第134話 『Discharge』
中庭を後にした天海院長と蒼汰は、肩を並べて絵梨香の病室へ向かった。
「絵梨香ちゃんにはもう一日入院してもらう。今後のケアについて、心療内科医の赤塚先生も交えて相談したいから、君の退院手続きが済んだら絵梨香ちゃんのお母さんと由夏さんと、あと波瑠くんも連れてカンファレンスルームに来てくれるかい?」
「はい、わかりました」
数時間後、カンファレンスルームに集められたメンバーに対して、赤塚医師は具体的な心理要因などは一切出さずに、今後の対処について話し合うに
患者である絵梨香からの要望もあったのかもしれない。
基本的にはこれまでの日常を忠実に貫くこと、
そして彼女をひとりにしないことををテーマに話し合っていく中で、海外に出向かなければならない由夏と 両親の介護で実家を空けられない絵梨香の母の千香子に代わって、蒼汰がカサブランカレジデンスにしばらく泊まり込むことになった。
カンファレンスルームをあとにする赤塚医師に挨拶をした千香子が蒼汰に向き合った。
「本当に……ごめんなさいね。こんなことを頼めるの、蒼汰くんしかいなくて」
「おばさん、言ったでしょ。今更、水くさいこと言わないでくださいよ! オレは絵梨香の保護者みたいなもんなんですから」
「蒼汰、ありがとうね!」
由夏が立ち上がりながら言った。
「まあ、近所に波瑠さんも居てくれるからさ、由夏姉ちゃんも安心して行って来てよ」
「うん、ありがとう。じゃあ蒼汰、絵梨香のところに顔を出してから、あたしたち行くわね」
波瑠も立ち上がる。
「波瑠さんが由夏姉ちゃんを空港まで送るの?」
「ああ、さっき戻った時にクルマ取ってきたからさ」
「そっか……」
蒼汰がチラリと天海の方に目をやると、天海は資料に目を落としたまま、ほんの少し眉毛を あげた。
「天海先生、絵梨香のこと、よろしくお願いします」
そう声をかけた由夏に、天海は顔を上げて微笑んだ。
「うん。安心して行ってきて。由夏さんこそ、心配し過ぎて体調崩したりしないようにね」
「ありがとうございます。また時々連絡入れさせてもらいますので」
「ああ、時差に関係なく、気になったらいつでも連絡して」
今度は波瑠の眉毛が上がったような気がした。
みんなでゾロゾロと絵梨香の病室の前に来る。
「ちょっと絵梨香と二人で話してきていいかな?」
由夏がそう言ったので、波瑠と蒼汰と千香子の三人は廊下のベンチに腰かけて、これからしばらくの間、どのように連携していくのかを話し合った。
「絵梨香!」
ガラッと開けたドアから顔を出した由夏に、絵梨香は身を乗り出さんばかりに反応した。
「ああ由夏ちゃん! ひょっとして……もう行っちゃうの?」
由夏は笑いながら絵梨香のベッドの脇に行って、そっと絵梨香の頭に手を置いた。
「もう! そんな寂しそうな声出さないの! やっぱり絵梨香はちっちゃい時からちっとも変わってないなぁ」
「また子供扱い……」
「私にとってはまだまだお子ちゃまな絵梨香だけどさ、あんたは本当は芯の強いしっかりした子よ! 私がいなくても大丈夫! もう回復目前だし、蒼汰も波瑠くんもついてくれてるじゃない」
「そうだね……」
「絵梨香、零くんは?」
そう一言発しただけで、絵梨香の表情がみるみる変わる。
はっとした表情を見せる絵梨香に、由夏は溜め息をつきながら静かに話し始めた。
「やっぱり会ってないのね。それで元気がないの?」
「別に……」
「絵梨香、私にまで嘘つくことないでしょ? 今ここには蒼汰もいないし」
絵梨香は困惑の表情を見せた。
「本当は会いたいんでしょ? ちがう?」
絵梨香はすっと肩を落とすと、寂しげな表情のまま前を向いて、小さく頷いた。
「でもさ、零くんは警察で今第一線張ってるのよね? あなたも巻き込まれた事件だから、きっと躍起になって捜査してるのよ! クールなふりして、実は熱い男じゃない? 彼って」
そう努めて明るく話す由夏に向かって、絵梨香はその顔を上げることはなかった。
「でも……」
「何かあったの?」
絵梨香は俯いたまま、ひとつ大きく息をついた。
「ダメだって……言われたの」
「え?」
「……俺は蒼汰を裏切れないって……親友を裏切れないって。そう言って……私から離れていった」
由夏は愕然とした。
「それ、本当なの? 彼がそんなことを?」
絵梨香はまた頷く。
「……絵梨香」
「ごめん、由夏ちゃん。口に出すとね、また息が上がりそうな気がして怖い……それに蒼汰は怪我してまで、あんなにも私のために色々してくれるし……もうこれ以上心配かけたくないの。とにかく私は今、早く治さないと」
「絵梨香……苦しんでたんだね」
由夏はそう言って、絵梨香を抱きしめた。
「絵梨香、泣きたくなったらいつでも電話しておいで。夜中でも構わないからね」
絵梨香は由夏の胸に顔をうずめたまま、何度も頷いた。
翌日の昼下がり、外来患者がいない待合室は薄暗くがらんとしていた。
「ちょっと座って待っててね」
そう言って受付へ向かう千香子の後姿を見ながら、絵梨香と蒼汰はやたら広く感じるその空間の端っこの椅子に座った。
「蒼汰、ありがとうね。もう昨日退院してるのに、また病院まで来てもらって」
「なに言ってんだ、同居人に無駄な気を使ってたら、この先続かないぞ」
「そっか、蒼汰は同居人になるんだ」
「そうだよ。昨日自宅に戻ってさ、こうして “お泊まりセット” を持ってやって来たんだから。良かったよ一日早く退院出来てさ」
絵梨香は蒼汰の大きなスーツケースを
「にしても、そんな大荷物で来るなんて、まるで海外旅行だよね? 何が入ってるの?」
「絵梨香ん家は男のものが何もないだろ? 髭剃りもヘアワックスも。Tシャツひとつにしても、ちょっと借りるとか無理なわけだから」
「なんかその準備万端な所、子供の時から変わってないよね?」
「そぉか?」
「そうだよ。ちょっと旅行にいく時でもさ、一際荷物が大きくて、何が入ってるか聞いたらいつも“もしもの話”、“もし○○がなかったら”とか“もし○○で困ったら”って……」
「あはは」
恥ずかしそうに笑った蒼汰を見つめながら、穏やかな表情を見せる絵梨香に安堵する。
「蒼汰はさ、常に“備えあって憂いのない” 人だよね? 私とは大違い。私は行き当たりばったり感情に任せて行動しちゃうことが多いから」
「そこなんだよ」
「え?」
「オレが作家に向かない理由はね」
「そんなの関係ある?」
「大アリだ。想像力も創造力も、突如として現れるものには、幾ら膨大な時間をかけて作り上げたものでもかなわない。生の生きた発想力ほどパワーがあって、人の心を掴むものだからさ」
そう言いながら絵梨香の方を見る。
そして気づく。
あ、また見た……
蒼汰はもう見過ごせなくなっていた。
絵梨香が何度となく出入り口を気にしていることを、ここに降りてきてすぐに気付いてしまったから……
「だから、絵梨香の方が作家向きなんだよ。で?『月刊fabulous』のコラム、来月号はどうするんだ? 執筆するのか?」
「うん。由夏ちゃんには、書かせてほしいって言った。自信はないけど……でももう先にそう言っちゃって、自分に書くことを余儀なくさせたいなって思って」
「もう題材はきめてるの?」
「ううん、全く」
「あはは。やっぱり作家向きだな。安心しろよ、ベテラン担当編集者のオレにかかれば、どんな作家にも創作意欲を沸かせてやるよ」
「わぁ頼もしい!」
そう笑う端で、絵梨香の視線がまた出入口に流れた。
絵梨香が退院するまで、零は一度も姿を見せなかった。
そして絵梨香はそのことを、一度も蒼汰に聞かなかった。
「あのさ」
「蒼汰?」
二人の声が重なった。
「なに? 蒼汰」
「いや、別に……」
蒼汰は少し身構える自分を自覚した。
「絵梨香こそ……なに?」
「あ……佳乃さんは……」
「え、小田原佳乃? あ……連行されたけど、これから取り調べだろうな。長くなると思う」
思っていた話題と違ったことに少しホッとしている自分を不甲斐なく思う。
向こうから千香子が手続きを済ませて戻ってくるのが見えた。
絵梨香が少し声を
「家に着いたら、佳乃さんのこと、少し聞いてもいい」
「ああ、わかった」
千香子のあとを追いかけるように後ろから天海院長がやって来て、そして同時に出入口に波瑠の姿が見えた。
やがて三人は同時に絵梨香の前に到達した。
「絵梨香ちゃん、退院おめでとう」
「天海先生、ありがとうございました」
「何かあったらいつでも連絡して、由夏さんも現地についてすぐ連絡をくれたから、今後の経過も報告していく事になってるからね」
「ありがとうございます」
蒼汰が二人に気付かれないように波瑠に向かって目配せをしたので、波瑠は蒼汰の怪我の近くをぎゅっとつねった。
「うわっ、痛って!」
その声に全員が振り向く。
天海がイタズラな表情で蒼汰に近寄った。
「おかしいな? 抜糸もしたし、もう大丈夫だって君が言い張るから早めに規制緩和したけど……もう少し泊まりたいか?」
蒼汰がブンブンと首を振ったのを見て、皆が一斉に笑った。
しばらく雑談をしながらも、そこにいる全員が、絵梨香が出入口を意識していることを認識した。
「お世話になりました」
天海は深く頷きながら、絵梨香を優しい顔で見つめる。
「なにか心配事があったら、遠慮しないでいつでも言ってきてね」、
そう言って絵梨香の肩を軽く叩いた。
出口に向かう際、並んだ蒼汰が肩を並べた天海に言った。
「じゃあ、絵梨香のことは、オレに任せて下さい」
「ああ、何かあったらいつでも連絡してくれ」
「いつもそればっか! 心配性ですよね、先生は」
「そりゃそうさ、だから医者やってるんだよ」
「あはは、そうですね」
「君も無理しちゃダメだよ。怪我以外の部分でもね」
蒼汰は天海と目を合わせた。
「ありがとうございます」
「じゃあ次は『RUDE BAR』で会おう」
車に乗り込んだ面々にそう言った天海は、運転席の前に立つ波瑠と握手をした。
「快気祝いですね」
「そう、パァッとね」
「了解です」
遠のくエンジン音を見送りながら、天海はいつの間にか外気が柔らかくなっていることに気付いた。
ほんの少しオレンジがかった薄い雲の帯を見あげた。
それが秋の空を意味するのに気付き、今年もまた夏が終わろうとしていることを実感した。
第134話 『Discharge』ー終ー
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