第90話 『交錯する想い Flow Of Feelings』

いつものように定時で仕事を切り上げ、まだ陽の高いうちに電車に乗って、家路をたどる。


渚駅に着いて大通りを渡ると、目に入るファンシーショップ。

前を通ると、やはりあの限定ベアを見てしまう。

残り個数は “8個” のままで、あれからは1つも売れていないことがわかる。

この店に急に駆け込んでいく零の姿に、心底驚いたのを思い出す。

いつも突飛な彼の行動、でもいつも的確に核心を突く行動。

実際にそんな彼に何度となく助けられている自分がいる。

私は……非力だ。

いつも守られてばかり。

傘をさして、ふたり肩を並べた時ですら、やっぱり私は守られていた。

晴れた夕暮れの空を見上げているのに、傘に当たるポツポツとした音をふたりで聞いたあの時間を思い出している。

雨は嫌いなはずなのに……



来栖零も蒼汰も、私に秘密を持っている。

ちゃんと話してくれない……

けれど、何か感じる。


小田原佳乃が、何らかの事件に関わっている。

それも、西園寺の事件なのか、自分の事件なのか……

来栖零や蒼汰だけじゃない……『想命館』の人々も、それぞれ何らかの疑念を彼女に対して抱いているようだった。


私は一つも疑いもしなかったのに……

彼女のあの笑顔の裏に他の顔があるのか……

そう思うと、もう何も信じられなくなりそうだった。



いつものように川沿いを避けて、大きく迂回しながら上の大通りに出る。

まっすぐ歩いて、コンビニのはす向かいまで来た時、ふと『RUDE BAR』に目を止めた。


車の中で彼は、“しばらく捜査会議はしない” と言った。


だったら私が行っても邪魔にはならないだろう。

波瑠さんに、蒼汰を介してプレゼントしてくれた『galler』のチョコのお礼も言いたいし。


自分のなかに沸き上がる幾つかの言い訳を、肯定する。


川を下らずに大通りを北に渡り、久しぶりに

『RUDE BAR』のドアに手をかけた。


少し重いその扉を開けると、かつて平穏だった毎日の中に組み込まれていた、ここでの他愛もなく楽しい時間が戻ってくるような気がした。


変わらない喧騒が階下から吹き上がって、一瞬にして包み込んでくれた。


目が慣れる前に、下から声をかけられる。


「おお、絵梨香ちゃん! いらっしゃい!」


その声で、尻込みしていた不安な気持ちがスッと消えた。

“大丈夫だ、いつでもおいで。君の居場所へ……”

そう、後ろから背中を押されたような気がした。

 

「波瑠さん、こんばんは」




今日も零はいつものごとく、絵梨香の後ろを歩いていた。

彼女が家に入ったら、すぐに『RUDE BAR』に入り、高倉が来るまでに今日警察本部で閲覧した絹川美保子の調書から書き出したメモを整理するつもりだった。


今日の会議のメインは、天海病院で得た小田原佳乃の傷の形状から、それまで仮説だったひとつの事が大きく動き出そうとしている、その事だった。


零は、彼女が思いがけなくルートを変えたことに少し驚いた。

しかしすぐにその行動を肯定する。


まあ、こういう日もあるだろう。

気持ちが外に向いたということは、心の回復を意味する。

悪いことではない。


零は彼女が『RUDE BAR』に入るのを確認してから、橋にもたれてスマホを耳に当てた。


「蒼汰、もうこっちに向かっているか?」


「ああ、あと20分ほどで着く」


「そうか、今日は捜査会議は無しだ」 


「なんで?」


「相澤絵梨香が『RUDE BAR』に入っていった」


「そうか……っていうか零、どこにいるんだ?」


「川沿いにいる」 


「なんでそこにいるんだ?」

 

「いや、俺も『RUDE BAR』に向かうところだった。蒼汰、お前は普通に来るだろ?」 


「ああ」


「じゃあ、相手してやれ」


「零、お前は?」


「いや、俺は今日は行かない」


「なんで? そばに居たんなら一緒に入ればよかったのに」


「いや……調べたいこともあるし、俺はやめておく。波瑠さんにも、それとなく伝えておいてくれ」


「そっか……わかったよ」 


電話を切った蒼汰に、またいつもの苦い気持ちが沸き上がった。




『Rude bar』に入ると、波瑠が心配そうな面持ちで絵梨香を迎えた。


「絵梨香ちゃん、聞いたよ、大丈夫か?」


「ええ、今回は気分が悪くなったけど、もうすっかり体調も戻ったわ。ちゃんと仕事もしてきたのよ!」


「そうか、えらいな社会人! 少し安心した」

波瑠は表情を明るくした。


「どうして知ってるの? 昨夜は誰も来なかったでしょ?」


「ああ……蒼汰から、しばらくここで会議はしないことになったって、連絡もらった。その時に絵梨香ちゃんがまた過呼吸を起こしたって、聞いたんだ」


「そうなのね」


「ああ。昨日……」


またそう言いかけて、ひゃっとする。

昨日は会議は無かったことになっているのだ。

零と蒼汰を家に泊めたことも、悟られないようにしないと、と波瑠は気を引きしめる。


「絵梨香ちゃん、零とは……」

そう思いながらも、更に思わず出てしまう言葉に自ら焦りを感じる。


「え?」


「あ……最近、よく話したりするのかなぁ……と思って……」


「まあ……今回も聞き込みに同行したり、この前も電車でばったり遭遇したりね、そう思うとこのところはよく会ってると思う。実は彼とはこれまで偶然も多くて……だけど、その割にはあんまり仲良くなった感じはしないんだけどね。彼はいつも、事件に夢中だし」


波瑠は少し表情を曇らせた。

「まあ、今回の事件には……特にそうだろうな。なあ絵梨香ちゃん、零の……事情のことは?」


「うん、蒼汰から聞いた」


「そう。聞いたんだね……なら、解るよな? 絵梨香ちゃん、零はあんな感じだけど、本当は優しいヤツだ。少しは感じ取ってくれてるよね?」


「……うん、彼には、これまでいっぱい助けてもらってるし……」

絵梨香は少しうつむいた。


「“だけど、ヤツの事がわからない”……そう思ってるんでしょ? 解るよ、確かに捜査になると周りが見えなくなる。今回はさ、ヤツが経験した究極の苦しみに酷似した事件が起こってしまったわけだろ? だから……今は、誰も零を止められないから……」


絵梨香は頷いた。


「それは俺たちだけじゃなく、捜査関係者もわかってるんだ。零は必ず突き止めようとするだろう、その気持ちが大きい分、絵梨香ちゃんにも失礼な言い方したり、強引な調査や捜査をしてしまうかもしれない……先に俺から謝っておくよ。絵梨香ちゃん、いつでもヤツの愚痴は聞くから、大目に見てやって」


波瑠の愛ある言葉に、当時の彼がどれほど大変だったかが、うかがい知れた。

蒼汰から聞いた彼の衝撃の過去……

蒼汰と同じように、波瑠さんもあの胸の痛みを刻みながら、彼を支えようしているんだ……


「わかったわ。波瑠さん」

絵梨香は凛とした表情で言った。



波瑠がお客さんに呼ばれて、暫し一人になった。

このカウンターで、一人でグラスを傾けるのなんて、いつぶりだろう。

いつも誰かがそばにいて、話を聞いてくれたり、助けてくれたり。  

ここしばらくは、ずっとそうだった。


守られてきた。

ゆえに、彼らの中に “優しい嘘” が点在しているように思える。

来栖零も蒼汰も、波瑠さんも……


私がそうであるように、きっと零も蒼汰も、事件解明の為に私に聞きたいことがある筈だ。

なのに……今は私の気持ちを気遣って、何も聞けないのだろう。



警察の真似事のように調査をしていて、自分に降りかかった事を “なかった事”や“他人事” にできるような、ちょっとした錯覚に陥っていた。


いっそすべてが悪夢の中の出来事だったなら……

何もなかったなら……

そう思いたかった。


しかし彼らと共に、自分の為にも事件を探求すると、決めたのだ。

ただし、探求するいうことは、自分のあの怖かった体験を何度も直視しなければならないことになるけれど。


普段なるべく頭に置かないようにして生活してきたが、こんな毎日が続くのならいっそのこと、あの日のことを少しでも思い出して、手がかりになれば……


多くの人が事件のために、自分のために、動いてくれている。

私だけが本質的なところで逃げ腰でいては、事件の解決は遠のくばかり。

思い出さなければ……いけないようだ。

そう思った。



あの日……

LACHICシック』で食事した後『ファビュラス』のスタッフ達に手を振って……外に出てから、佳乃さんと分かれて……


駅に着く前にはもう、既に前後不覚だった。

何故だろう?

酒量は自分のなかでの許容範囲の半分以下……

まぁ生前葬以来、自分でも制御できない身体の変化に突然襲われることが度々あったので、精神的なものかもしれない……


そして、なんとか渚駅で電車を降りて、川沿いの道を……


そこまで思い出しただけで、膝がガクガクする。


無意識に怪我の箇所をそっと指でなぞっていた。

その時の痛みが蘇り、ピリピリという感覚があの情景と共に蘇り、つぶった瞼を痙攣させる。


息が……


いけない、今ここで過呼吸を起こしたら……

そう思うと前に進めなくなった。


昨日、あの狂おしいほどの香りの中で、また死にそうな思いをした。

彼がいなければどうなっていたか……

彼の胸に寄りかかり、遠のく意識の中で見つめた目の奥に見た、カッとした炎のような熱さ……

それは、あの公園で犯人が逃げていった後の、

来栖零と2人になった時の、あの目と重なった……


あの日……

躊躇なく私を抱き締める零。

決して救出のための包容でも、安堵からくる喜びでもない、ただただ強い感情を感じた。

普段は何も見えていないような目をしていた彼の、強い眼差しが私を捉えた。

そして……

私の唇の血を拭って、躊躇なく口付けるその行動……

もはや彼ではない、何かに取り憑かれているように見えた。


そうだ、あの時彼は何か言った。

確か……


“今度は、助けられた” と……



それを思い出した絵梨香は、胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。


来栖零が助けたかったのは、私ではない。


助けられなかった、彼の“最愛の人”だ。


彼女とオーバーラップして……

彼は、疑似体験をしたにすぎない。


零の心の傷をの深さを、改めて知った気がした。

口づけの意味も、それなら辻褄が合う。

彼に見えていたのは私ではなく、私を通しての当時の助けられなかった彼女だったのだ。

確かに、あんなに人間らしい表情をした零を初めて見た。

荒々しい感情の中にある、優しい手を……

その手は、私に向かって差し伸べられたのではなかった……

あれこそが、当時、彼が彼女にしてあげたかったことなのだ……


何かが光った。

カウンターに置いた手の甲に、一粒の水滴を見つける。

何故………

一瞬呼吸が止まりそうな感覚になって、慌てて息を吹き返した。


「おーい、絵梨香?」


「……蒼汰」


第90話 『交錯する想い

       Flow Of Feelings』ー終ー

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