実はね携帯の充電が切れそうなの。停電してるから充電器使えなくて。ひょっとしたら由夏ちゃんからも連絡くるかもしれないし、携帯が使えないと何かと困るから……今日はやめとくね」

 

「そうだな、わかった。じゃあ、もうどうせ真っ暗なんだし、早く寝ちゃえよ」


「うん、そうする」


「じゃまた明日連絡するから。ああ、でももし、連絡したくなったら、何時になってもいいから電話してきて!」


「ありがとう」


まるで逃げるような気持ちで、電話を切って、電源をオフにした。



振り返ると零は窓の外を見ていた。

ガラス貼りの大きな窓に、すらりとした美しい シルエットが際立っていた。


蒼汰との会話を聞いてたであろうその背中は、 固く閉ざされたように見えた。


絵梨香は立ち上がって、彼の元へ歩み寄った。 そしてその素肌の背中にそっと頬をよせた。


彼は大きく息を吐いてから振り返ると、またその胸に彼女を抱き寄せた。


少し冷たい素肌の感覚を頬に感じながら、再び彼の鼓動を聞くと、心が急速に落ち着いていくのを感じる。

でも次の瞬間には、何とも言えない切ない苦しさを覚え、息が上がっていくのを感じる。


二人の中に同じ気持ちが流れていた。


もう鳴らない携帯電話……


でも、その向こうには蒼汰がいる。

どんな表情で、どんな思いで……それらがすべて 2人には手に取るように見えてしまう。


背徳心……それはもっと、甘美なものだと思っていた。

こんなにも苦く、自分を責め立てるものだとは、思ってもみなかった。


絵梨香は顔を上げた。

遠くなった稲光が、零の顔を映し出すのを待ちながら、彼の表情を確かめたくて、そしてもう一度彼を感じたくて……


暗闇の中、彼女を探すように零はその顔を両手で包んだ。

髪を撫で、耳に触れ、そして彼女を捕まえるためにまた身をかがめる。


唇が触れる寸前だった。


パチンという音とともに、周りが一気に明るくなった。

目潰しのような閃光を浴びて、二人は思わず後ろによろめいた。

あまりの明るさに、眩しくてなかなか目が開けられない二人がようやく顔を上げた。


しらけるほど煌々さんさんともった健全な明かりが、二人を責めるかのように容赦なく降り注ぐ。


零の顔がグッと上方に遠のいて、絵梨香も彼の 裸の胸に添えていた手を下し、視線を窓の外に向けた。


「……電気通ったみたいだな」


「うん。あ、ほら見て。電気がつき出してるみたい……」


窓からの景色の中に、光が次々に増えていった。

今はその景色を見ても、少しも美しいとは思えなかった。


「じゃあ……俺は帰るよ」


「え……」


「走ってるかわからないけど、まだ電車もあるし。今のうちにね」


「そう……そうね」


零は立ち尽くす彼女の横を通り過ぎて、かけてあったシャツをサッと外して、そのまま素肌に羽織った。


「まだ少し湿ってるけど、まぁこのぐらいなら大丈夫だ」


「……そう」


零は胸のボタンを留めながら、また絵梨香の前に戻ってきた。


そして自分が外した絵梨香の胸のボタンを、上まで留めた。

彼女の目の中に不安を捉えた零は、絵梨香の頭に手を置いた。


「……もう」

絵梨香の発した言葉に、零が優しく眉をあげた。

「もう……忘れてくれなんて、言わないよね?」


零は一つ息をついてから、彼女を見据えて、胸に引き寄せ、強く抱き締めながら言った。


「下らないことを言って、さんざん傷つけちまったな。俺はバカだった。忘れられないのは自分の方だったよ。苦しめてごめん。もう、そんなことは言わない。急がないで、ゆっくり進めていこう、俺達」


その言葉に胸がカッと熱くなって、泣きそうになりながら、絵梨香は両腕をぎゅっと彼の背中に回した。


零は少し笑いながら絵梨香を抱きとめて、その背中を優しくさすった。


「蒼汰に……」

零のその言葉に絵梨香は身を固くした。

それを察した零は、彼女の肩をトントンと叩いてなだめるように言った。


「蒼汰に電話してやって。あいつは本当に心配してるから」


そんなことを言う零の顔を、恐る恐る見上げた。

しかし、その顔には一点の曇りもなかった。


「うん……わかった」



玄関で靴を履く零の後ろ姿が、絵梨香をたまらなく切なくした。

この背中を自分だけのものにしたくて、見送りながらも何度も引き止めそうになって、その自分の気持ちに驚いた。


溢れそうな思いを制しながら、精一杯、笑顔と平然を装って、その短い時間を惜しんだ。


彼の笑顔がドアの向こうに消えていき、パタンとドアの閉まる音がした時、思った。


もう一度、キスがしたかった……


今ならこのドアを開け放って、裸足のまま外に出たら、また彼が抱きしめてくれるかもしれない……

その衝動を抑えるのが、大変だった。

絵梨香は、胸を押さえながら大きく息をついて、その場に座り込んだ。


第110話 『Can't Stop Thinking About You』ー終ー

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