第136話 『A Considerate Look』

『RUDE BAR』での夜は更けていった。

到着してまもなくは、バスケの試合後の渇きをビールで癒していた二人だが、客足が引いて二人でボックス席に向かい合ってからは、ほとんどグラスに口に付けることはなかった。


ずっと前のめりに座りながら俯き加減で話を聞いていた健斗は、波瑠が話し終わるとずっと見つめていた自分の組んだ指から顔を上げて、ソファーにもたれてくうを仰いだ。


「アイツは……零は……どうしたら平穏に過ごせるんだ? あんな悲惨な事件に遭ったのに、まだ警察に関わって身を削るのか」


波瑠も神妙な面持ちのまま答える。


「今回の事件は、あの事件と酷似していたのもあって、零が暴走しないかってハラハラしてたんです。救いだったのは、当時の事件担当だった高倉刑事がいつも側にいて、色々な意味で零を支えてくれていたことです。零は警察では多大な信頼を受けています。僕も彼らと連携をとって、零のメンタル的な状況を相談したりしていたんです。ホント、いい人達で」


「そうか。お前も大変だったな。そんな時にこっち日本に居てやれなくて……悪かった」


「いえ、そんな……」


「なあ波瑠、事件が解決したら、今後アイツはどうすると思う?」


「零の抱える問題は一つや二つではないですからね……事件の全貌が明らかになったとしても、それはただ単に知的探求心を満たすに過ぎません。かつて零を唯一理解してくれていた優しい祖父も返らない、絵梨香ちゃんを襲った犯人も言及できないままこの世を去っていて……零は何に向かっているのか……」


困惑した表情の波瑠に、健斗は前のめりにぐっと腕を伸ばして、その肩を打った。


「お前まで沈み混んでどうする。それじゃ零を支えるどころか、お前まで病んじまうぞ!」


「そうですね……すみません。弱音を吐けるのは、健斗さんぐらいなんで」


健斗はフッと笑って、またソファーにもたれる。


「年長者ゆえの悩みか。お前も後輩の心配ばかりしてないで、たまには自分のことも考えろ。ずっと息抜きもしてなかったんじゃないか?」


「そうですね……そういえば」


「頭で考えるだけじゃ、結局なにも見えてこない。その時その時の気持ちとか衝動を、たまには信じてみるのもいい」


「はぁ……まだその域には達してないですね」


健斗は少しいぶかしい表情を作って、波瑠をグッと睨んだ。


「お前、ひどいな! なにげに俺をジジィ扱いすんじゃねぇよ!」


波瑠がこのソファーに座ってから、初めて笑みを見せた。


「なぁハル、人の人生ってさ、その瞬間瞬間の選択によって大きく変わると思わねぇ?」


「ええ。でも、あの時そうだったなって、実感しだしたのは、ここ最近になってからですけどね」


「ふーん。例えば、決まってた進路を蹴ってこの店 RUDE BARのオーナーを引き受けた時とか?」


「え? ああ……まぁそうですねぇ」


「でもさ、どんな選択をしたとしても、最終的に同じ結果になる局面を垣間見ることって、あんだろ? それってさ、やっぱり運命ってやつなんだよな。どう転んだって、遠回りしたって出逢っちまう、奇跡みたいなさ……」


そうなぞるように言った健斗は、ハッとするように波瑠の顔を見ると、少し視線を逸らした。


「やべっ、夜中だからか、柄にもなくロマンチックなこと口走っちまった。酒が足らねぇか?」


そう言って悪ぶる健斗に、波瑠は安堵の表情を浮かべて静かに言った。


「今更テレなくてもいいですよ。それが健斗さんの本音でしょ。それに、実際に健斗さんが 経験したことじゃないですか」


健斗はひとつ息をついてから、表情をスイッチさせた。


「ま、お前に言うのも、ちょっと酷だとは思うけど?」


波瑠は大袈裟に首を振って見せる。


「まだそんなこと言います? 自分が恥ずかしいからって、僕にそうやって過去の痛手をぶち込んでくるのはやめてくださいよ!」


「ははは! 悪ィ悪ィ、今は由夏さんが好きなんだもんな?」


波瑠が膝を打って抗議する。


「僕の言ってること、ちっとも伝わってないみたいですけど!」


「まあまあ! そう怒んなって。お前だって、ようやく大事なものを見つけたんだからさ」


波瑠は苦笑いしながら、小さく頷いた。


「……零もね、ようやく見つけたんですよ」


「それって……絵梨香ちゃんのことか?」


「そうです。本人だって、こうなることは予想もしてなかったと思います。なんせ、親友蒼汰の想い人ですから」


「そういう意味でも、お前も一層、親身になっちまったってワケだな?」 


「健斗さん……まだ言いますか? まあ僕も開き直ってるんで、もはや、なに言われても構いませんけどね。確かに、正直言ってそれもないとは言えませんが……でもやっぱり、あの時の零の辛い事件と、その後の零の酷い状態を見てきた者としては……どうしてもヤツの幸せを願ってやまない気持ちは止められなくて」


「そうだよなぁ、それは同感だ。あの時は……酷かったな……アイツ、死ぬんじゃないかって、目が離せなかったからな。波瑠も付きっきりだったろ?」


「ええ……僕と蒼汰で泊まり込んで監視してましたからね」


「俺もアイツの発作に遭遇した時は慌てたわ……それで? また再発したんだって? 最近か?」


「ええ。頻度は少ないですが、ついこの前は天海病院に搬送されて……」


健斗はまたソファー背を付けて大きく溜め息をついた。

 

「それなのにアメリカか……」


その言葉に、波瑠が大きく反応した。


「え? 健斗さん、零のアメリカ行きの話、何で知ってるんですか?」


「お前こそ。誰に聞いたんだ? 本人からか? それとも天海先生とか?」


「天海先生? 僕は蒼汰に聞いたんですけど……本人から蒼汰に話があったみたいで。零からは聞いていません。今日会ったのも事件の日以来でしたし……っていうか、天海先生が関係してるんですか?」


「いや、天海先生じゃなくて、天海先生の先輩に赤塚さんっていう精神科医の先生がいるんだけど、その人もまあ俺の先輩には当たるんだが、その人の恩師がアメリカの大学の教授でさ、零の論文に目を付けて、大学に推薦したんだ。それ以来、大学側も赤塚さん経由でずっとラブコールを送ってたらしい」


「そうなんですか! 赤塚先生には天海病院で会いましたよ。絵梨香ちゃんの担当医です」


「え? そうなのか?」

 

「じゃあ天海先生も、この件はご存知なんですね?」


「ああ。天海先生と赤塚先生に零を説得してくれって言われてるんだが……俺は専門外だしなあ。それがアイツにとってどれほど有益なのかが、いまひとつわからない。それに今はまだ零も警察内に入り浸ってる状況だろう?」


「ええ、躍起になって真相究明に勤しんでると……周りも心配しているようです」


「零は何て言ってるんだ? 行くって言ったのか?」


「僕も蒼汰経由でしか聞いてないので、ニュアンスは解りませんが、行く決心をしたと言っていたそうです」


「そうなのか……2年もやり過ごしてきたんだぞ。このタイミングで行くと言い出したっていうのはやっぱり……」


「そうですね。彼女ひとりの事ではないにせよ、今回のこの一連の事件が引き金になっていると思います」


「アイツ……疲れてんだな。逃げたことがないから、心の逃しようが判らないんだろ」


しみじみとした口調でそう言う健斗の顔を、波瑠はふと見上げた。


「ここでまた振り出しに戻るだろ? その瞬間の判断で大きく人生が変わる可能性がある。アイツは自分の運命を試すようなことをしていいのか? 自然体じゃないアイツは、ちゃんと歩み寄ってきたその『運命』ですら、親友のために拒絶しかねない。ハル、お前もそう思ってんだろ?」


波瑠が深々と頷いて、二人はまた大きくため息をついた。

しばしの沈黙が流れる。


「週末に零と会うが……俺は一体何を話すんだろうな? アイツのアメリカに行きの背中を押すのか、それとも大事なものを見極めるまでは軽はずみなことをするなとでも……言うのか」


「健斗さんの本音は後者なのでは?」


「まぁな。この一連の話を聞いた以上は」


「でも、今の零では、きっと聞き入れませんね」


「だろうなあ……アイツがアメリカに行くと口走った以上、もう準備も始めているに違いない。自分の中の念をも断ち切って、毎日忙しく捜査に没頭して、その旅立ちの日に向かって着実にカウントダウンをしてるんだろ。そんなヤツだよ、アイツはさ」


「……そうですね」


「そんなアイツを引き留める自信は……俺にはないな」


「健斗さんの心はこんなにも解りやすいのにね。さっきから零を引き留めることしか考えてないじゃないですか」


「……お前なぁ、俺をいじってる場合じゃねぇだろ?」


「だって、自信なさげな健斗さんって珍しいですからね。本当の幸せを手にした健斗さんが、その実体験を話せば、零の心も動くかも?」


「お前……よくもまぁ、そんな心にもないこと 言うよな? あ、分かった! さっきの仕返しだろ!」


「あはは、いいじゃないですか。幸せな人をやっかむくらい。僕にはその権利あると思うんで」


「冗談言ってる場合じゃないぞ、ハル」


「そうですね。この週末、健斗さんは結局、零のアメリカ行きを阻む話をするんでしょうね。赤塚先生には謝って……零にも運命の話をしますか?」


「全く……お前も人が悪いな。お見通しってわけだ。運命の話は、きっと今の零は受け付けないだろう。それは分かってるが、でも俺は恩師の権限を振りかざしてでも、話してくる。お節介で面倒なジジィと思われても構わないさ、それが今の時点で1ミリもアイツに響かないとしても、それでも……頭の隅にこびりつくように、執念深く話してやる!」


波瑠は大きく息をつきながら微笑んだ。


「それでこそ、健斗さんですよ!」


「あ? あんまり褒めてるようには見えないけどな?」


そう言いながら健斗は少し嬉しそうに笑った。


「そろそろ帰るか! 何なら我々の豪邸で飲み直すか? そういやぁ俺の部屋にもずいぶん来てないだろ? ワインセラーの在庫、かなり充実してるぞ!」


「CEO、明日はウィークデーですよ! ちゃんと仕事しなきゃ」


「は? 何言ってんだ。俺は重役だぞ、重役出勤で構わないだろ」


波瑠はカラカラと笑った。


「よく言いますよ! 僕の同期で藤田コーポレーションの社員がいるんです。月曜の朝はCEOのビデオ朝礼があるらしいじゃないですか」


健斗は少し気まずい顔した。


「生真面目な社長さんですよね? 中小企業じゃあるまいし、藤田コーポレーションをほどの大企業で、そんなことやってる社長さんなんて、なかなか居ないと思いますけど?」


「……うるせえ!」


「あはは。はいはい、じゃあ帰りましょう!」


そう言って二人は 同じ帰路に着いた。


一見、古風なおんぼろアパートに見えて、内装は斬新なデザイナーズルームのその建物は、健斗が結婚前から所有している物件で、下層階はワンフロアにつき4部屋あり、波瑠も含めた8人住民がいるが、最上階はその4室分をブチ抜いた広い空間全面が藤田健斗の自室になっていて、ワインセラーを完備した大型パントリーあり、ライブラリーまでもある豪華な作りだった。

波瑠はそのワンフロアー下の一室を、セカンドハウスとして借りて、もう五年ほどになる。


「健斗さんがこっちの家に帰るのって、しばらくなかったんじゃないですか?」


「そうだな。たまにはこっちにも来ようかな?どうせ自宅に帰ったって、奥さんも居ないしな」


「奥さん、か……なんだかいい響きですね。冗談抜きで、羨ましいです」


「へぇ、ハルもそういう年齢になったってことだな。そろそろお前も考える時が来たってわけだ?」


「いや……まだまだですよ。今の生活のままじゃ、到底結婚なんて……」


「ハル、今日は零の話になったが、近いうちにお前にも話がある。本当はそのつもりで、お前も試合に誘ったんだけどな」


「そうなんですか?」


「ああ。近いうちにまた店に顔出すよ」


「わかりました。おやすみなさい」


波瑠はそう言って、先にエレベーターを降りた。


自室のドアを開けると、しばらくぶりに真っ暗な空間が広がっていた。


ただいまと言いそうになるのを引っ込めて玄関に鍵を置くと、電気をつけながら奥に進む。


ここしばらくは気にも留めていなかった、二ヶ月前に新調したデザイナーズライトを、久しぶりに愛でて、その静かな空間を感じた。


ここしばらくは、毎夜賑やかだった。

ソファの上にうずたかくたたまれている布団が、それを物語っている。

今日はその布団の主は実家に戻って不在だ。


きっと今日も遅くまで彼女に寄り添って、そして休日の朝早くからまた彼女のもとカサブランカレジデンスに出向き、彼女のそばでその笑顔を引き出すのだろう。


波瑠はしばらくその布団を眺めるように床に座って冷蔵庫から持ってきたビールをあおった。


一口飲んで気が付く。

『RUDE BAR』では健斗と話し込んでほとんど飲んでいなかった。

染み渡る冷たい喉ごしと、アルコールの温度とが合間って、波瑠の心を突き動かせる。


波瑠は二日前の絵梨香の退院の日に見た、蒼汰の横顔に思いを馳せた。


第136話 『A Considerate Look』ー終ー

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