第65話 『月下の悪夢』

親族会議を終えて、零は『RUDE BAR』に来ている。

これから取り組むべきはことは膨大だが、とりあえず親族会議で遺言状の開示が行われた事により、西園寺章蔵の遺志を知ることが出来た事で、零はほんの少し気持ちが軽くなっていた。


絵梨香との連絡がうまくいかず、なんとなく落ち着かない蒼汰を、波瑠がなだめる。


それに関しては、事情を知っていることに、ほんの少し罪悪感を感じながら、零はグラスを傾けていた。


幾分緊張がとけたせいか、昨日に引き続き、今日も酒の味を堪能している。

今夜は昨夜のように何種類もの酒を飲むのはやめようと、銘柄を決めてロックで頂くことにした。


「なんだ? もうからなのか? 氷、減ってないよな。零……ちょっとペースが早くないか?」


波瑠はそう言って零が手にしているグラスの中の真ん丸い氷を覗きながら、さりげなく聞く。


「どうかしたのか? 昼間の会議で何か問題でも?」


「いや、特には……」


波瑠は頷きながら、零のグラスを手元に持っていった。


「今夜はずっとコイツでいいのか?」

そう言って “Makers Mark” の茶色い液体を注ぐ。


「うわ、バーボンロックとか……オレには無理だな」


「そりゃそうだろ。蒼汰はハイボール専門だからな。大学生かよ!」

波瑠が笑いながら、蒼汰のおかわりも作った。

「はいよ!」


「どーせ、いつまでたってもガキだよ!」

そう言って波瑠から差し出されたグラスを、首をすくめながら受け取った蒼汰は、一口飲むと、またスマホを見て溜め息をつく。


「蒼汰はまるで、絵梨香ちゃんの母親みたいだな」

波瑠がカクテルグラスを磨きながら言う。


「波瑠さん! そこ、“父親” じゃなくて “母親” っていうところに、悪意あるよね?」


「はは、まあ……なんていうか? 小うるさいオバチャンみたいな?」

零が下を向いた。


「零、お前まで笑うなよ!」

蒼汰が零をこついた。


蒼汰は頭の後ろで腕を組ながら、また溜め息をつく。


「しょうがないよ、だって心配だろ? あんな “黒いカード” 送りつけられてんだぞ! 西園寺のじいさんの事とか、色々なことがあったから、みんなさ、なんか警戒意識が薄まってんじゃねぇか?」


「確かに、それは蒼汰の言うとおりだな」

波瑠も少し神妙な顔をした。


「だろ? でも当の本人が、一番薄まってる感じもするんだよな。強がりばっかり言うしさ。だって、あんな過呼吸まで起こしてんのに、普通に会社行ってさ。しかも残業してんだか知らないけど、連絡もよこさないし……」


零がグラスから顔を上げて、蒼汰を見た。

「残業してるって、そう聞いてるのか?」


「いや、昨日零が出発した後、ここから帰るときに絵梨香が、“明日はコラムの執筆が出来てないから一緒に食事はできないかも” って言ってたんだ。『月刊 Fabulous』のコラムの執筆は毎回結構大変でさ、オレもそれを知ってるから、絵梨香にそう言われると強引に誘えないんだよ」


「蒼汰、そう聞いたのは昨日か? 今日連絡は?」


「いや、今日は一度もない」


「……そうか」


相澤絵梨香はなぜ、蒼汰に友人との食事の事を言わなかったのか……少し違和感を感じた。


由夏から来た報告メッセージにも、“急遽” と書いてあった。

残業必至の仕事を放り出して、蒼汰にも連絡を入れないほど慌てて、その友人と食事に行ったのか?

彼女らしくないと思った。



その時、蒼汰のスマホにメッセージが入った。

「おっ! 絵梨香からだ!」


蒼汰が、嬉しそうに画面を覗き込む。


波瑠が溜め息混じりに笑いながら、零と目を合わせた。


「ん? なんだ? これは……」


「どうした?」


「あははは、メッセージが全部ひらがななんだよ、ほら」


蒼汰が波瑠と零に画面を見せた。


「でんしやにのたからいまからいくのてまつて」


「こりゃ斬新だな……新しいネタか?」

波瑠が首を捻って見ている。


「……蒼汰、これに似たようなメッセージ、お前が俺に送ってきたことがあったんじゃないか?」


「え、オレが? そうだっけ? ……ああ、酔っ払って寝落ちした……え!」

蒼汰はハッとしてスマホを見直す。


「……ということは、まさか絵梨香もか?! え? 何でだ? 残業じゃなかったのか? だって、ここまでヒドイと、泥酔レベルだぞ! 電車に乗った……みたいだけど、こんな状態なら寝過ごしちまうかも……電話してみる!」


蒼汰は何度も、切ってはかけてを繰り返した。

「ダメだ……出ない。もう寝過ごしてだいぶん先まで行っちゃってるんじゃないか?」


「いやそれより、こんな時間に泥酔するほど酒を飲む事の方が不自然だろ。あくまでも俺達の想像でしかないから、何か他の原因があるのかもしれない」


零は自分の携帯を耳に当てた。

「おい零、どこにかけてるんだ?」

蒼汰を制して話し始める。


「俺です。彼女から聞いた今日の予定について、もう少し詳しく教えてもらえませんか。実は……」


零はここでのやり取りと、予測に基づいた起こりうる事態を説明した。


「では、その友人が誰なのかも知らされてないんですね? 直接話しはしてないと……ああ、メールのやり取りだけですか。わかりました。蒼汰に聞いたのですが、『月刊 fabulous 』のコラムがまだ仕上がっていないとか……ええ。そんな状態で友人と食事に行ったりするのは、彼女らしくないなと思いまして。とにかく、連絡を入れ続けてみます。今はどちらですか? そうですか、わかりました。彼女と連絡がついたら、お知らせしますんで。はい、失礼します」


話し終える零を、蒼汰はじっと見ていた。


「零……なんで絵梨香のスケジュールを把握してたんだ? なんで由夏姉ちゃんと?……ってか、なんで、オレがそれを知らないんだ?」


「蒼汰……これには訳が……」

そう言う零に、蒼汰は背を向け、声をあらげた。


「そりゃそうだろう! 来栖零の行動には、いつでも意味があるもんな! 一体、何の先を見据えてんだか……そうだよ! どうせオレにはちっともわからない!」


「蒼汰……」


「けど……とにかく、今は絵梨香と連絡を取り付けるのが先だ。後からたっぷり聞いてやるからな!」


蒼汰はそう言って、絵梨香に電話をかけ続けた。


一向に繋がらないスマホを忌々しげに見つめながら蒼汰は独り言のように言った。


「絵梨香のやつ……まだ通り魔も、黒い紙の送り主も捕まってないのに、一人で何やってんだ!クソ……なんで繋がんないかな!」


波瑠も心配そうに言う。

「確かにあれから被害は出ていないけど、犯人が捕まってないことは確かだから……」


零も不信に思った。

相澤絵梨香はその知り合いと一緒に帰るんじゃなかったのか?

それとも何らかの理由で、一人になって電車に乗ったのか?


皆の気持ちがどんどん焦ってきていた。


「くっそ、何回かけても繋がんねぇ!」

いてもたってもいられない様子で蒼汰が立ち上がった。


「ちょっとオレ、駅に行ってみるわ」



その時に蒼汰の電話が鳴った。


「あ、絵梨香からだ! もしもし絵梨香、今どこだ! おい、絵梨香?……絵梨香!」


「どうした!」


「なんか、変な音が聞こえるんだ!」


蒼太のただならぬ表情を見た零は、携帯を取り上げ、スピーカーをオンにする。


続けて蒼汰が話しかける。


「絵梨香! どうして何も言わないんだ! 絵梨香!」


ガサガサと音が鳴っている。

草を掻き分けるような……

地面を擦るような……

耳を澄ますと遠くで声が聞こえた。

何を言っているかはわからない。

笑っているような、低くしわがれた……


男の声……


その時、絵梨香のかすれた涙声が聞こえた。


「……公園……」


その瞬間、男の声が大きくなった。


「おい! お前……なにやってんだ! どこに連絡した!」


そこで絵梨香の悲鳴が聞こえた。


「絵梨香! 絵梨香!」


蒼汰がそう叫ぶも、バタバタと大きな物音と共に、電話は切れた。


2人は階段を駆け上がり、表に出ると信号を無視して南に走り続けた。


零が荒々しく蒼汰に聞く。


「公園はあの一ヶ所だな」


「ああ、南側の公園だけだ。見えた! あそこだ!」


速度を上げて走り込んだ。


だだっ広いグラウンドには、誰一人姿はなかった。


2人は走りながら、公園の脇の草むらに目を向けた。


速度を落とし足音を忍ばせ、耳を澄ましながら、どこかで音が鳴らないか慎重に見回す。


その時、零が女性もののパンプスが片方落ちているのを発見した。


「この近くだ!」


そう言った瞬間に、向こうから黒いフードをかぶった男が走り出てきた。


その男が、零に腕を振りかざす。


零はその手をかわし、男の顔を殴った。


男はよろめきながらも、つかみかかる零を全力で振り切って、蒼汰のいる方に走っていった。


「蒼汰! そっちに逃げたぞ!」


「わかった! 零! 絵梨香を探せ!」


そう言って蒼汰はそのまま男を追いかけた。



零は男が出てきた草むらの方に走った。 


背の高い草をかき分けると、そこに絵梨香がぐったりした姿で倒れていた。


零は駆け寄って絵梨香を支える。


「おい! しっかりしろ!」 


絵梨香の呼吸は荒く、肩を大きく上下させながら、苦しそうに口を開けたまま、眉根を寄せていた。


怯えるような目を零に向ける。


零は両手で彼女の耳の後ろから頭を支えるように抱き起こし、その目を覗き込んだ。


「俺だ! わかるよな?」


止まらない震えに息をのみながら、なんとか頷く。


大きな目には涙がいっぱいに溢れていて、口は動いているが声が出ていない。


零の顔を確認するように仰ぐ。


「もう……ダメかと……」


絵梨香は絞るようにそう言って、ぎゅっと目をつぶった。


涙が一気に、零の腕にポタポタと落ちた。


「怪我は? 大丈夫なのか!」


左の頬が赤く腫れ、その部分が少し熱を帯びていた。

唇の端が切れて、流血している。


零は彼女の頭を支えたまま、四肢に目を配る。

暗くてよく見えない。


片ひざをついて彼女の体を抱き止めたまま、空いた右手で彼女の手を取った。


著しい体温の上昇や低下がないことを確認しながら、零は震えが止まらない彼女のその手を握って、自分の胸に当てた。


「もう……大丈夫だ」


そう静かに言いながら、彼女の頭を支える手に力を込めて、引き寄せた。


その時気付いた。


彼女の肩に手を回したその自分の手も、震えていることに……


急に何かに胸が圧迫されているかのように、苦しくなった。


零は戸惑い、視線を外しそうになるのを自ら制す。

そして、彼女の髪に着いた葉っぱを取ってやりながら、その目の奥を見つめて様子を見た。


月に照らされたその蒼白い頬からは、幾つも涙が伝い落ちた。


その時、小刻みに息を吐きながら大きく目を見開いた絵梨香の呼吸が、ひきつるように乱れてきた。

だんだんその間隔が短くなる。


「ダメだ!」

零が、声を上げる。


「ダメだ! 息を吸いすぎるな!」


そう言って彼女の頬を両手で覆う。


「くそっ! 過呼吸になるぞ……」


零はそう言って、絵梨香を強く抱きしめた。


「落ち着いて。息はゆっくりだ、しっかり吐け」


彼女の呼吸を制限するために、自分胸に強く押し当てた。

そしてその頭を撫で、背中をさすり、恐怖の淵から救い出そうと全力で抱きとめる。


「……助けて……くれて……ありがと……」


息も絶え絶えの涙混じりの声で彼女がそう言った時、零の心の中で、何かが壊れるような音が響き渡った。



零は身体からだをそっと離し、彼女の顔にかかった髪をかきあげながら、その顔をじっと見つめる。


彼の手が、再び赤く腫れた彼女の頬を包んだ。


そしてその視線は、絵梨香の口元に降りていった。


零は細く長い指で、流れ出た血を、その唇をなぞるようにグイッと拭きとった。


第65話 『月下の悪夢』 ー終ー

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