第91話 『A White Lie』 

零の心の傷をの深さを知り、あの口づけも、自分を介しての“彼女”だった……

荒々しい感情の中にある優しい手も、“彼女”に向かって差し伸べられたものだ……

そう気付いた絵梨香は、思いがけなくこぼれ落ちた涙に戸惑う。


「おーい、絵梨香?」


「……蒼汰」


絵梨香はとっさに手の甲を拭った。

髪をかき上げるふりをして、頬が濡れていないか確認する。


「さっきから何度も呼んでいるのに、どうして気付かないんだ? また調子悪いとか?」


蒼汰が心配そうに顔を覗き込むのを、思わずかわしてしまう。


「ううん、大丈夫。そんなことないよ」


「薬、飲んだりしてないよな?」


「うん、絶対飲まない!」


「よし!」


蒼汰はどっかと座った。


「今日はどうして来たの? 会議はないって」


「ああ、なんとなく絵梨香が来てるかなぁと思って」


「ウソ! 私めったに一人でなんて来ないもん」


「じゃあテレパシーかな?」


「何、その冗談? イケてない!」


二人して笑った。


「絵梨香、由夏姉ちゃんもうじき帰ってくるだろ。おじさんとおばさんにはどう言ってるんだ?」


「ちゃんと連絡したよ、安全だって。まあ、だいぶん軽く言っちゃったけど」


「まあいいだろう、俺からも連絡しておくよ」


「ありがとうね。私……もっと事件のこと、詳しく思い出せたらいいんだけどね……そしたら早期解決につながるかもしれないでしょ? だけど……どうしても思い出すと辛くなって……ホント、役に立たなくてごめんね、蒼汰」


蒼汰が急に神妙な顔をした。

「そんなこと言うな! 絵梨香、オレはお前に思い出させたいわけじゃない」


「蒼汰……」


「あれから、どうやったら絵梨香が普通に過ごせるか、ずっと考えてたのに……なのに、またこんなことになってさ。零じゃないけど、俺も犯人のこと恨むよ」


「ありがとう……ごめんね、もう無理しないから」


蒼汰は少し寂しそうな笑顔で、うんうんと頷いた。



「あの……彼って……いつも何してるの?」


「あ、零か? あいつはお前の……」  


「え?」

 

“お前の見張りだよ” そう言いそうになった。


「あ……お前の『想命館』での聞き込みが役に立ったって言ってたよ、それで捜査が進んで、けっこう忙しそうだ」


「ホント? 良かった!」


嘘だった。

蒼汰は、ここRUDE BARに来る前に、この店の真向かいにあるスタバに立ち寄っていた。


昨日声をかけられた、ファッションの専門学生の女の子に、逆に尋ねてみた。


今日もヤツがここに来たかどうかを……


答えを聞く数秒間、“今日は見なかった” という言葉を、期待している自分がいた。


しかし、彼女からは予想通り、“30分ほど前に、またスマホを見ながら慌てて出て行った” という答えが返ってきた。


零、お前は一体……


その言葉の続きを打ち消して、蒼汰は『RUDE BAR』のドアを開けたのだった。



蒼汰の横で、絵梨香は久しぶりに一杯のグラスを空けた。

美味しいと感じる。

ドアチャイムが鳴ると、絵梨香は階段を見上げる。

待っていたつもりはなかったのに、ドアチャイムが鳴るたびに見てしまう自分に気付く。


これまで、波瑠さんからも蒼汰からも、零の “人となり” を聞かされてきた。

それは二人がきっと、彼の本質を知っていて、それを私に理解してやってほしいと願っているからなんだろう。

そして私が彼を誤解することによって、辛い気持ちにおちいらないように……


でも私は……まだ本当の意味で、彼の本質を知らない。

それが『カサブランカレジデンス』のエントランスで、偶然にも盗み見たあの自嘲的に笑った苦しそうな、彼の表情の下にあるのか……


あの時、彼は「俺にもわからない」と言って顔を歪めた、その素顔の部分とは……

それを私だけ知らない。

いくつかの顔を見てきたけれど、全部別人に見える。

それが辛いのか寂しいのか、それもすらもわからなくなってきた。


久しぶりに夜更けまで『RUDE BAR』にいた。

零が来ることはなかった。


蒼汰とは、まだ何の事件も起こっていなかった時のように話すことができた。

心がじんわりあったまる。


それだけでいいはずなのに、また振り返る自分に、溜め息をつく。

酔いが回っていると自覚した。

ふと、彼は今何してるんだろと思って、また打ち消す。

どうせどこかで、警察と捜査を続けているのだろう。

そんな言葉を胸に浮かべて見せるのに、あの車の中での、心を捕まえるように握ってくれた手の温もりと指先にこめた力が、いつまでも消えない。



「絵梨香、少し飲みすぎだな。眠たそうだし、もう帰ろう」


そう言って絵梨香の肩に手を置く蒼汰に、絵梨香は返事をしながら、また入口のドアに目を向けた。


零は来ないよ、絵梨香。

何故なら……

お前がここにいるからだ……


蒼汰は心の中でそう呟きながら、絵梨香の頭に手を置いた。


「行こう、絵梨香。送って行くよ」


蒼汰は絵梨香の肩を持って立ち上がらせ、波瑠に挨拶をして、大通りに出た。

フラフラと歩く絵梨香をサポートしながら、『カサブランカレジデンス』のエントランスを一緒にくぐりエレベーターに乗り込む。


「ねえ蒼汰」


「ん?」


「あそこ……『RUDE BAR』での捜査会議は、いつ再開されるの?」


蒼汰の目が泳いだ。


「ん……どうかなあ。しばらくはないかもしれないな。なんか今日も、零は本部に呼ばれてたみたいだし」


「そうなんだ?」


「また集まる時はさ、連絡するよ」


「分かった」


エレベーターのドアが開いた。


「いつもありがとう、蒼汰。おやすみ」


「ああ、しっかり寝ろよ。おやすみ」


絵梨香がドアの向こうに消えるのを見届けてから、エレベーターに乗り込む。


スマホの通知ランプが点滅していた。  


メッセージを開いてみると、波瑠からだった。

 

零と高倉さんが店に来ているらしい。

お前も来られるか? という内容だった。

よっぽどスルーして帰ろうか、とも思ったが……すぐに行くと返信した。


さっき来た道を逆走し、出たばかりの店の階段を下る。

あの絵梨香の状態を見た後で、零の顔を見るのは、なんだか気が重かった。

何度となく、絵梨香が見上げていたドアチャイムを、自ら鳴らす。


「お! 江藤くん。お疲れさん!」


高倉の明るい声で迎え入れられた。

いつもこの人のテンションに助けられる。

 

「こんばんは。今日は何処でくだ巻いてたんですか? 男二人で?」


「ははは。随分、言ってくれるじゃないか。君は相澤さんと二人だったんだって? そりゃあ華のある時間でいいよな? でもね、男二人だったけど、今日は零くんからいい話が聞けたよ」

 

「そうなんですか?」

 

蒼汰は、ようやく零の方を振り返った。

「いい話?」


「ああ。だんだん“ほころび”が出てきた」


遠い視線で、ほんの少し口角を上げた零の表情から、滲み出る攻撃性が見て取れた。


少し不安な気持ちを抱いたまま、波瑠の方を見ると、波瑠も同じ面持ちで、蒼汰と目が合った。


「時間も遅いことだし、早速始めようか。江藤くん」


三人で会議室に入った。


気後れしている蒼汰を置き去りに、二人は手際よく資料を机に配置しながら、全開モードだった。


蒼汰も遅れまじと、それらしい質問を投げかけてみる。


「今日は本部に調書を読みに行くって言ってたよな?」


「ああ、絹川美保子の経歴について調べたくてね」

 

零のメモをざっと読んだ。


「絹川美保子34歳。

姉妹きょうだいは、なし。真面目で優秀。割りと裕福な家庭に育った。

彼女が高校3年の時、父親が精神を病み、突然会社に行かなくなったため、美保子は大学の道を諦め、働きながら看護師の夜間学校にかよい、父を助けるために“心療カウンセラー”を目指して勉強するも、こころざし半ばで父が他界」


「熊倉圭織と揉めていたという証言から。二人は中高一貫の女子高校の同級生という事が判明」


クラスメートに聞き込み。

「中学の時は親友、高校になってから熊倉に対する絹川のいじめが発覚。

高3の時、絹川の父がリストラされたことによって絹川は転校。

夜間学校での成績は優秀。

心療カウンセラーと栄養士の資格も持ち、医療行為もできる特別な研修を受け、特定看護師の資格取得。

後々介護士の免許取得。

学友からの評判は、とても優秀で落ち着いた人」


就職先について。

「夜間学校卒業後は、何故か転々としていた。

西園寺章蔵氏が通っている帝和国際大学附属病院に就職してからは長期勤続、介護士と栄養指導を担う。

内定当時の教授より、本人からかなりな売り込を受け、この病院で働きたいという熱意を感じたと証言」


当時の同僚の証言から。

「絹川は真面目で厳しくみんなも一目置く存在だったが、西園寺氏にだけは優しく微笑んでいたり、スキンシップがあったりして皆が驚いて、西園寺氏に取り入ろうとしてるんじゃないかと、噂にまでなっていたと証言。

一度匿名で、院長に密告もあったらしく、彼女の立場が悪くなるじゃないかという声も囁かれたが、それ以降も同じように接していたことから、多分西園寺氏から息がかかったのではないかと皆が推察していた。

程なくして彼女は病院を辞職。

他の病院に移らず、西園寺章蔵氏の専属の介護士をしていたことに皆が驚いた」


「うーん……」


「蒼汰、わかることはなんだ?」


「え……ああ、この、帝和国際大学附属病院といえば、帝和国際大学出身の小田原佳乃との接点を考えるな」


「確かにそうだな、同じ大学名が出ればそう思うだろう。しかし、帝和国際大学は日本で一、二を争うマンモス大学だ。敷地も広く専攻も多いため、いわゆる巨大地方大学の骨頂さ」


「そうか。たしか幾つかの地方大学が、合併した大学だったな? 系列も学部も多い大学か……」


「ちなみに絹川が就職した帝和国際大学附属病院と帝和国際大学文系の心理学科のキャンパスは県をまたいでいる距離感だ。お互いに寮ではなく自宅通いだ。これでわかることは?」


「単に出身地が近いということだけか?」


「そうだ。あと加えて言うなら、このふたりは6才の年齢差があるが、絹川が附属病院に赴任した時期は、小田原佳乃は卒業してから二年後の事だ」


「じゃあ、小田原佳乃が在学中に絹川と関係がある線は薄いと?」


「まあ、ゼロではないが、今後洗うとしたら、絹川が赴任する前とそして小田原が帝和国際大学を卒業してからの空白の二年間と『想命館』に就職してから今に至るまでの四年間で、どんな接点を持つのが可能であるか、という事だな」


零は高倉の方に向き直した。


「高倉さん、小田原佳乃に関しても警察がどこまで把握しているか調書を覗きましたが、有用なネタはありませんでした。 彼女が被害者という立場で警察に認識されているので、入念な過去の調査はされなかった……ということですよね?」


「ああ、そうだな」

 

「もっと過去を掘り下げて調べたいんですが、ご協力いただけますか?」


「ああ。今日の収穫を挙げれば、容疑者とまではいかないが、掘り下げて調べることが可能になるだろう」


「今日の収穫?」

蒼汰が首をかしげる。


「ああ。絹川美保子の方はたいした情報は得られなかったが、小田原佳乃の件で天海先生から有用な情報を得た。これで前進できる」


蒼汰は、また零の表情から、妖しい輝きを感じ取った。


高倉と目が合ったとき、意外にも、波瑠から感じ取ったような懸念の表情が見えた。


蒼汰がじっと見つめると、彼も少し眉を上げた。


高倉はおもむろに携帯電話を出す。


「佐川に連絡するよ」


蒼汰が少し驚いたような表情する。

「こんな時間なのに、いいんですか?」


「今日ヤツは別件で地方に泊まりなんだが、連絡してくれって、頼まれてるんだよ。ヤツもある意味、この事件に夢中だ」


そう言って高倉は、少し自嘲的に笑いながら、蒼汰に向けて、ちらりと零の方を見た。


零はそれには気づかず、メモを束ねながら高倉に言った。


「佐川さんへの電話、俺がしてもいいですか?」


「ああいいよ。細い要請があるって事だよな?」


「ええそうです、調べてもらいたいことが幾つかあって」


「かまわない、佐川もそれを望んでいるだろう。アイツ、きっと電話を待ってるぞ。君からかけたら喜ぶかもな?」


零はメモの束をつかんで、会議室を出て行った。


「え? 佐川さんって、そんな感じなんですか?」

蒼汰が驚いたように言った。


「ああ。ここだけの話だが、佐川は “来栖零 フリーク” だ」


「フリーク?」


「ああ、実は"来栖零フリーク"は結構存在するよ。まあ半分、伝説みたいな言われ方もしてるけどね。佐川は、彼との捜査に加わりたいと志願したんだ。今は憧れの “フィクサー” と肩を並べて仕事ができてさ、アイツ、いつも満足そうだよ。俺としては、やる気のある部下と組めてものすごく助かってるしね」


トントンと階段の上る音が遠くに聞こえる。


「零はオンナにだけじゃなくて、強靭なオトコ達にもモテるんですか! もう入れ食いだな」

ソファーにもたれながら、蒼汰が笑って言う。


かすかに鳴るドアチャイムを確認してから、高倉は蒼汰を見据えた。


「江藤くん、彼の話……してもいいかな?」


「え? あ、はい……」


蒼汰の向かい側で、テーブルに肘を置き、幾分近付くように背中を屈めた高倉は、蒼汰を見つめたまま静かに話し始めた。



第91話 『A White Lie』ー終ー

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る