第89話 『天海病院 カンファレンス』

零は天海病院でタクシーを降りた。

玄関前の階段に目をやる。

あの日、暗いあの階段に座り込んで、朦朧とした意識の中で、携帯電話の青い通知ランプが、自分の腕の先の方でゆらゆらしていた光景が脳裏に浮かんだ。


零は大きく息をつく。


その記憶をかき消すように、頭を振って、エントランスを通りぬけた。



約束の時間よりも少し早めに着いた零は、受付を通りすぎて、中庭にあるベンチに腰を下ろした。


夏の終わりが近づいているなどとは思えない ほど、青く抜けた空にもくもくした雲が太陽を反射して浮かんでいる。

零の頭上の光を幾分柔らかくしてくれている木陰は、ほんの少し涼しさを感じ、もしもこのままここで動かなければ、眠りに落ちてしまいそうな、妙な安堵感があった。


零はベンチの背もたれにひじを置いてゆったりもたれると、長い足をもて余すように組み換えた。

木漏れ日を顔に浴びながらフーッと吐息をつく。


よくここに座っていた。

数年前の話だ。

今よりも、もっと暗い海の中を漂っているような心地だったあの頃は、この中庭に来てはよく深呼吸したものだ。


零は両手で膝を打って立ち上がった。


いつもより幾分、ゆっくりとしたテンポで中庭を大回りしてから、ナースステーションに向かった。


そこで医院長とのアポイントメントの旨を伝え通された部屋は、落ち着いた雰囲気の応接室 だった。


ここへ足繁く通っている頃は、零は診察室には通されず、明るい雰囲気のカンファレンスルームで治療を受けていた。

担当医と共に、天海医師が同席することも、珍しくなかった。


今回のような話をするならば、そこでよかったのだろうが、あの頃を感じさせないための、天海医師の配慮なのだろうと思った。


応接室に通された零は、傍らに小田原佳乃から取った調書と、実際自分がシュミレーションを行ったメモを携えて、天海院長の姿を待っていた。


ドアがノックされ白衣を着た、天海病院の若き 院長、天海宗一郎が姿を現す。


「やあ、零くん! お待たせ」


「こんにちは、天海先生」


「君、だいぶん早く着いたんじゃないか? 中庭に居ただろ?」


零が、少し不思議な面持ちでその顔を見ると、天海は悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「ナースステーションがざわめいててさ。わざわざ君の姿を盗み見しに行ったナースもいたらしいぞ? 見目麗しい来客者で僕も鼻が高いよ!」


零は少し苦笑いしながらも頭を下げた。

「いえ、お時間を取っていただき、ありがとうございます」


「いや、いいんだ。僕こそ君と話したくてさ。でなきゃ、“事件当初に処置した人間” だけよこせば、君の質問には答えられる筈だろ?」


そう言いながら天海は、そのままソファーに座らずに、テーブルをぐるっと回り込んで、零のすぐそばに来た。

スッと零の右手を取って、その手の甲を眺める。


「うん。中手骨頚部に変形はないな。骨折はなかったが、傷は残るかもと思ってたんだけど……キレイに治ってるね。よかった!」


そう言うと、もう一度テーブルを回り込んで 、今度は零の真向かいに腰を下ろした。


にこやかな表情をしつつも、天海はつい先日を思い出していた。

緊急コールで“相澤絵梨香”という名前を聞いて、動転しながらも搬送口に走っていった天海の目に、ストレッチャーで運ばれて来た被害者にぴったりと寄り添う零の姿を確認し、驚いた事を。


「零くん、あれから大変だっただろう? 君は 彼女を救出した目撃者だしね」


それまで、この二人に接点を感じたことはなかった。


警察から連絡を受けて搬送された被害者は、天海にとって大切に思っている人の身内で、彼女らとは、その会社『ファビュラスJAPAN』も含めて、もう5-6年の付き合いになる程の、近しい存在だった。


「彼女はしっかり復帰できているのかな?」


「はい。退院した翌日から、会社に行っています」


「そうか。それは良かった」


彼女が、強姦未遂という卑劣なその事件の被害者となってしまった事も相当なショックだったが、その事件の内容と酷似したケースで、長きに渡って苦しんでいるのを側で見ていた、自分のその患者が、そこにいたことにも衝撃が走った。


「君のその手、外面的にはすっかり治ってるように見えるけど、痛みとか不具合とか、そういった事はない?」


彼は自分のこぶしから血がしたたり落ちている事にも気付かず、捲し立てるように彼女の状況を看護師に伝え、医師から治療のための当面の見通しを聞き取っていた。

その拳は、犯人を殴ったものだった。

その様子を見ていると、被害者だけが患者だとは、思えなかった。

出来れば、その日は彼も引き止めて、別の意味での治療をした方が良いのではないかと、心の中での葛藤があった。


「天海先生、外科医なのに大げさですよ。あの程度の擦過傷で、あの日、僕をこの病院に泊まらせようとしたでしょ」


天海はバツが悪そうな顔をした。

「医者のわりに、僕もなかなか心配性でね」


零が笑みを浮かべる。

「なるほど。天海病院の人気の秘訣はそこにあるわけですか」


「人気の病院っていうのも、なんか変だけど ね」

天海は爽やかに笑った。


「お父上はお元気かい?」


「はい、おそらく。滅多に会うこともありませんが」


「はは、そうか。まあそうだろうな、こちらにいらっしゃることもあまりないだろうしな。うちの父も気にしていてね。あの警視総監は、もともと病気もしない強靭な人だから、ろくに検査も受けていないんじゃないかってね」


「確かに。天海理事長は父のことをよくご存知ですから。きっと僕よりもね」


「駿くんは?」


「ええ、兄とはひょんなことから、最近ちょくちょく会うようになりました」


「……それは、西園寺さんの件でってことか?」


「……やっぱりご存知でしたか」


「そらそうだろ、ニュースにもなってたぐらいだ。葵さんは? 大丈夫なのか?」


「うちの母は、そういうことでどうにかなる人じゃないので」


「そっか。おじいさまのことで、君もいろいろ心労があるんじゃないのか?」


「ないといえば嘘になりますがね」

零はテーブルの上で、指を組み換えて言った。

「天海医院長、まるで僕がカウンセリングを受けているような感じなんですけど」


「ははは、すまないね。久しぶりに君とゆっくり話せるから、つい色々聞きたくなって」


「ご心配いただきありがとうございます」


「老婆心ついでに、もう一つ聞かせてくれ。このところ君に症状が出たということはないのか?」


零は一つ大きくため息をついた。


「そうおっしゃるってことは、裏が取れてるわけでしょう? 違いますか天海先生」


天海はにこやかな表情を崩さなかった。


「医師に嘘をつくなど、無謀なことですね」


「そう観念してくれると、助かるが」


その言葉に、零は手を膝に戻した。


「つい最近、症状が出ました。過呼吸、そして、ちょっとした記憶障害です。幻覚を見たり夢でうなされることは今はありませんが、自分の行動を覚えていないことが、一度だけありました」


「心の暴走、あと閉塞……そういった症状は?」

零は下を向いて、小さく頷いた。  


「時期は?」

天海はそう聞いてからすぐに言った。

「……ああ」


零がフッと笑う。

「お察しの通りです」


「絵梨香ちゃんが搬送された日だね?」


「ええ」


「事件の概要は……警察から聞いた。君が……あの時の事件と重ね合わせてしまうのも、無理ないな」


天海は溜め息をついた。

「退院の日に由夏さんから聞いたんだ、絵梨香ちゃんが最初にPTSDを起こしたのが、親しいご老人が亡くなった時だって。その時は気が付かなかったんだが、そのご老人っていうのが君のおじいさんの事だったと? 西園寺章蔵氏?」 


「そうです」


「本当に? それは偶然?」


「はい。全くもって偶然なんですが。ただ、子供の頃に僕と相澤絵梨香が会っていたことも判明しました」


天海は少し驚いた顔をする。

「縁が深いんだな。なのに……そんな彼女があんな目に遭って、君はさぞかし……辛かっただろうね」


零は少しうつむき加減に、視線を下ろしたまま頷いた。


「由夏さんに、絵梨香ちゃんの心療内科の受診を進めたのが君だって聞いて、それでようやくピンと来たんだ。彼女のこれからのケアについても、君と相談させてもらいたいんだけど、いいかな?」


零には、天海の思惑が解っていた。

相澤絵梨香のケアするという目的も嘘ではないが、ただそれに便乗する、もう一人の患者が自分であるということに。

気付くと共に、この医師はそれを自分に気付かれることを恐れていないことも感じる。

全て分かった上で、持ちかけてきているのだ。


「はい、もちろんです。よろしくお願いします」


天海は満足そうに頷いた。


「さあ、長い前置きになったが、君が聞きたいのは別の事件についてだったな」


天海はカルテを出した。


「小田原佳乃さんだね。傷害事件の被害者だな」


「はい、気になることがあるので」


「君を警察の人間だと想定して話せばいいんだね?」


「はい、よろしくお願いします。小田原佳乃さんの切りつけ事件の傷の形状について、より具体的に知りたいと思います」


「分かった」


天海は零の隣に座り直した。


創面そうめんの形状は切創せっそうで間違いないですね?」


「ああ。創底そうていも浅く、刺創しそうとも呼べない程度のいわゆる切り傷だ」


「凶器は発見されていませんが、その手がかりは創面からは推察できなかったんですよね?」


「ああ、刃先が数ミリ鋭利であるものとしか言いようがない。刃渡りも分からず、なんならカッターナイフに近いものですら、あてはまってしまう」


縫合ほうごうは?」


「ああ、浅かったが長さはあったから8針だ。

微妙に創底が違ったから、微調整しながら美容形成のごとく、丁寧に縫合したよ。女性だしね」


「待ってください、創底が違ったと?」


「ああ、このカルテを見てくれ、これは正面から創口を書いたものだ。いわゆる左側が身体の前、右側が身体の後ろということだ」


天海は零の方にカルテを向けて説明する。


「先ず、右側が鋭利で、浅く入った状況から、中央部少し深くなり、左にいくにつれ、裂創のように創口が荒くなる」


「天海先生。この切創から、切りつけられた向きは……推察出来ますよね?」


「ああ、被害者の後ろ側から前に向かって凶器の刀を、当てたまま引いたようなアクションによって付けられた傷だな」


零は色めき立ったようにカルテを指差しながら言った。


「この図でいうと“右から左”に向けて、身体の“後ろ側から前”に向かって、“引いたような形”なんですね」


「ああ間違いない」


「では、例えば右手に刃物のを持った状態でこの傷を作るとしたら、どのように切りつけることになると思いますか?」


「そうだな、不可能に近いというか……かなり無理な見解をいうと、時代劇のくノ一女忍者が持つような、刃先を右に向けて右手で柄を持つような状態にしないとなあ。


「ありがとうございます」


「随分満足そうだな、僕にも種明かししてもらいたいね」


「わかりましたその前にひとつ、先生のご意見も聞かせてください」


零は不敵に笑った。


「自作自演の可能性が、あると思われますか?」


天海もにっこり笑った。

「なるほど、そういうことか?」


「はい」


零は小田原佳乃が供述した実況見聞を話し、自分も実際現場に行きシュミレーションしてみたことを伝えた。


「本人がの供述が正しいのであれば、傷口は “左から右”、いわゆる、体の “前側から後ろ” に向けて付けられたものでないと辻褄が合わないんです」


「突破口になった、ということか?」


「はい、そう言えると思います」


零の輝くような表情を見て、天海はため息をついた。


「実にいい顔をするね、君は。今こういう顔をするのは事件の時だけなのか?」


零は少し自嘲的に笑った。


「そうですね……」


出来ることなら、いつも自然にこういった笑みが出る状態にしてやりたい思いながらも、天海は実現ならないその思想を打ち消す。


彼は今、この警察の仕事によりどころを感じている。

決して取り上げることはできないだろう。

そう思うと同時に、この不安定で危険な彼の状態からも、目を離さないでいようと心に決めた。


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