第137話 『Back On Your Feet』

波瑠の運転する車が天海病院を出てから、まだ十数分ほどしか経っていなかったが、空の色は刻々と変わっていった。


『カサブラン・カレジデンス』に着いた頃には、もう夕焼けが空いっぱいに広がっていて、その一面のキャンバスのすそに伸びた雲がほんの少し薄紫色に染まり、みるみるうちに蒼いグラデーションを形作っていった。


マンション前に車を停めた波瑠は、ルームミラーで後部座席の絵梨香の表情を伺った。

マンションのエントランスをロックオンしてじっと見据え、微動だにしない絵梨香に、助手席にいた蒼汰も気付いて慌てて車を降りた。

後部座席のドアを開けて絵梨香の腕を掴む。


「おい……蒼汰」


たしなめる波瑠の言葉も聞かず、半ば強引に車から絵梨香を引っ張り出した。


「絵梨香、もう何も心配いらないんだよ。見てみろ、あれだけ張り巡らされていた黄色いテープもなければ捜査員だって一人もいない。絵梨香、オレたちは日常に戻ってきたんだ」


絵梨香は改めて降り立った自宅前の景色を見回した。

少したじろいだ表情を見せながらも、やがてまっすぐに蒼汰の顔を見て、静かに頷く。


蒼汰もつられたように 小さく首を縦に振ると掴んでいた絵梨香の腕をそっと外した。


「オレ……荷物、降ろすわ」


蒼汰がぎこちなくそう言って、車の後部に回り込むと、絵梨香はその場でぐっと顔を上げて、深呼吸でもするかのように空を見上げた。


波瑠も運転席から降りて、絵梨香の母の千香子に小さな荷物だけ渡してマンションに促し、荷物をトランクから下ろそうとしている蒼汰のもとへ歩み寄る。

蒼汰がふと手を止めたので、波瑠はその顔を見上げた。


その視線の行く先には、当然ながら絵梨香がいる。


声を発しないままその様子を見入るように動かない蒼汰に代わって、波瑠が声をかけた。


「絵梨香ちゃん、どうした?」


ほんの少し見えた寂しげな表情を押し隠しながら、絵梨香は微笑んで言った。


「あ……この空の色ね、西園寺家のベランダから見たときと似てて……あまりにも綺麗だから……見とれちゃった」


「そうか。ホントに、綺麗だな」


そう言いながら波瑠がそっと視線を戻すと、蒼汰はもう絵梨香に背を向けてうつむき加減で 黙々と作業をすすめていた。

そして顔を上げないまま言う。


「絵梨香、おばさんと先に上がっときなよ。オレ、波瑠さんと後から荷物もって上がるからさ。ほら、早く!」


まくし立てるようにそう言った蒼汰の肩に、波瑠はそっと手を置いた。

絵梨香がエントランスに消えていくのを見送って、声をかける。


「どうした? 蒼汰?」


蒼汰は、俯いたまま動きを止めた。


「蒼汰?」


「……本当にこの空の色は、あの西園寺家で見た夕日とそっくりだ。なのにこの状況はどうだ……あの時はまだ絵梨香は被害に遭っていなかった。あの日絵梨香はこれと同じ夕日を見ながら泣いていたけど……でもそれは西園寺のじいさんを偲んでのことだ。その後に自分の身にとんでもないことが起きるなんて……想像もしていなかっただろう。なんの因縁もない人間に襲われたり、自分の家で監禁されるなんてことに……なるなんて……」


「蒼汰……」


「さっき絵梨香がさ、どんな気持ちでこの空を見上げていたのかと思うと……」


そう言って蒼汰は言葉を詰まらせた。


波瑠は蒼汰の想いの深さを改めて知ったような気がした。


蒼太の肩にかけた手に力を込め、その体を抱きしめた。


「お前も空を見るたびに、辛かったんだな」


かすかに鼻をすする音が聞こえた後は、そのまま沈黙が続いた。


やがてその肩が小刻みに揺れだし、一つ大きな呼吸をすると、蒼汰は白々しいほどの大きな声で話し出した。


「あのさぁ波瑠さん。この状況、通りすがりの人が見たら確実に誤解されるよ。波瑠さんさ、この辺りでは有名人なんだから、とんでもない噂が回っちまったら、商売に支障をきたすぞ!」


顔を上げた蒼汰は、笑いながら少し恥ずかしそうに波瑠の腕を交わし、背を向けるとまた必要もない作業を始めた。


声をかけようとしたその時、蒼汰がぽつりと言った。


「ありがとう……波瑠さん。オレさ正直、なにも受け入れられてないんだ。絵梨香に起きたことも、ここに零が居ないことも……でも」


そう言いながら蒼汰は、もう一度空を見上げた。


「くじけてちゃダメなんだ。オレが絵梨香を支えていかなきゃいけないんだから。そうだろ? 波瑠さん」


「ああ」

波瑠は、空を見上げままの蒼汰の横顔をじっと見た。

崩れそうな心を必死で立て直しながら、その自分の心は置き去りに、彼女を支えることだけに徹する決心をした蒼汰を、側で見守ってやりたいと、そう思った。


「波瑠さん、今からケータリング取りに行くんだよね? オレもついていこうか?」


「いや、たいした荷物じゃないから、蒼汰はそのスーツケース持って上がって、絵梨香ちゃんとお母さんの相手をしててくれ。すぐ戻るから」


「了解!」


笑顔を見せた蒼汰は、もう一度だけ空を見て マンションの中に入っていく。


再び運転席に戻った波瑠は、エンジンをかける前に電話を一本かけた。


電話の相手は出なかった。


そのままもう一本、別の電話をかける。


「お疲れ様です、高倉さん。アイツはどうしてますか? そうですか……彼女が退院したので 連絡したんですが、電話には出ないので……そうですよね、知らないはずないですよね。ええ、一度も病院には来ませんでした。ああ、やっぱり……そうでしょうね。どうせ躍起になって捜査に没頭してるんだろうって、俺も蒼汰もそう思っていましたから。はい、零のこと、よろしくお願いします」



ケータリングの包みを抱えて絵梨香の部屋を訪れると、振り向いた蒼汰が満面の笑みで走り寄ってきた。


「うっわ、めちゃめちゃウマそうじゃん! さすが波瑠さん! いい店知ってるよな。じゃあ快気祝い、スタートといきますか!」


早速テーブルに広げたオードブルを一つ摘まんで見せて、絵梨香にたしなめられるのを心地良さそうに聞いている蒼汰の横顔を、波瑠はまたしばし眺めた。


まるで従姉ねえさんにそっくりだな。

その無理して明るく立ち振る舞うところも、そして本当は足がすくむぐらい、不安を抱えているところも……


そう思いながら、千香子から受け取った皿を二人にも手渡して、料理を取り分けてやった。


終始楽しそうに話している蒼汰と絵梨香のやり取りに目を細め、自分自身も今は平穏の中に居るのだと実感する。


この和やかで明るい空間が、この先もずっと続けばいい……

心の底からそう思う波瑠の脳裏に、零の苦悩の表情がよぎる。


ついさっき、車から電話した時に零が電話に出なかったのは、小田原佳乃の取り調べの真っ最中だったからだと、高倉刑事が教えてくれた。


心底憎いであろう相手に、今まさに机越しに面と向かって話しているであろう零は、一体どんな気持ちでいるのか……


心を殺しているのかもしれない。


誘拐犯小田原と端末越しに彼女の無事を懇願した零の姿は交渉人ネゴシエーターでも役者でもなく、ただ彼女を愛するがゆえの行動に見えた。


そんな彼女の無事をも自分の目では見届けず、親友に託す選択をした零の心は……


加えて高倉刑事は、もう一つ気になる話をしていた。

零が誰もいない会議室で電話している所を偶然通りかかって零の話し声を聞いてしまったと。


電話の相手は、零が「松山さん」と言ったこととその口ぶりから、高倉刑事も面識のある来栖家の執事であることは間違いないと言った。


零はいつになく動揺したような声で「本当なんですか? それは……父が承諾したということですか……」と言った後、静かに「わかりました」とだけ言って電話を切ったそうだ。

その後は輪をかけたように遮二無二になって捜査会議をすすめ、心配した高倉刑事が食事に誘っても応じず、捜査員が出払っても資料に目を落としたまま事件に没頭していたようだった。


まだこの期に及んで零の身の回りには、何か 別の大きな問題が起こっているのではないか。

アメリカか、またはまたそれより別の何かが……


波瑠は胸を痛める。


「いつも無理ばっかりしやがって……」

誰にも聞こえない呟きが、思わず漏れた。


そしてここにも、もう一人……


そう思いながら波瑠は絵梨香の表情を見る。


病院に搬送された直後の、あの憂いを帯びた血の気のない表情とはうって変わって、ほとばしる水のようにキラキラした表情で笑みを振りまいている。

その表情に皆が救われていることを、本人も知ってるかのように絶え間ない笑顔でいる彼女の細い肩を見つめた。


本当は、愛する人に全部寄りかかってぐっすり眠りたいだけなのかも知れない。

以前この部屋の玄関で見た、絵梨香の泣き崩れるシーンを頭から打ち消して、波瑠は今ここで気丈に振る舞っている彼女を心から応援しようと思った。


千香子がいることもあって、話は由夏と絵梨香と蒼汰の幼少期の話に花が咲いた。


食事が終わって千賀子を新幹線の駅まで送った波瑠は、いつもより一時間ほど押して『RUDE BAR』をオープンする。


看板を立てながら見回した街は、何事もなかったかのようにいつも通りの景色で、そしてやがて店の中も、いつも通りの活気ある賑わいを見せた。


世も更けて最後の客が店を後にし、波瑠がそろそろ『Closed』の看板を掛けに上がろうと思っていた矢先にドアチャイムが音を立てた。


「すみません、そろそろ閉店にしようと……」


そう言いかけて見上げた入り口には、見覚えのあるシルエットが立っていた。


「ん? 蒼汰? どうしたんだ、こんな時間に」

 

蒼汰は一度ドアの外に出て、看板を『closed』に架け替えてから、ゆっくり階段を降りてきた。


「絵梨香ちゃんは?」


「もう眠った。天海病気から精神安定剤が出てるんだ。これを飲んだら多分、夜中に起きることはないだろうって、そう言ってたから」


「だからって、一人で置いてきて大丈夫なのか?」


「ああ、天海先生にも確認したから大丈夫だよ」


「ならいいけど……だったらお前も休めばいいじゃないか。疲れてるだろ?」


蒼汰は出されたビールに口をつけないまま言った。


「波瑠さん」


「ん?」


「しばらくの間さ、オレ、波瑠さん家に泊まっていいかな?」


「え? だってお前は『カサブランカレジデンス』に寝泊まりするんじゃなかったのか?」


「うん、そうなんだけどさ……絵梨香が眠ってから目が覚めるまでの間は、オレ、波瑠さん家で過ごせたら助かるなって思うんだけどさ。ダメかな?」


「いや、全然ダメじゃないけど、お前……」


蒼太の顔を見て、波瑠はそれ以上の先の言葉を飲み込んだ。


蒼汰は苦しんでいるんだ。

心をき止めたまま、ずっと繕って明るく彼女のそばにいることが、蒼汰にとってどれほどの心の負担になっているか……計り知れないながらも理解はできる。


波瑠は大きく息をついて、グラスの残りを飲み干した。


「蒼汰、お泊りセットはどうした? いつもお前、大荷物でやって来るくせに」


「あはは、今回は今からコンビニで買う歯ブラシ一本でお邪魔させてもらおうと思ってさ」


波瑠は笑って、蒼汰にビールを促した。


「分かったよ。宿泊費は缶コーヒー一本で許してやるよ」


「サンキュー波瑠さん」


そう言ってビールをあおる蒼汰の顔から、ほんの一瞬だけ笑顔が消えた。

凛としたその目には、何かを決意したような強さが見えた。


「ああ、ウマイな! 波瑠さん、しばらくは女の子を家に連れ込めないけど、ホントかまわない?」


「お前なぁ! ベランダで寝かせるぞ!」


「あはは、波瑠さんは由夏姉ちゃん一筋だから、そんな悪さはしないか? あ、オレ別に由夏姉ちゃんの回し者じゃないからね!」


「バカなこと言ってないで! ほら、飲んだらもう行くぞ!」


波瑠に急かされた蒼汰が階段を掛け上がる。

近くで蒼汰を見てやれることに少し安堵しながら、ゆっくりと後から続いた波瑠は『RUDE BAR』に鍵をかけた。


第137話 『Back On Your Feet』ー終ー

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