第138話 『穏やかな日常の中で』

遠くの方で僅かに聞こえる、カチャカチャという食器の音で目が覚めた。

カーテンの隙間から差し込んだ太陽の光が、朝の清々しさを予感させる。


絵梨香はそっとベッドから足を下ろし、そのカーテンを一気に開け放った。

まぶしい光に一瞬、目を細める。

ゆっくり目を開けると、思った通りの晴天が広がっていた。

ぐーんと伸びをしてから、ダイニングから聞こえる音に耳を澄ませる。


ドアを開けると、くつくつと沸騰する音と共に香ばしい挽きたてのコーヒーの香りに体ごと包まれる。


「おはよう」


「おお、おはよう絵梨香。よく寝てたな……っ ていうか、こんな時間まで起きてこないからちょっと心配になったぞ」


「あはは、ごめん。病院でもそうだったんだけど、あの薬を飲むとなかなか起きられなくて」


「まあ今はちょうどいいよ。とりあえず体調が整うまでは続けていいって、天海先生が言ってたんだろ?」


絵梨香は席につきながら頷いた。


「ほら、コーヒー淹れるから座って」


「うん。ありがとう。いい香り」


「絵梨香が起きるのを待ってたんだよ。オレもまだ飲んでないんだ」


「そうなの? ありがとう。蒼汰、随分早起きしたんじゃない?」


絵梨香はさっき開け放たれていたゲストルームに目を向けたとき、そのベッドの上に布団がきちんとたたまれていたのを思い浮かべた。


「ちょっと早く目が覚めちまったからさ、朝の散歩に出掛けて来た。駅前に新しくパン屋ができたの、知ってる? あまりにもいい匂いだったからさ、ちょっと買い込んできた」


「え、ウソ! 私まだ食べたことないの。嬉しい!」


蒼汰はガサガサと紙袋からパンの袋を取り出した。


「よかった。絵梨香が好きそうなの、買ってきたよ。ホラ」  


「うわ。めちゃめちゃ美味しそう! あ……ちょっとカロリーは高そうだけど」


「あはは。いいじゃん、別に」


コーヒーカップ二つをテーブルに置いて、蒼汰も席につく。


「なんか蒼汰と一緒にいたら、私、太っちゃいそうだね?」


「そうだな。オレはついつい絵梨香を甘やかしちまうからな。まあ、由夏姉ちゃんにも頼まれてるしさ、しばらくは甘えとけ」


「じゃあいっぱい食べちゃっていいの?」


「いいよ、オレの分もやろうか?」


「もう……そんなんじゃホントに困るよ。社会復帰できなくなりそう」


「ブタになって会社行けなくなるか?」


意地悪そうな視線でカップを持ち上げている蒼汰に絵梨香は抗議する。


「そんなに食べないもん!」


「あはは。まあ、しばらくはこんな感じで絵梨香をここで甘やかし続けるけどな」


「毎日蒼汰と一緒か……なんかやだなぁ」


絵梨香は笑いながら上目遣いでそう言った。


「は? おいおい、そんなこと言うなよ! オレと居たら楽しいよ。毎晩面白い話ししてやるじゃん。そうだ、今夜『RUDE BAR』に行く?そんでそのままここに帰ってさ……ほら、楽しい毎日じゃん?」


絵梨香はほんの一瞬、黙りこくる。

  

「……絵梨香?」


「そうね。楽しいかも!」


「だろ?」


そうにっこり笑って言った蒼汰は、その心に、埋まらない隙間のようなものを感じながら、ひたすら話し続けた。

一瞬、絵梨香が見せた表情が、いつまでも頭から離れなかった。

それをかき消そうと、自分の口からいくつもの言葉が、自分が思っている何倍も高いテンションで発せられることに自嘲する。


こんな状態がいつまで続くのか?

そんな疑念が沸き上がっては打ち消して……そんな時間が過ぎていった。




絵梨香はしばらく会社は休んで、家でコラムを書くことになり、その資料集めや取材等も含め、一日の大部分を自室のデスクに置いたパソコンの前で過ごしていた。


また、担当作家の出版イベントが一通り終わっていた蒼汰も、作家とのコンタクトや新しい企画の書類作成をテレワークで済ませるため、リビングテーブルに広げたパソコンの前に座り、時計を見ながら時折、絵梨香に食事や休憩を促していた。


「絵梨香、ちょっと休めよ。はいコーヒー」


「ありがとう、あれ? もうこんな時間?」


トレーを抱えたまま、蒼汰が絵梨香の隣にすわる。


「なんかさオレ、こんなプライベートでも “作家” の相手してるよね?」


「あはは、ごめんごめん。でもホント、蒼汰は気が利くよね。担当作家さんの筆が進むはずだわ」


絵梨香はそう言ってにっこり微笑む。


「そんな事言って! 今以上にオレをこき使うつもりだろ!」


「まあね」


絵梨香が舌を出した。


「こいつめ!」


絵梨香の頭をちょんと突っつきながら、その笑顔に安堵を覚える。


本当に傷は癒えたのか?

胸の奥の傷は?

アイツのことは……?


そう尋ねたくなる気持ちを押さえながら、その笑顔に付き合う。


「じゃあ、そろそろ ディナーの準備でもするとするか」


「ああ、いつも蒼汰が作ってくれるから、今日は私が作るよ」


「いいよ。今日はもう、仕込みもほとんど終わってるしね」


「そうなの?」


「いつも準備万端だからな、オレは。絵梨香とは違って」


「またそんな風にディスる!」


「っていうかさ、さっき会社から電話あっただろう? その原稿、急かされてるんじゃないの? だったら書き進めてた方が良くないか?」


「あ……うん、確かに」


絵梨香の顔が少し曇った。


「じゃあ、メシが出来たら呼ぶから」


「うん……ありがとう。献立は?」


「それは、後のお楽しみ!」


そう笑って言って、蒼汰は絵梨香の部屋を出た。


今回の西園寺章蔵の事件があったにも関わらず、親会社の『東雲しののめコーポレーション』からの要請で、『ファビュラスJAPAN』には、『生前葬』と言う名のイベント事業も立ち上げられたそうだ。

どうも今回の社員が殺人を犯したと言う不祥事で倒産しかかった『想命館』を、東雲グループが買収する話が浮上していたらしい。

そのあたりの話は、うっすらと由夏から聞かされていた。

さっきの電話の感じでは、どうもそれが決定事項となったようだった。




「お待たせ致しました、お嬢様。お夕食の時間です」


そう大きな声で蒼汰が言うと、絵梨香が笑いながら部屋から出てきた。


「もう! 毎回そんな茶番劇はいいって」


「そう言うなよ! こっちは楽しんでやってんだからさ」


「あはは。はいはい」


そう言ってダイニングテーブルにつく絵梨香は、その卓上を見てパッと顔を明るくした。


「うわぁ、美味しそう! これは?」


「チキンと海老のトマトソース煮込みでございます」


そうおどけて見せる蒼汰は、更に絵梨香の前にバターライスを置いた。


香り高く、食欲をそそる琥珀色の御飯が、うず高く皿に盛られ、パセリが散らしてあった。

見た目も鮮やかな取り合わせで、改めて蒼汰のスキルに感心する。


「蒼汰って、料理も出来るんだ? しかも本格的!」


「そうか? 煮込み料理なんて基本、ぶっ込んで火加減に気を付けてれば勝手に出来るしさ、こっちもバターとガーリックに白飯ぶっ込んで醤油と塩で炒めただけだぞ。これしきのこと絵梨香だって出来るだろ」


「一人だとなかなかやらないなぁ、食材だって揃えないといけないし」


「とかいって、ついついコンビニ依存のOLの典型じゃないのか?」


絵梨香は苦笑いをする。


食卓に置いた絵梨香のスマホの通知ランプが点灯した。


目をやった絵梨香はすぐに視線を戻して食べ始める。

蒼汰の視線に気がついて、何事もないかのように装っているのがわかる。


「明日、現地ミーティングなんだって。私は行かないけどね」


「どこで?」


何気なく聞いた蒼汰に、絵梨香は一瞬詰まってから答えた。


「……想命館」


「絵梨香……大丈夫か?」


その言葉に、絵梨香は少し顔をあげる。


「何が?」  


「何がって……ファビラスに生前葬のカテゴリーができるってことは、その……またあの想命館に足を運ぶ可能性が出てくるってことだろう? あそこには辛い思い出しか……ないだろう」


そう言われて絵梨香はふと思いを馳せる。

一瞬、頭の中に出てきた景色は、熱気と共に包まれた中庭のセミの声と、館内を繋ぐ廊下から見上げた茜色の美しい空だけだった。

心にセーブがかかっていることは分かっている。

でもその美しい光景の向こう側に、彼がいたことは紛れもない事実だった。


「大丈夫よ、蒼汰。辛いことは結構忘れちゃってるの。私ってそういう能天気なタイプなのかも?」


うつむき加減に少し笑った顔を見せながらそういった絵梨香の細い肩を見て、駆け寄って抱きしめたくなった。

その衝動を抑えるように、深呼吸しながら、ため息をついて見せる。


「さあ! 女流作家さん、ここまで根を詰めて書いてたんだから、今夜は早く寝た方がいい」


「え? もう? あ! 蒼汰さ、私をさっさと寝かしつけて、ひとりのんびりしようと思ってるんでしょ?」


絵梨香はいたずらな表情で蒼汰を見上げた。


「は? なに言ってんだ! なるべく朝型にシフトしておかないと、職場復帰するときに辛くなるってことだよ」


「はいはい、蒼汰も私が寝ないと自由な時間が取れないもんね。手の掛かるコドモはさっさと寝ますよ!」


そう言って絵梨香は立ち上がり、蒼汰の分の食器もキッチンに運んで手早くゆすいで食洗機に入れた。


「ったく! 言ってろ!」


そう言って蒼汰は、距離を取りながら絵梨香を見過ごす。


「お風呂入ったらそのまま寝ますから!」


「おお、薬飲むの忘れんなよ」


「はーい」



蒼汰はいつものように、絵梨香が眠りにつくと そっと、マンションを抜け出した。

そしていつものように桜川の流れる音を聞きながら北上し、波瑠の家へ向かう。

そんな蒼汰を、波瑠はごく日常的に受け入れている。

朝早くに絵梨香のマンションに戻る蒼汰に合わせて、必ずその時間に起床して見送ってくれる波瑠に対して、蒼汰は何度となく言う。


「波瑠さん、別に起きてくれなくていいよ。オレ、そっと出て行くから。こうやって鍵も借りてるんだしさ、あんまり気を使わないでよ」


「なに言ってんだ。このぐらいのことで、お前こそ俺に気を使うな」


そう言って蒼汰に挽きたてのコーヒーをだしてやった。


波瑠はいつも遅くにやって来た蒼汰が、なかなか寝付けなくてソファでゴソゴソしているのを、気付かないフリをしながら何度も目にしていた。

蒼汰の中にある葛藤を感じつつ、支えてやりたいと思う気持ちが高まってゆく。


「蒼汰、この辺りのパン屋はもう制覇したんじゃないか?」


「へへっ。そうなんだよなぁ」


「ならさ、いろどりカフェにいってみるといい。あそこの焼きたてのスコーンは格別だぞ。蜂蜜も付けてもらえ」


「いいね! 絵梨香が喜びそうだな、サンキュー! 波瑠さん」

 

そうして波瑠は、今朝も蒼汰を明るく送り出してやった。


第138話 『穏やかな日常の中で』ー終ー

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