第109話 『A Storm Is Coming』
こぼれ落ちた絵梨香の涙を、零はその指で拭った。
本当に心を救われていたのは自分の方だったのかもしれない……そう思いながら。
零の手に、絵梨香の手が重なって、二人は見つめ合う。
瞳に映り込む自分の姿を見ながら、お互いを認識した。
その時、絵梨香の携帯電話が振動した。
二人は同時に手を引っ込める。
零は絵梨香の前に手を伸ばして、カウンターに あったミネラルウォーターのグラスを絵梨香の前に置いてやった。
絵梨香は視線を下げて、小さく咳払いをする。
彼女は少しだけそのグラスに口をつけて、今度は顔を上げて、波瑠からの電話に出た。
「もしもし波瑠さん! どうだった?」
精一杯元気な声だった。
「あはは。すごい勢いだな。内容を話せば長くなるし、ゆっくり話したいところなんだけどさ、それより外がちょっとヤバい感じになってきてるんだ。風もかなり強いから絵梨香ちゃん、もう帰った方がいい。帰り支度してて。俺、今からそっちに戻るから、零に送ってもらうんだ。ちょっと零に代わって」
絵梨香がカウンターを片付ける姿を、何気なく手伝いながら、零は見ていた。
いつも、なにかがあっても、彼女はこうやって自分を制し、無理もしながら、前を向こうと頑張ってきたのかもしれない。
泣きそうなのを我慢して見せた、さっきの繕った顔が頭を離れなかった。
平気な顔をすればするほど、
波瑠が戻ってきた。
その頃には、彼女はいつもの絵梨香に戻っていた。
「波瑠さん! あー、めちゃめちゃ話聞きたいんだけど! でも、なんか波瑠さんの表情、明るいよね? いい話聞けそう! あ! 私、絶対フライングしたりしないからね、由夏ちゃんに話聞く前に、絶対に先に波瑠さんから話、聞くからね!」
「あはは、わかったわかった。興奮しないで。ただね、外が本当にヤバい感じになってきてるし、今にも降り出しそうだから、急いだ方がいいよ。風が強くて傘をさすと危なそうだから、降る前に家に入った方がいい」
「大丈夫よ、こんな距離だし!」
「まぁ、そうなんだけどさ。とにかく気を付けてね!」
「はーい! ご馳走さまでした!」
「じゃあね絵梨香ちゃん。零、彼女を頼んだ! ちゃんと家の真ん前まで送ってきてくれよ」
「わかりました」
ドアを開けると、まるで向こうから誰がドアを開けたのではないかと錯覚するほど、強い風な持っていかれそうになった。
「うわ!」
「大丈夫か? 気を付けろ」
風の音がうねるようにピューピュー鳴り続けていた。
その風のぬるさが不穏な雰囲気を出していて、やっぱり少し怖い……
そう思って零を見上げる。
すると、見下ろした彼と視線が合った。
不安な気持ちを悟ってもらえたかのような、安堵感が生まれた。
「前にも同じような事があったよね……何か色々思い出しちゃうな」
「ん?」
「初対面の日に。まあ、初対面だと思ってた日だけど……こんなふうに送ってもらったよね?」
「ああ」
「一緒に『RUDE BAR』からのこの短い道のりだけど、不安な時にすぐ横に誰かがいてくれるっていいなって、思った。それまでそんな事を考えて歩いたこともなかったから。だからすごく覚えてるんだ。安心感っていうか……まぁ、食事が終わるまでは、本当に最悪だったんだけどね」
「意外と根に持つんだな」
「そう簡単には忘れてあげないよ!」
零も少し笑った。
あの時の彼は無表情のままだったが、今日の彼との距離は、あの日とは随分違っていた。
「ん?」
零が空を見上げた。
同時に見上げた絵梨香の頬にビタンと、大きな雨粒が落ちてきた。
「うわ!」
とたんに大粒の雨がいくつも叩きつけるように二人に向かって刺さってくる。
慌てて、すぐそばにあった小さなマンションのひさしの下に二人で入った。
地面の色が、大きなボタボタという音と共にどんどん暗くなって、やがて坂の上から雨が流れはじめ、雨足はますます強くなってきた。
「凄い……予報的中って感じ。こんなに降ったら動けないね」
「ああ。ただ……このまま待ってても、回復の見込みはないかもな」
「ホント、まだまだ降りそうだもんね。見て、この坂道、川みたいになってる。ウォータースライダーみたいにして降りる?」
そう言って零を見上げる表情に、思わず笑みがこぼれる。
「この状況で冗談言ってりゃ世話ないな」
「あはは」
その時、大きな雷の音が鳴った。
「きゃ!」
絵梨香がその場にしゃがみこみそうになったのを、零がその肩を
「大丈夫か?」
「今……絶対近くに落ちたよね? 光ったのと音がほぼ同時だったじゃない? あ! また!」
もう一度光って、直後に体の底に響くような振動と大きな避けるような音で雷が鳴った。
零の胸に当たった彼女の肩にグッと力が入るのが分かる。
「そうだな、このまま外にいたら危険かもな」
「うん、すぐ見えてるのにね……」
足元の水流はどんどん
「ねぇ、あそこまで走る間に雷に打たれたりするかな? もしそれで雷が落ちてきたら、よっぽどの確率よね?」
「よし、そうやってまだ余裕のあるうちに、思い切って走るか!」
零はジャケットを絵梨香の頭にすっぽりかけて、絵梨香のカバンを自分の胸に抱いた。
そして、ジャケットの上から彼女の両肩を掴んで、目を合わせる。
「行くぞ! Ready GO!」
川のようになった道の水を踏み散らしながら、 転ばないようにだけ気をつけて、その短い距離を走りぬいた。
『カサブランカ レジデンス』エントランスのひさしの下に入って、びしょ濡れのお互いを見ながら、絵梨香は笑い出した。
「なんか、小学生みたい!」
二人の心の中に、同時に同じ光景が浮かんだ。
西園寺家のあの夏、シートにくるまって走った小学生の二人。
そしてついこの間、小さくなったシートからはみ出してびしょ濡れになった自分たち……
一瞬、視線が絡み合う。
二人はそれぞれ、服に付いた水滴を払いながらエントランスに入っていった。
息を整えながら絵梨香は言った。
「ちょっとポスト見てくるね」
絵梨香が奥に入ってほどなく、エントランスの外から昼間のような閃光が差し込んだかと思うと目が眩むような稲光の点滅が起きた。
はっとした零がポストの方向に視線を向けた瞬間、ものすごい稲妻の爆音とともに、バチッという破裂音が聞こえ、辺りは一瞬にして闇に包まれた。
「きゃ!」
零は絵梨香の悲鳴のした方に走り出した。
「おい! 大丈夫か! どこだ? 返事しろ!」
闇が阻んで、彼女の姿が見つからないことに、焦りを感じる。
その荒い息遣いで、零は彼女を探し出した。
真っ暗なポストコーナーに座り込んでいる絵梨香を、零はグッと抱き上げた。
「大丈夫か! 転んだのか? どっか打ってないか!」
「うん……大丈夫、怪我はしてない。でも……足が動かない」
絵梨香はまるで子供のように、零にしがみついた。
頭を強くその胸に埋めた彼女の、自分の背中に回した手が、震えているのが伝わってくる。
零はゆっくりと彼女の背中に手をやった。
そして、強く抱き締めた。
そのお互いの温もりを感じながら、二人の胸の中に、なにかが
彼女の頭に手を置き、その手で優しく髪を撫でる。
その濡れた髪と、濡れた肩が、彼女の体温を奪っていくのがわかった。
零は周りを見渡す。
少し目が慣れてきた。
「寒くないか?」
「少し……」
「そうだな、だいぶ濡れちまったから」
そう言って絵梨香の肩をさすり、頭に置いた指を滑らして頬の温度を確かめた。
「冷たいな」
彼女が自分の顔を仰いでいるのが分かった。
濡れた髪と共に、胸で抱き止める。
辺りをうかがって、零は絵梨香に囁いた。
「動けるか?」
「ええ……」
「じゃあ部屋に上がろう。ゆっくりでいい。 気をつけて歩くんだ」
零はその身体を抱いたまま、そっと彼女を誘導した。
エレベーターホールまでなんとかやってきた。
緑色の常備灯だけが唯一の光だった。
「大規模停電かもしれないな」
「……やっぱりエレベーターは止まってるわよね」
「いや、むしろ乗ってる最中じゃなくて助かったよ」
「それは言えてるけど……っていうことは……」
「そうだ、今から7階まで階段で上がるぞ」
「ん……キツいなぁ……」
「俺に抱き上げて上がれと?」
「そんなこと……言ってないよ!」
零がふふっと笑った声が聞こえた。
一気に自分の中に安心感が流れた事に、絵梨香は驚いた。
何のためらいもなく彼の体にもたれかかり、彼が私の体を包みながら、こうして普通の会話をしている。
この非常事態における現象を不思議に思いながら、安らぎを感じた。
このままこうして二人で、ずっとここにいてもいいような、そんな気持ちがわいていた。
零がポケットからスマホを取り出して、画面をつける。
「よし、この光だけで階段を上がるぞ」
絵梨香にスマホを持たせて、足元を照らすように指示した。
零はまた彼女のカバンを持って、絵梨香の腰に手を回しながら、絵梨香がかざした携帯の光でを足元確認するように、一緒に一段ずつ登っていく。
彼が差し出した手をずっと握っていた。
時に力強く引っ張り上げられ、そして時には 指先のほんの少しのこもった力に、心励まされた。
途中で何度か休憩を入れながら、二人は7階まで登りきった。
「はぁ……やっと着いた……なんか富士山登頂した気分」
零の笑った顔がスマホの光でかすかに照らされて見えた。
こんなに優しい顔で笑う人だったのか、とそう思うほど、ふんわりとした目元に驚く。
鍵を開けて室内に入り、スイッチを押してみたが、当然電気はつかなかった。
「入って」
二人はリビングにたどり着いた。
安心したテリトリーに入ると、途端に二人の距離が遠くなった気がした。
この寂しい気持ちはなんだろう。
そばにいたい。
触れていたい。
その気持ちを隠すように、絵梨香は上ずったトーンで会話をする。
「キャンドル出すわね、ソファーに座ってて」
「それより先に着替えて来いよ。だいぶん濡れたろ? 風邪引くぞ」
「それならあなたこそ! バスタオル持ってくるから……そうね、シャツは脱いで掛けとこうか」
絵梨香は手探りでバスルームに向かって、そこから大判のバスタオルとハンガーを持ってきて零に渡した。
自室で手早く着替えてきた絵梨香は、ソファーのすぐ近くのキャビネットを開けて、そこに飾ってあったアロマキャンドルやクリスマスキャンドルをいくつか取り出した。
脱いだシャツをドアノブにかけ、バスタオルをまとった零が、テーブルに置いたそれらに火をつけた。
濡れた髪にすっぽりタオルを被った零の、素肌に炎の影が映り、ふわっと上がった炎の向こうに浮かんだ彼の顔が本当に美しくて、言葉を失って見とれてしまう。
同時に一気に芳醇なアロマの香りに包まれて、 まるで幻想の中のような光景だった。
「この時期にクリスマスキャンドルに点灯するとはなぁ」
「……うん。でもなかなかロマンチックね」
「そうだな。まあ、外であんな爆裂音さえなければ」
「確かに」
そう言って二人はそのゆらゆらとした炎を、しばらく見つめていた。
「あのレストランでも、こうやって炎を見つめたわ」
「そうだったな」
「でもちっともロマンチックじゃなかった。辟易とした顔のあなたと、焦った顔の蒼汰。あなたの事、無骨でぶっきらぼうだって思ったしね」
「俺も、お前をナンパ女呼ばわりしたわけだしな」
「ひどい出会いね」
「あー確かに」
「でもそれは出会いじゃなかった」
「そうだな」
「あの時の……レイがあなた」
「あの時のエリがお前」
「文化祭の音楽室で、私の横に立っていた、背の高い男の子があなたで」
「俺に忘れ物のプラカードを渡したのがお前」
「私たち……」
アロマキャンドルが一つ消えた。
「そうだ、こういう時は逆にカーテン開ければ 明るくなるんじゃない?」
「
「まあ、そうだけど……ここね、意外と見晴らしがいいのよ。昼間なら海の向こうまで見えるし。夜景も素敵なの」
そう言って絵梨香はが立ち上がって、窓際に行った。
カーテンをザッと開けて、全面の窓をあらわにする。
「ほら……」
そう言って振り返ると、すぐ後ろに零がいて驚いた。
「でも見てみろ、やっぱり大規模停電だな。電気が全然ついてない」
「ホントだ、いつももっとすごく明るくて……素敵な夜景なのよ」
仰げばすぐ近くに零の顔があった。
彼に気づかれないように、絵梨香はその顔をそっと見た。
青白く見えるタオルから、長く力強い腕が伸び、絵梨香のすぐ側のガラスについた彼の手首が、彼女の鼓動を早くさせた。
また稲光が辺りを支配し、地響きのような大きな音が耳をつんざく。
眉根を寄せて体をグッと硬くする彼女を、零は後ろから、強く抱きしめた。
第109話 『A Storm Is Coming』ー終ー
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