第123話 『Spasm』
波瑠は『カサブランカレジデンス』を後にした。
幾分明かりが減った深夜の街を、すぐ近くのセカンドハウスに向かって歩きだす。
なんとか気丈さを保って強がった表情を作っていた絵梨香が、ドアを閉める寸前に座り込む影が、頭を離れなかった。
蒼汰に、何と伝えるべきか……
話の方向によっては良くない結果を招く危険性もあると思った。
特に今、零は……
ある意味パニック状態に近いのかもしれない……
空のポケットに気が付いて思った。
そういや家の鍵は、蒼汰に渡していたんだったな?
インターホンを押して我が家に入ったのは、ここに住んで初めてのことだった。
「波瑠さん、お帰り」
「ただいま。あ……そう言うのも初めてかも?」
「え? 何のこと」
「いや、中から鍵を開けてもらうのも、おかえりと言われることも、初めてだっていう話」
不可解な顔をする蒼汰の表情に、憂いがないことに安堵しながら、話を続ける。
「まあ、今日は冗談を広げるような心のゆとりはないからな。絵梨香ちゃんさ……まあ無理してるけど、なんとか自分の足で立ってるよ。でもまあ……悲壮感は否めないな」
蒼汰は少しうつむき加減で、一つ息をついた。
「どうせ、零に “蒼太のところにいけ” って言われたりしたんじゃないの?」
「へぇ……分かってるね?」
「わかりたくもないけどな。あいつが言いそうなことだろう? それで? 波瑠さんから見て絵梨香は明日、オレと会うと思う?」
「ん? 会う約束してたのか?」
「ああ、絵梨香の好きな『ルミエールラコート』でランチ」
「あ、乾さんの店な? うーん……今の感じだと、会わないって言うんじゃないかな」
「そっか。明日は晩飯当てクイズに負けたオレの
「なんだそれ? 茶番だな」
「そうだよ。そんな茶番が絵梨香の日常をなんとか保ってきたんだ。それなのにさ……全く! 零のヤツめ! 絵梨香の気持ちも考えずに……」
「まあそう言うな。零も色々な事が重なったんだ。だけどさ、当の本人を前に言うのもなんだけどさ、零が今、いつになく自分らしくない 状況に戸惑いながら、支離滅裂になってる原因はさ、俺は……やっぱりお前だと思うよ」
蒼汰は
「もう……波瑠さんもまたそんな風にオレを責めるの? だったらどうすりゃいいんだよ。そもそもおかしくないか? 一番かわいそうなオレだろ? なあ、違うか波瑠さん」
「確かになぁ」
「決めた! 明日はどんな手を使っても絵梨香を飯に連れ出すぞ!」
「いい目標だなあ。蒼汰、協力するよ」
「当然だろ? 波瑠さんの協力なしでは無理なんだから!」
「はあ? それどういうこと?」
翌朝、波瑠のソファーで寝ていたはずの蒼汰は、波瑠が寝室から出てくる時には既に、スッキリした顔で身支度も済ませていた。
「どうした蒼汰、昨日あんなに飲んだ割には早く起きたじゃないか」
「まあ人間、目標があれば朝の眠たさぐらいは克服できるって訳だ」
「なんだ? ちょっと早く起きたぐらいで悟りきったみたいな言い方をして」
多分……
本当は眠れなかったのだろう。
波瑠はそう思った。
「協力するって言ったよな? 波瑠さん」
「え? ああ、もちろん」
「じゃあさ、とりあえず携帯貸して!」
「は?」
蒼汰はおもむろにその携帯で、絵梨香に電話を入れる。
彼女が出るまでに、どんな思いでコール音を聞いているのか……
その横顔にはやはり、寝ていないからだろう、疲れを感じた。
蒼汰ががぱっと顔を上げた。
電話のターゲットが、その電話を取ったらしい。
微かに、話し声が聞こえる。
「……もしもし。あれ? 波瑠さんもしもし?」
蒼汰は一度大きく息を
「あのさ、昨日やられたばっかりなのに、もっかい引っかかるって……どういうこと?」
「え……蒼汰」
「あ、もしかして。オレからの電話待ってたとか? そりゃないか」
「蒼汰……」
「うっさいな! またそんな声で何回もオレの名前を呼ぶな! ここにいるだろうが。前も言ったろ? そういうさぁ……ああもう! いや、まあいいや。で、支度始めてんだろうな?『ルミエールラコート』に行く約束だろ? 絵梨香が行きたいって言ったんだからな!」
蒼汰は強引に約束を取り付け、通話を切って波瑠にスマホを返した。
「波瑠さん……」
「どうした、蒼汰?」
「いまから行くランチさ、やっぱり波瑠さんが行ってくんないかな……」
「なにいってるんだ、蒼汰!」
「オレ、今のあの絵梨香を目の前にして、平常心保てる自信がないよ……なんか、支離滅裂なことを言っちまいそうでさ」
「蒼汰……」
やっと本音を言ったかのように、
「お前もずいぶん無理してたな。知ってたのに、お前の気丈さに便乗してる俺がいた。悪かったよ。もっと早く素直にしてやれば良かった」
蒼汰は顔をあげていった。
「そういう殺し文句はさ、男じゃなくて女性に言いなよ。
波瑠はビタンと蒼汰の頭をぶった。
「痛ってぇ!」
「減らず口が出るなら大丈夫だな。ほら! 早く支度しろ!」
蒼汰を車のキーと共に送り出した。
展開は全く読めない。
ただ、二人の中に確実にあるもの……それを信じているだけだ。
それをもってすれば、彼らならどんなことでも乗り越えられる……そういう確信に近い気持ちが、波瑠の中にもあった。
その時、着信が入った。
その着信画面の名前を見て、波瑠は不穏な予想をしてしまう。
「高倉さん? おはようございます。どうしたんですか?」
「おはようございます。朝からすみません。伊波さん……これから少し出られませんか」
「ええ、大丈夫ですが……零、ですか? アイツがどうかしましたか」
「……実は先ほど天海病院の院長から、連絡が入りまして……」
「え、天海先生からですか? 零になにか……とにかく行きます! 天海病院に居るんですね?」
豪華な最上階の個室だった。
病室をノックすると、アンニュイな返事が返ってきた。
正面に見えるベッドはもぬけの殻で、その姿はなく、部屋を見回すと、日差しを避けた応接セットのテーブルの上に広げた捜査資料とノートパソコンに交互に目を落としている零の姿があった。
「……おい、たいした入院患者だな。それで静養してるつもりか?」
零は溜め息をつきながら波瑠の方に目をやった。
「こんな部屋に閉じ込められて病院着を着せられているだけでも、充分ストレスを感じていますよ。……波瑠さん、朝からわざわざすみません」
「全く! 聞いてあきれるな。大の男が栄養失調だと? どうせ食べてもないし寝てもないんだろ。人間ってのはな、1日1日年を取ってるんだ。劣化してんだよ。お前の感覚が何歳で止まっているのか知らないが、お前だってもう20代後半なんだろう。いつまでも若いと思うなよ」
零は自嘲的に笑った。
本人は分かっているのだろう。
倒れた原因が栄養失調でないことも それを俺がわかって話していることも。
零はまたPTSDを起こしていた。
波瑠はこの病室を訪れる前に、先に天海院長に面会し、零が倒れた時の状況を聞いていた。
来栖家の執事の救急要請で搬送された零は、重度の過換気症候群を引き起こしていた。
血液中の二酸化炭素やpHのバランスが崩れ、けいれんを起こしたのちに意識を失っていたそうだ。
カンファレンスルームに通された波瑠のもとに、天海宗一郎が現れた。
「波瑠くん」
「天海先生……」
「高倉刑事が、零くんのことなら親御さんよりも波瑠くんに話すのがいいって言うからさ。わざわざすまないね」
「いえ、知らせていただいて良かったです。それでアイツの状況は?」
「うん、今この段階では
「本人は、原因について話しましたか?」
「いや。身に覚えがないとは言わなかったが、捜査も忙しいから、とだけ言っていたよ。自分一人でのめり込んだ結果こうなったって、一応反省の姿勢は見せていたけどね」
「そうですか」
「ただカウンセリングは拒否されたな。むしろ “吐露することが心的ストレスの軽減にはつながらない” と、いかにも彼らしい言い分で断られたよ」
「なるほど。それで僕が呼ばれたわけですね?」
「頼めるかな、波瑠くん」
「ええ、僕がどこまで役に立つか分かりませんが、出来ることがあるのなら、何でも」
「ありがとう、助かるよ」
天海は波瑠に向かって微笑むと、安堵の表情を見せた。
第122話 『Spasm』ー終ー
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