第100話 『This Words Hurt Her Feelings』

「忘れてくれ」


『 カサブランカ・レジデンス』のエレベーターホールに響いたその声は、絵梨香に言葉を失わせた。


気が付けば、そんな言葉を発してしまっていた。

零は苦い顔をする。


昨日の行為は、不覚にも自分のコントロール下のものではなかった。

そこには罪悪感も生まれたし、自分自身に対する不信感も生まれた。


なのに……

彼女はそれとは逆に、そこに親近感や、それとはまた別の感情を被せてきている。

それを、彼女言葉から感じた。


単なる “吊り橋効果” では済まされないような、“重大なミス” を犯してしまったと、零は感じていた。


そこで咄嗟とっさに出た言葉がよりにもよって……

またしても端的なもので、自身を辟易とさせた。


零は大きく溜め息をつく。



その言葉を受けた絵梨香は、大きく目を見開くと、くってかかるような視線を零に向け、問いかけてきた。



「忘れてくれって……どういうこと? 何を忘れろって言うの?」

 

「……だから昨日、車の中で俺がお前にした事だ」


「でもそれは、私を助けるために……」


「警察の車の中でキスシーンだと? 見つかりゃお縄か? 不可抗力のお前に対して、俺の行為は犯罪だろ?」


「そんな! そういう感じじゃ、なくて……」


「とにかく。俺だって男なんだ。あんまり信用するな。だからこんなひどい事も言うんだ」


絵梨香は首を振った。


「とにかく、悪かった。頼むから、忘れてくれ。なかったことに」


「なかったことに?」


「そうだ。無理か? 気が済まないなら、俺を一発殴るか?」


「違う! そんな気持ちじゃない! 私は……」


「早く、家に帰れ!」


絵梨香は、溢れた涙をこぼさないように、必死に耐えながら、零の顔を見ていた。


「もうこれから『RUDE BAR』で会議することはないだろう。俺も本部に足繁く通う毎日になる。忙しくなるんだ。今日はたまたまこういう時間を高倉さんが気を使って作ってくれたが、今後は無理だろう。食事に行きたきゃ、蒼汰を誘ってくれ。じゃあな」


帰ろうともせず、そのままじっと零を見据えたまま動かない絵梨香を見て、溜め息をついた零は、彼女の真ん前までつかつかとやって来た。


そしてその両肩をつかむと、くるっと180度回転させて、さっき一度閉じたエレベーターのボタンを押して扉を開くと、その中に彼女の背中を押し込んだ。


そして零は、踵を返し大きなストライドでエントランスを出て行った。

 

振り向きもせず…… 手も振らず……



7階でエレベーターを降り、部屋に入るや否や、絵梨香はその場に座り込んだ。


食事の間は、あんなに幸せだった。

彼も私に笑顔を投げ掛けた。

写真をみながらお互い、思いを馳せた筈だ。

もっと通じあっていると……そう思った。

なのに……

どうして?


私たちは一つの試練を乗り越えて、わかりあったんじゃなかったの?


そう思っていたのは……

私一人だったってこと……?



絵梨香がそう呟くと、目に溜まった涙が一気に流れ出した。


どうして泣くの?    

わからない……

この胸の痛みは何?

わからない……




絵梨香のマンションから出て、荒々しく車に乗り込んだ零は、エンジンをかけて急発進した。


しかし大通りに出る寸前で、また急ブレーキをかけ、車を停める。


ハンドルを強く握ったままうつむいた。


なんて言い方だ……

それこそ他に、方法はなかったのか……



食事に行っている間の相澤絵梨香の様子は、とても穏やかだった。

というより、浮かれている感じだった。

彼女の中に、何かが芽生えていたら……

その未来に対する希望が、彼女の顔を明るくしていたとしたら……


俺は、それには答えられない。


するべき課題は山積みだ。

そんな俺が誰かの人生を背負うなど、出来るわけがない。

その相手が、幸せになるはずがない。

これからどこに向かって、一体どっちに身を振るのかも分からない、こんな俺が……


とにかく突き放す……

そういうつもりで覚悟で出向いたはずなのに。


あのフレンチ店で、事件の手がかりを見つけた俺は、大人げもなく浮き足立っていた。


それでつい気持ちが緩んで、あいつにも笑顔を投げかけてしまった。


不覚だ。

きっと混乱しただろう。


俺が最後に吐いた言葉は、そのせいで、何倍もきつく冷たく感じただろう。


こらえながらも、涙をいっぱいに溜めた瞳で、じっと見つめる彼女の視線が頭を離れない。


あいつは……

一人になった途端、泣いているんだろう。



零は大きく息を吐く。


なんだこの息苦しさ。

この動悸は……

なぜ俺は今、こんなにも体の芯が震えているんだ。


もうやめてくれ!


いつもの冷静な俺に戻りたい。


やめてくれ!



乱暴に運転をしながら、警察署に到着した零は、車からすぐ降りずに、運転席に佇んでいた。


今から会議だ。

数十人の捜査官の前に立ち、見落としのないように細心の注意を払いながら、事件の全貌を見渡し、解決に向けて 全勢力を注ぐ。


なのに……

こんなに邪念だらけでは……

見えるものすら、見えなくなる。


心を澄ませ、冷静になれ……


そう唱えるように言いながら、息を整えた。



  

おもむろに運転席のドアを開けると、そこには 少し困惑したような顔をした高倉警部補が立っていた。


「あ……今、声かけようと思ったんだけど……」


うろたえるところを見ると、しばらく自分の様子を伺っていたのだと推察できた。


「すみません。ちょっと頭を整理していたので」


「あー、そうか。いいんだいいんだ。それにしても、君をあの店に派遣して正解だったよ! 鑑識が入った時はボトルなんて置いてないわけだからね。完璧な再現ではなかったってわけだ。それも良かったけど、相澤さんとの食事も楽しかっただろ? なんか二人でデートみたいな……」


「高倉さん」

零はその言葉を遮るように、無表情で言った。


「思いのほか、遅くなったんで急ぎましょう。先に資料室へ。プリントアウトしたい画像があります。それに、新しく来ている資料も読んでおきたいので」


「ああ……分かった」


大きなストライドで会議室に向かう零の後ろ姿を見ながら、高倉は零の中にある、何らかの葛藤を感じた。


昨夜、車で零を邸宅に送った時にも感じた、何か彼が抱える大きな問題が、彼をむしばんでいるようにも見えた。



今夜は『RUDE BAR』にでも誘ってみるかな。




会議室に入ると、零はプリントアウトした拡大写真をホワイトボードに3枚貼った。


そこには鏡面のボトルに映り込んだ、腕時計や グラスのズームアップが写っていた。


前の机には、田中の部屋にあった “石” が新聞紙に包まれた状態で置かれていた。


「思ったより大きな石だな。簡単に説明してくれ」

高倉の言葉に担当者が立ち上がって話し出した。


「田中の家の納戸の一番奥に、このように新聞に包まれレジ袋で二重に封をした状態で置かれていました。周りに関連するようなものも何もなく、もともと物も少ないので、忘れ去られたような、そんな印象でした」


「分かった、ご苦労様」


高倉は、今度は零の方に向いて言った。


「確かにあの河原で見た石に似ているかもな。 よく覚えてたな」


零はそこに置いてあった手袋を装着して、新聞を注意深く外しながら石を持ち上げて観察を始めた。


「高倉さん、この部分を見てください。この部分を境に色が変わっています。俺が思うに、こちらの薄い色はこの石の元々の色で、この石の大部分のこの濃い色は、後から着色されたものと思えます」


「これはこの石の元々の色じゃないということか?」


「おそらく。少しいびつなラインを確認できます。自然な状態でこの境界線はおかしいかと」


「じゃあ、この部分は……もしかして血痕だと考えているのか?」


「ええ」


「おそらくですが、洗い流しても染み込んで取れなかった血痕が、6年経つうちに酸化してこのような色になったのかと思われます」 


「新聞は市内ローカル紙だな」


「ええ。6年経ってはいますが、黒い手紙の字体が、現在のこのローカル紙のものかどうか調べて下さい」


零は今度は、田中の遺体の写真を出すように依頼をする。


「どうした零くん、何か気になることでも?」


「ええ、遺体の額に、かなり古い傷があったと思うのですが」


「ああ、確か……」

佐川が写真をより出して、零に手渡す。


「この額の傷についての医療記録を調べてください。時期は6年前を重点的に」


「わかった」

そう言って佐川が 携帯電話を耳に当てて退出した」


展開の早さに驚いた捜査員たちは、みな零に注目していた。



ほどなくして佐川が戻ってきた。


「外科的な医療記録は見当たらなかった。だが この石を包んだ新聞の日付の後に、それまで勤めていた食品工場の仕事を無断欠勤し始め、そのまま辞めている。残りの給料も受け取りに来なかったので会社側も不審に思っていたらしい」


「ありがとうこざいます。額の傷の解析をもう一度、解剖医に依頼してください。それからこの石のシミの成分の検出をお願いします。おそらく血痕と思われますので、DNAでの照合を急いでください」


“フィクサー”が入室しただけの、ほんの十数分の間に、いくつかの事件の重要な手がかりが上がった事に、捜査官達は驚きの表情を隠せなかった。


「それでは報告会議を行う」

高倉の発令で皆が着席し、順次手がかりを報告 する事となった」


「遺書の文字についてです。『想命館』にある全書類の中から、田中の手書きの部分を調べて、何冊かの中に遺書の中の同一文字を発見しました。書類をコピーして文字をくり抜き、それを並べ、犯人は田中の字をコラージュしてこの遺書を作成したことになります。この殺人事件に関わっている人間は『想命館』内部の人間であるというところに行き着いたと言えます。ただし、セキュリティも甘く、部外者でも簡単に手に入るのも否めません」


「田中の会社の引き出しの中に、相沢絵梨香さんの名刺がありました」


零が不審な顔をして口を挟んだ。


「それはおかしいですね。直接接触、もしくは 挨拶などの会話があったことになりますが、本人からはそんなことは聞いていません。高倉さん、少し電話をしてもいいですか?」


「ああ、もちろんだ。どうぞ」


零は携帯電話を持って、さっと廊下に出た。


捜査員がざわめく。



先ほど聞いたばかりの連絡先に電話をかけた。


「……もしもし」


「家だよな?」


「ええ、そうだけど……」


その元気のない、そして警戒心のかかった声は、さっきの俺の発言が原因だろう。


そんな時になるべく電話はしたくはなかったが、やむを得ない。事実確認は、今必要だ。


「ちょっと聞きたい事があるんだが、今いいか?」


「ええ……どうぞ」


「想命館に初めて打ち合わせに行った時、田中紀洋と面と向かって挨拶したことはあるか?」


「いいえ」


「名刺交換は?」


「した覚えはないわ」


「田中に名刺を渡してないんだな?」


「渡してない。打ち合わせどころか、葬儀の当日も会話をしたことは一度もない。通りすがりにちょっと頭を下げる程度で、あの人の声も聞いたことがない。あの人の声は、あの時……」


そう言って絵梨香が言葉を詰まらせる。

少し息が上がっているように思えた。


「ちょっと落ち着け! もういい! まさか、気分が悪くなったのか? 今、周りに誰もいないよな……」


「……ええ、一人」


「そうか……悪い、余計なことを思い出させた……後で電話するから、とにかく気持ちを落ち着けるんだ。いいな!」


「分かった……」


「じゃあ……」


「待って」

零は、その言葉がまた自分に残酷なことを言わせはしないかと、懸念した。


「すまない、今ちょっと会議中で……」


「名刺なんだけど……」


「え? ああ」


「想命館で、私が名刺を渡したのは、小田原佳乃さんだけよ。それ以外の人には渡してない」


「そうなのか! 分かった。ありがとう!」


電話を切って零は、大きく息を吐いた。


早々に会議室に戻った。


「今、事実確認をしたところによると、相澤絵梨香さんは、犯人には名刺を渡しておらず、ただ一人だけに名刺を渡したと」


「それは……」

後ろから高倉がそう聞いた。


「それは小田原佳乃でした」


「分かった、小田原佳乃に確認しよう」


第100話 『This Words Hurt Her Feelings』ー終ー

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