第115話 『Find Out Their Lie』

『Moon Drops』のJazzのBGMに揺れるキャンドルの炎がほのかに二人の顔を照らす。

不安を隠せない絵梨香の心をつかまえようと、零はテーブルの下でその手を握った。


「不安なんだな……俺も一緒だ……」


黙って頷く絵梨香を救いたくて、零はその指先に力を込めた。



零のスマホの画面がふわっと光った。

零はさっとそれを持ち上げて、絵梨香の頭に手を置いてから中座した。


「多忙なフィクサーなんだもん、捜査本部からの連絡は拒否できないよね」

絵梨香は零の背中を見送りなが呟いた。


何気なくカバンに手をやり、自分のスマホに目をやった。

電源自体、落としたままだった事に気付く。


「しまった……ギャレットソリアーノの打ち合わせが終わったら連絡してって、由夏ちゃんに言われてたんだった……」


きっと怒りのメッセージが入ってるに決まっている。

決定事項は、あの女性オーナーから由香に連絡が入ってるに違いないから……


スマホの電源を入れ、何気なく画面を覗いて驚いた。

いくつものメッセージが入っている。

通知はすべて、蒼汰だった。


息を飲んでいるところに零が戻ってきた。

慌ててスマホの電源をまた落として、カバンに放り込む。

眉を上げた零に首を振って、なんでもないように繕った。


零が絵梨香を見つめながら着席したと同時に、ステージに向かって女性オーナーがゆっくり歩いて行った。

ピアノの前に座り一息ついた後、彼女の指が優しい音を奏で始める。


「あ、この曲……」


さっきオーディオで聞いたばかりの曲だった。

彼女のピアノが奏でる音は、その歌とはまた違って、より切なく心をなぞるような、美しくも儚い旋律だった。


零の手が、また絵梨香の手に重なった。

その暖かな手のひらを感じながら、絵梨香の中でひとつの思いが芽生えた。

痛みを与えてしまうことによって、自らも痛みを伴う覚悟を。

この恋を貫く決心を。


曲が終わって拍手を送っても、まだそこから醒めきれず、幻想の中にいるように目を潤ませている絵梨香を、零は複雑な思いを抱きながら見つめていた。


零の視線に気がついた絵梨香が聞いた。


「捜査本部からだったの?」


「ああ……高倉さん」


「忙しいのね、フィクサーは」


「忙しいのは捜査員全員一緒だ。みんな一丸となって事件を追ってる」


「責任のあるポジションなのね」


「責任か……何において責任って言うのか、だんだんわからなくなってきたけどな」


零の憂いのある表情を見て絵梨香は心配そうに言った。


「何か問題でも……あったの?」


「いや」


「あ、ごめんなさい。そういうのは、話せないのよね」


「ああ……まあ」


零は息をついた。

 

話せないはずだ……

嘘だった。

さっき電話をかけてきたのは、高倉ではなく波瑠だった。 




「零、外だよな?」


「どうしたんですか。営業時間中に電話なんて、珍しいですね」


「今どこだ?」


「今は中央区の『Moon Drops』っていう……」


「ああ、ジャズバーだろう? 知ってる知ってる。俺も若い時に連れてってもらったことあるよ。まだあるんだな、さすが老舗だ」


「波瑠さん、それで……」

 

「零、絵梨香ちゃんと一緒か?」


「……どうしてそれを?」


「今ここに……蒼汰が来てる」


零は驚きを隠せなかった。

蒼汰が名古屋から帰ってくるのはまだ先だと、絵梨香から聞いていた。


「ギャレットソリアーノ……」


「え……」


波瑠のその言葉に、零はグッと心臓をつかまれたような感覚に襲われた。


「……どうしてそれを?」


「やっぱりそうか……」


「どういうことですか」


心拍数がみるみる上がっていくのがわかった。

 

「今はトイレに行って席をはずしているが、蒼汰は今日、ギャレットソリアーノに行ったらしい。絵梨香ちゃんがそこでイベントの打ち合わせをしてるって、由夏さんに聞いて、それでそっと迎えに行こうと時間を見計らって、店の前まで行ったそうだ」


零は息を殺しながら、目をつぶったままくうを仰いだ。


「そしたらお前のベンツが停まってたのを見て……察したんだろうな。そのまま帰ってきたそうだ。お前らの姿は見てないらしいがな」


零は言葉が出なかった。


それは、自分が想像していたよりも遥かに大きなショックだった。


「零、しっかりしろ。とにかく、今日はお前も絵梨香ちゃんもここへは来るな。蒼汰は今相当酔ってる。駆けつけ三杯って感じで、来るなりガンガン飲んで……それでようやく俺にさっきのこと話したんだ。戻ってこないところをみると、トイレでつぶれかけてるんだろうな」


波瑠は零の荒い息遣いに気付く。


「零、いずれこうなることはわかっていたはずだろ」


「……はい」


「今は絶対会わない方がいい。絵梨香ちゃんには……どうする? 蒼汰には、絵梨香ちゃんにもお前にも絶対言わないでくれって言われたんだ。だが俺の判断で今こうしてお前にだけは話してる。蒼汰一人だけが背負うには、大きすぎる問題だからだ。わかるよな?」


「……はい」


「とにかく、俺も含め、一旦落ち着いた方がいい。こんな話をして、お前たちの邪魔をしたくはなかったんだけどな……」




零は一瞬、その場に座り込みそうになった。


これまでどんな事件にぶち当たろうとも、自分を制して対応していく姿勢に自信があった。

しかし……

相手が蒼汰では、途端に失速してしまう。


ドアのすぐそばで、壁に張り付くように立っていた零に、オーナーが声をかけた。


「あなたの好きな曲、弾いてあげましょうか?」


零は呼吸を制しながら言った。


「俺の好きな曲?」


彼女は鼻歌を口ずさんだ。


「これでしょ?」


「なぜそれを?」


「だから言ってるじゃない、こんなイケメンを忘れるわけないって。あなたがここに初めて来た時にリクエストした曲よ。さあ、早く席に戻って。彼女と一緒に、私の演奏を聞いてちょうだい」



余韻に浸っている絵梨香を、半ば急かすかのように、零は席をたった。

言葉少なに車を走らせる零を、絵梨香は少し不安な面持ちで見ていた。



彼女のマンションの前に来た。

いつもの場所に停めると、帰り道に蒼汰がまたこの車を見るかもしれない。

想像するだけでも息が詰まった。


同時に気付く。

いや、きっと蒼汰は帰れる状況じゃないだろう。

また波瑠さんの家に泊まるのか……


零は大通りから見えないように、いつもよりも幾分西の方に車を停めた。

それを少し不思議に思いながらも絵梨香は、いつものように彼のエスコートでエントランスに向かった。


彼をコーヒーに誘いたいと、そう思いながらも気の利いた言葉が見つからなかった。


さっきの電話が終わったあと、彼から感じる張り詰めた空気感は、きっと捜査の進展についての事だと思った。

彼は必要とされているのに、私と居るせいで無理しているのかもしれない。


零は一緒にエレベーターに乗り込んだ。

幾分固くも見える零の表情は、何かに思いを巡らせているように見えて、話しかけるのを躊躇ためらってしまう。

引き留めるのも、なおさら気が引けた。


その思いが伝わったかのように、零は掴んだ絵梨香の手を更に強く握り、指先に力を込めた。


絵梨香がドアを開けて「コーヒー……」と言いかけた瞬間、零は言った。 


「じゃあおやすみ、俺も明日早いから、今日は さっさと寝るようにする。エリも早く寝るんだぞ」


そう言って頭を引き寄せ、その額に冷たい唇を当てた。


言葉も出せないうちに、彼はもう一度押した ボタンとともに、開いたエレベーターの中に 身を滑らた。


おやすみと手を振った零に、絵梨香はかろうじて作った笑顔で、その手を振り返すのが精一杯だった。


絵梨香は部屋に入ってから、またその場にへたり込んだ。


なんだろう、この感じ……

そしてまた思う。

最後にもう一度、あの胸に抱かれて熱いキスを交わしたかったと。



車に戻った零は、しばらくハンドルに手を置いたまま動けなかった。


なんてザマだ、逃げるようにして降りてくるなんて……


手のひらを見つめる。

さっきまで彼女の手を握り、彼女の髪に触れたその指先の感覚。

思い出すだけで胸が何かに弾かれたような感覚が起こる。

もう引き返せない恐怖感に近いような気持ちが、自分の中で波のように打ち寄せる。


しかし……

同時に、蒼汰のことを考えると、四方を囲まれた暗闇の奈落の底に一気に突き落とされたような絶望感を感じる。


これは自分の心か?

それとも蒼汰の心なのか……


そう思うと、ふっと浮かんだ絵梨香の顔をかき消そうとする自分が立ちはだかる。


絵梨香の中でも、少なからずそういった苦しみが現れているはずだ。

しかも、あの電話の後からは、自分からも何らかの不穏な空気が流れていた事に、彼女も気付いているにちがいない。


こういう時こそ自分が彼女を支えるべきなのに、俺は自分の気持ちを優先させて彼女に背を向けた。


エレベーターが閉まる寸前の、彼女の不安な面持ちが目に焼き付いている。


あんな表情にさせるなんて……

今すぐ7階までかけ上がって、彼女の心ごと抱き締めてやりたい気持ちと、ここから早く立ち去りたい気持ちが交錯した。


どうしたらいい?

こうなることは、分かっていたはずだ。

だから、ずっと踏みとどまってきた。

それすらも、分かりきっていた事なのに……

俺は……


胸の中でカタンと音がした。

同時に重く苦い闇が心の中にどっと流れ込んできて充満するのを感じる。


これは……


かつて何度も蝕まれた、どれほど息を吸い込んでもなにも入ってこない、あの絶望の前兆が現れた。


零は目を見開く。

慌ててダッシュボードに手を伸ばすと、そこからペーパーバックを取り出し、後部座席に身体を滑り込ませた。



車内に浮かび上がる時計を見上げる。

ようやく視点が合ってきた頃には、20分ほど経過していた。


びっしりとかいた額の汗をぬぐいながら、身体を起こす。


窓の外をゆっくりと見上げた。

いつもの場所に停車しなくて正解だった。


ここは彼女のマンションのベランダから死角になっている。


もしもいつもの場所に停めていて、発車しないことに彼女が気付いてしまったら……


そう思うだけで、また汗ばんでくるのを感じた。


息を整えて座席につくと、零は波瑠にメッセージを送った。

ただ一言、彼女を家に送ったということだけしか書くことができなかった。


ほどなくして返ってきた波瑠の返事にも多くは書かれておらず、“明日会えるか?” という問いだけに返事を書いて、エンジンをかけた。


第115話 『Find Out Their Lie』ー終ー

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