第51話 『解明の糸口』
零が佐久間弁護士と会うために“蔵”から出て、ほどなくして2人はスケッチブックと下書きノートをもって屋敷に戻り、昼食を頂いた後にテラスのベンチに座った。
快適な風が、2人の間を通り抜けて行く。
絵梨香はそっとスケッチブックを開いた。
横から蒼汰が覗く。
小学校低学年の、決して上手とは言えない絵だった。
女の子と男の子が手を繋いで、正面を向いて笑っている。
青空をバックに緑一色の山が描かれ、手前には川が流れている。
水色のクレヨンで塗りつぶされた水中には魚がいて、山にはトンボが飛んでいた。
「なっかなか……元気のある絵だな」
「それどういう意味?!」
「いや……別に」
蒼汰は白い歯を絵梨香に向ける。
「小学校2年生の子が書く絵なんてこんなものよ!」
「そうだな。しかし、自然と戯れまくってる感じだよな。そういえばさ、秋の音楽会とか運動会の時期って、絵梨香はいつも真っ黒だったような気がするな。野生児って感じで」
「ちょっと! そこは健康的って言ってくれないかな!」
「あはは」
「なあ、ここに破った跡があるけど……」
「あ、これはね同じ絵をもう一枚書いたから……」
「それはどうしたんだ?」
「あ、お兄ちゃんに渡し……」
そう自然に言葉に発してしまい、戸惑った。
ほんの数秒の沈黙を蒼汰が慌てて埋める。
「……そっか、絵梨香にとって零が唯一の"お兄ちゃん"だもんな」
「……その時はね。今と違って、彼も"普通の子供"だったから」
「あはは! じゃあ今は何? "特殊な大人"ってこと? まあ、ある意味その通りだけどな」
「そうかも」
スケッチブックをめくっていく。
「絵梨香の絵ばっかりだな。これ自体が絵梨香のスケッチブックってこと?」
「どうだろう? 別に私だけの物ってわけじゃなかったけど……彼が絵を書いたことも、ないことはないと思うんだけど……」
そう言いながら、更にペラペラめくっていった。
「あ、これ……」
「うわ、すごいなアイツ……10歳にして、絵心もあったんだ」
そこにあったのは、スケッチブック全面に描かれているタマムシの絵だった。
玉虫の羽の美しいグラデーションが、統一された強さで鮮やかに描かれ、細部まで再現されていた。
加えて、美しい字でタマムシの体の器官を説明する書き込みもいくつかあった。
「こいつ、ファーブル昆虫記でも出版する気だったのか?」
蒼汰が面白おかしく言った。
「別にそういう気はなかったけどな」
その声に驚いて、2人揃って振り向いた。
「零! 話は終わったのか?」
「ああ、ついさっきな」
零は、サンドイッチが乗った皿を持ち、ミネラルウォーターを抱えたまま、蒼太の横に腰を下ろした。
それを頬張りながら、2人が広げたスケッチブックを、遠巻きに見ている。
「タマムシ好きは、お前もだな」
「そうらしいな」
さほど興味がないというように、正面を向いたまま次々、
その横顔を見ていると、またあの日の面影を探してしまう。
「絵梨香」
「え……なに?」
蒼汰から、まっすぐ注がれた視線に驚く。
「どうかしたのか? またタマムシでも飛んでたとか?」
「……いえ」
「これさ」
「なあに? どうしたの?」
「ここにも破った跡があるんだ」
「え?……ホントだ」
「またお兄ちゃんにあげたのか?」
「ちょっと、蒼汰……」
零が居る横でそのワードを出されて、絵梨香は思わず焦った。
「いや、俺はその絵はもらってない」
零が普通にそう言ったので、2人はまた一斉に零の顔を見た。
食べる手を止めて零が振り向く。
「なんだ」
「いや別に……」
零のその態度や発言に、何らかの変化を感じて、心臓が音を立てる。
絵梨香は、そっと呼吸を整えた。
次はノートの方を見てみることにした。
「なんか……色々書いてるけど、メモ的というか……」
「ホントね」
「わぁ、“いつ どこで 誰と 誰が 何をした ゲーム” だってさ!」
「懐かしいわね、小学校の時に流行ってた。国語の授業でもやったりしてたよね?」
「オレもよく友達とやったよ。でもさ、このゲームって大勢だったら面白いけど、2人でやっても面白くなくない?」
「そうなのよ、だから1人につき3つとか4つぐらいストーリーを考えて、それをシャッフルして遊ぶっていう……」
「それって、楽しい?」
「まあ……小学校低学年なりには、楽しいんじゃない?」
「零は?」
「そっちはあんまり覚えてないな。つまらなかったのかもな」
「ははは、チビに付き合っただけだってさ」
蒼汰がは真ん中に座りながら、通訳のように絵梨香に言った。
「つまらなそうにしてた事なんて……一度もなかったと……」
蒼汰越しに、零と目が合った。
「あ! オレ、これもハマった事あるぞ、○✕のオセロみたいなやつ……こっちは……わっ、なんだこれ? めちゃめちゃ細い迷路だな。これ書いたのは絶対零だろ?」
蒼汰がそう言って、ノートから顔を上げるまでのほんの数秒間、零と視線を絡めているひとときが、スローモーションのように絵梨香の時を
「だろうな」
零はそう言うと同時に目をそらした。
その言葉で、絵梨香は息を吹き返すような感覚だった。
「おっ、なんか力作発見! これは何だ?」
絵梨香は焦点をノートに向けた。
「ああ……二学期が始まってから小学校に提出する夏の課題用の下書きなの」
「へぇ、なになに、タイトルは……」
「“里山の生物”だろ?」
また息が止まるような感覚に陥る。
「え……覚えてたの?」
零は今度は視線を合わせなかった。
「まあな。お前の宿題なのに、ほとんど俺が書いてるからな」
「あはは、ホントだ。零の字の方が多いぞ!」
蒼汰が絵梨香の顔に向いて笑った。
「……ちゃんと家に帰ってからは自分で考察して作ったわよ!」
2学期の教室の後ろに張り出された “里山の生物” は、タイトル通り色々な生き物や植物について調べたり、写真を貼ったりした大きな展示物で、小学2年生の発表にしては確かに出来過ぎだった。
“お兄ちゃん”と作った力作だった。
「えっ? オニヤンマの全長11cmだってさ、デカ! ここだけ文字がびっしりだ。また詳しく書いてんな。ま、当然全部零の字だけどな。こりゃ零もテンション上がったんだろうな」
当時のお兄ちゃんを思い浮かべる。
彼の横顔を盗み見てその面影を探すが、残念ながらそのアンニュイな表情からは見つけることができなかった。
「このカエルの絵は……やっぱり零だな。小学2年にはここまで書けないか」
頭のなかに当時の光景が浮かんだ。
そうだ、カエルを捕まえようとして、転びそうになった私を助けようとしたら、お兄ちゃんも一緒に川に落ちて、ずぶ濡れになって……
その時の慌てた思いも、水の冷たさも、同時に見合わせた顔も……鮮明な場面を思い出すと、思わず笑いそうになった。
記憶が音をたてて、舞い戻ってくるのを感じる。
目を閉じると、いくつもシーンが浮かび、そのたびに、兄に思いを馳せる日々を送った事を思い出す。
何年か経った時、それを話した友人に"それは初恋だよ"と教えられたことも。
「川に落ちたな」
「え?」
絵梨香はバッと顔を上げ、零を仰いだ。
「カエルを捕まえようとして。違うか?」
「そう、私が転びそうになって」
「そうだ、それで助けようとしたらバランスを崩して、川の中にダイブだ」
自然に笑みが出た。
私と共有したあの時間を、彼も今、手繰り寄せているのだ。
次のページをめくった蒼汰が、声を立てて笑いだした。
「あはは、これ見てくれよ。絵梨香と零の頭の中の差が、歴然だぜ!」
『れ』Leonardo DA vinci
『い』ITALIA
『え』絵をかく
『り』理科がすき
『か』かんじがきらい
「ははは、これ見りゃ、当時の絵梨香がうかがい知れるな!」
零も少し笑っている。
「もう、馬鹿にして! 小学2年だったんだから、しょうがないって何度も言ってるじゃない!」
「確かになぁ、っていうよりは零の方が異常かもね」
「出来過ぎだわ」
「ははは、面白いな。オレもよくこういうのやったなぁ。“頭文字使って文を作れ”か。こういうの、なんて言うんだっけ? あいうえお作文?」
その時、笑っていた零の顔がスッと真顔になった。
「……“かきつばた” だ。わかるか?」
「は? 何のことだ?」
「それって、“
「そうだ」
「そもそも“かきつばた”ってなんだよ?」
「ああ、植物よ。アヤメに似た青紫の花を夏に咲かせるの。確か、伊勢物語の“東下り”はその“かきつばた”という五つの文字を各句の初めに置いて、旅の心を詠みなさいっていう内容だったはずよ。“掛け言葉”のことよね?」
「そうだ。“
「え? それがどうしたんだ?」
零がため息混じりに言う。
「じいさんの11の文だ」
「あ!」
蒼汰が口元を押さえた。
絵梨香の方を見る。
その表情から絵梨香も理解していることを悟って、蒼汰は改めて零の方を向いた。
「不自然に並べられている理由は、それが“アクロスティック”だからだと考えれば辻褄が合う」
3人はすぐさま腰をあげて、零の部屋に向かった。
歩きだしながら、蒼汰が零に尋ねた。
「ところで、佐久間弁護士とはどういう話になったんだ?」
「預かりものを返してもらったのと同時に、新たな遺言書の存在を知らされたよ」
「新たな遺言書?」
「ああ、彼は伝言係として、その遺言書こそが正式なものであるとする証人の役を担っているが、その内容までは知らないらしい」
ドアを開けながら さらに説明を続けた。
「要するに、現在の顧問弁護士の元に残している遺言書は無効、新たに出てきた遺言書を正式な遺言書として功を成すように取り計らってくれ、との依頼らしい。ちなみに預かり物は、静代さんが言っていたノートだけだった」
ダッシュボードの上にありとあらゆる色やサイズのノートが積んであった。
「思ったより冊数は多くない。まぁ毎日書いているとも限らないものだからな」
「オレたちも読んでいいものなら分担して作業できるけど、西園寺家の重大な事実が書いてあるかもしれないから、ノートは零が調べた方がいいんじゃないか?」
「蒼汰がそう言うなら、先に俺がざっと目を通してからお前らに手伝ってもらうよ」
零が言った“お前ら”という言葉が、信用していると言われたようで、絵梨香は嬉しかった。
「ただ……どうしても足らないものがある」
「なんだ?」
「鍵だ。てっきり佐久間弁護士が預かってくれていると思っていた」
「鍵? 何の?」
「貸金庫のカードが螺鈿ノートの裏表紙の所にあっただろ? でも貸金庫を開けるにはカードだけじゃなく、鍵が必要なんだ」
「じゃあ、その
「まあ、あくまでも俺の推察だが、このアクロスティックも、全くの無意味ではないように思えるからな」
「そうか、何かしらの解明の糸口が見つかるかも……」
「ああ、そうだ」
零はテーブルにメモを並べ始めた。
第51話 『解明の糸口』ー終ー
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