第66話 『The 5th Case』under the light of the full moon.

電車に乗るまでは……

確かに、なんとなく眠いような感覚はあっても、そんなに酷い睡魔に襲われることはなかった。


ただ……

電車に揺られ、時間が経つにつれ、頭が朦朧もうろうとなり、まっすぐ座っているのがやっとになって……


なんとか渚駅では降りたけれど……

周りの人が私を変な目で見ていた。

まっすぐ歩けていないのか……


確かに今日、少しお酒は飲んだ。

でも、酔っ払うほどの量でもない。

しかも、お酒を飲んでこんなにふわふわした事は、なかった。


いったい何なのか……

やっぱり体調が悪いのに、無理して出勤したのがいけなかったのか。


とにかく蒼汰と約束している事だけが、頭にあった。


早く行かなきゃ……

『RUDE BAR』には蒼汰も、そして……

きっと来栖零も……

その思いだけで、足を一歩ずつ前に進めた。


あともう少し……あともう少し……


そう思いながら重い足を引きずって、桜川沿いを歩いていた。


さっきから何度か、電話のバイブレーション音が聴こえている。

きっと蒼汰だ。

出なきゃいけないのに……

歩くのが精一杯で、出られない……

何なんだろう? 

この感覚……




突然、後ろから声がしたような気がした。

立ち止まって、振り返ろうとしたその時……



強い力で身体を締め付けられ、口を塞がれた。


……誰?


そう聞こうとしても、声は出ない。


そのまま、後ろに引きずられた。


靴が脱げて、地面でかかとが擦れる。


痛みより、恐怖の方が大きかった。


物凄い力で、そのまま公園の奥まで連れていかれた。


放り投げられるように、草むらに突き飛ばされて……


そこからは、あまり覚えていない。


ちゃんと抵抗できていたのかも、何をされているのかも……


ただバイブレーション音が、肩の近くのカバンの中から聞こえていたから、なんとかそこに手を伸ばそうと……

それだけで……


不在着信のアイコンをタップした。

蒼汰の声が聞こえた。


声を出したいのに、出なくて……

でも今の状況から逃げたくて……

必死で絞り出した……


「……公園……」


そこで、気付かれてしまった。


ガツンと痛みが走って……


そこからもう、何も分からなくなった。



どれくらい経ったのか……

経ってないのか……




聞き覚えのある声が、すぐそばで聞こえて、

目を開けた。


私の身体を包むように、私の意識を取り戻すように、何度も声をかける彼は……


「俺だ! わかるな?」


助かったんだ……


それが、ようやくわかった。

恐怖と安堵が交錯して、気持ちがぐちゃぐちゃになった。


涙が止まらない……

でも……

絶望から助けられたんだ……


なのに、今度はまたあの苦しみがやってきた。


息をしているのに、息が入ってこない。

まるで、生きたまま海底に沈められるような 苦しさと恐怖が、大きな波のように襲ってくる

……


彼が力一杯、私を抱きしめた。

まるで、波にさらわれそうな私を、引き戻すかのように……

彼の声が、遠くからだんだん近くに……

聞こえ出す。


「息をしすぎるな! しっかり吐け」


そして髪を撫で、背中をさする……

恐怖の淵から救い出そうしてくれるのだと

そう感じた。


「……助けて……くれて……ありがと……」


なんとか声が出た。


彼にそう伝えられた安堵感から、さらに意識が遠のく。


彼が身体からだをそっと離した。

髪をかきあげながら、じっと見つめる。


彼の手が頬に伸び、その視線は口元に降りていった。


細く長い指で、血が流れるその唇を強くなぞる。




ピリッと痛みが走った。

その痛みに、一瞬目を閉じる。


再び目を開けると、すぐ近くに彼の顔があった。


月が見えない。


その表情も。


首の後ろに回された指先にグッと力が入るのが感じられた。


そして……彼は……


その唇を静かに重ねた。


冷たい唇が徐々に熱を増して、息苦しささえ感じた。


混濁する意識のなかで、ただただ彼に身体を預けるしかなかった。


その熱く長いキスは、心の傷口から流れ出る血を塞き止め、恐怖と嫌悪を洗い流してくれるかのようだった。


唇を離すと、彼の向こうに大きな月が見えていた。


でもその光のせいで、彼の表情は見えないままだった。


そしてまた、影が大きく近付いて……


強く抱きしめられる。


彼が小さなかすれた声で言った。


「ようやく……お前を……取り戻せた……」 





「零! 絵梨香! どこだ!」


声が聞こえた。

彼がスッと身体を離す。

振り返ったその表情が月に映し出されて、彼が我に返ったように目を見開いたのがわかった。


呼吸を整えると、彼は彫刻のような表情に戻っていた。




零は、まだ小刻みに震えている絵梨香を、すっと抱き上げた。


それを見つけた蒼汰が走ってきた。

「絵梨香! 大丈夫か!」


「蒼汰、ヤツは」

「逃げられた! けどもう通報はした。救急車を呼んだよ。なあ絵梨香! 何があったんだ! 何かされてないよな! 大丈夫なのか!」


詰め寄るように蒼汰が近づいてきて絵梨香の手を握り、顔を覗き込む。


「血が出てるじゃないか! 殴られたのか! くそっ!」


ぼんやりした絵梨香の頭に、先程のシーンが蘇り、その唇を見られていると思うと、心の置き場がないような気持ちになって、目を反らせて俯いた。


「他に怪我はないのか!? 絵梨香!」

頷くのが精一杯だった。


けたたましいサイレンが、公園に鳴り響いた。


「蒼汰、救急車が来た。早く乗ろう」


零は絵梨香を抱き上げたまま、 救急車に乗り込み、天海病院に向かった。


蒼汰も乗り込もうとしたが、到着した警察官に事情聴取されて、とどまるように言われた。


救急車の中で、零から引き離されてストレッチャーに寝かされた絵梨香は、また今になって震えがひどくなり、また涙も止まらなくなった。


「落ち着いてください。ゆっくり呼吸してください」


救護員にそう言われながらも、またしても荒い息を繰り返す絵梨香の手を、零はそっと握った。


繊細で、ほんのり冷たくて、でも優しい握り方だった。


彼の方を見た。


目の奥で、何か言っているような気がした。


だんだん息が落ち着いてくる。


救護員がモニターを見ながら言った。

「脈も安定してきました、大丈夫ですよ。もうすぐ着きますからね」



救急車で到着した天海病院には、もう警察官が待ち構えていた。


ストレッチャーのまま病室に運び込まれた絵梨香は、一通り外傷の処置を終えたあと事情聴取を受けた。


女性警察官と2人きりでの調書を終えた後は、横に零が付き添って、説明の補足をしてくれた。


警察官が退出し、ほんの少し2人きりになった。


絵梨香は零を見つめた。

零も絵梨香を見つめている。


何かを言ってくれることを期待したが、零は何も言わなかった。


絵梨香の脳裏に、零との月の下での出来事が溢れた。


「痛むか?」


ただ一言、そう聞いた零のその目が、何故かあまりにも悲しげで、声が出せずにただ首を横に振った。


「絵梨香! 無事か!」


ものすごい勢いで蒼汰が走り込んできた。


絵梨香の手を掴んで、無事を確認するかのようにその顔を覗き込む。


「うん……大丈夫……」

ようやく声が出た。


蒼汰はその場にへたり込んで、大きく息を吐いた。


「……よかった!」


ほどなくして、再度警察官が入ってきた。


今度は絵梨香から話を聞くだけではなく、今回のこの通り魔事件について、今まであった概要を報告し、零が間を取り持ちながら、何か犯人に繋がる手がかりになるような事がないかを聴取した。


警察官が出て行った瞬間、蒼汰が怒り出した。


「だから言っただろ! 1人で歩いて帰るなって!」


頭を抱えて座り込む蒼汰に、絵梨香はとにかく謝った。


そこに今度は、由夏が凄い勢いで入ってきた。


「由夏ちゃん……心配かけて……ごめん」

「なに言ってんの! 絵梨香は被害者でしょ! でも心配して死にそうになったよ」   

絵梨香を抱き締める。


2人とも泣いて、お互いの涙を拭いながら話した。


零は、興奮気味の蒼汰と由夏を置いて病室から一人出ていった。


病院の1階にいた警察官の中の何人かの知った顔を捕まえて、遺留品や痕跡がなかったか確かめる。


そしてまた病室に戻った。


ノックをすると蒼汰が扉を開けた。

零は視線で蒼汰を病室の外に促した。


「蒼汰、犯人を追いかける際に気付いたことはないか?」


蒼汰は一つ息をついた。

「お前らが救急車に乗った後、さんざん事情聴取されたよ。顔は見てない。暗かったろ? フード被ってたし、振り返った時には左手で顔を隠してやがった。着衣は黒ずくめ、中肉中背のおっさんだな」


「左手か……指輪はしてなかったか?」


「指輪ね…そこまで至近距離じゃないから定かではないけど、オレは気付かなかったな」


「匂いは?」


「匂いか……ヤツの後を走って追ってるから、どっから漂ってきてるか判らなかったけど、なんか一瞬いい匂いがしたような……」


「石鹸みたいな?」


「そう! そんな匂い。え! あの匂いが犯人からしてたってことか? 零も感じたのか?」


「ああ。確かにな」


「オレ、ちょっと売店に行ってくる。あと波瑠さんにもまだ連絡してなかったから電話してくるよ。零はちょっと絵梨香に付いててやって」


「ああ」


零が病室に入る。

目を合わせるも、重い空気のまま、零は絵梨香の側に座る。


静かな声で話し始めた。


「どこか痛むか?」

絵梨香は首を振る。


「聞きたいことがある」

零の強い眼差しに見据えられて、絵梨香は身を固くした。


警察には何があったか話したが、アウトラインをたどるような、どことなく客観的な事実確認に程近かった。

零が聞こうとしているのは、そんなことじゃないような気がした。


黒いフードの奥にどんな顔があったか、思い出そうとするだけで 肩がぶるっと震えるのが分かった。


「犯人の顔は見たのか」

「……いいえ」


「なんにも?」

「暗くて……」


「そもそも、なぜ駅から一人で歩いて帰ることになった? 知り合いと食事の予定だったはずだろう。しかも近所だから一緒に帰るはずでは?」


「……なぜそれを知ってるの?」

「いや……由夏さんに」

零はそれ以上は答えなかった。


「急な用事が出来たから帰るって言われちゃったから……」

「そうか」

重い空気が続く。


「犯人について、些細なことでも 気付いたことはないか? 例えば声に聞き覚えがあるとか、匂いとか……」


「声……知らない声だった……匂いは……思い出せない……」


「そうか。公園までは」


「後ろから……いきなり口を押さえられて……腕も固められて……それから、引きずられて……」


零は息を飲んだ。

「……そうか……いつ殴られた?」


「蒼汰が電話くれてて……カバンの中で携帯が何度も鳴ってて……その上に……倒されたから、後ろ手でその不在着信のアイコンを、そっと押して……隠してたんだけど見つかっちゃって……その時に……馬乗りになられて……」


絵梨香の息づかいが激しくなった。


声がかすれ、再び大粒の涙が溢れ出てきた。


零は、ハッとした。


「すまない……もういい……休んでくれ」


そう言って目を伏せた。


背中を向け、出ていこうとする零に絵梨香は言った。


「待って! 助けてくれたとき……どうして私に……?」


零は立ち止まって振り返った。 


「何の……話だ?」


その零の表情には、疑念も困惑も見られなかった。

絵梨香は驚きを隠せない。


「私を助けてくれた時に、あなたが私に……」


そこまで言った時に、零の美しい顔がゆがんだ。


「俺が……何か、したのか……?」




第66話 『The 5th Case』under the light of the full moon ー終ー

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