第105話 『I Continued To Worry After Dinner』

『ミュゼ・ド・キュイジーヌ』の食事を終え、華やかに笑いかける絵梨香とは裏腹に、息苦しさに苦痛を覚えた蒼汰は、鳴ってもいない携帯電話を手に、店の外に出る。


一体オレは何をやっているんだ……


そう思いながらも、答えを突き詰めるのを避けた。


会計を済ましてから、絵梨香の待つテーブルに向かう。


彼女は上機嫌で店の中をゆったりと見つめながら、退屈することもなく、一人の時間を過ごしている。


遠目に蒼汰に気が付いて、明るい表情で微笑みかける絵梨香には、当然ながら後ろめたい気分やささくれだった気持ちはないのだろう。

 

自分の中に渦巻く灰色の心は、絵梨香には知られたくないと思った。



「そろそろ出ようか」


「ごちそうさまでした! ありがとね」


「まあ、頻繁には連れてきてやれないけど、また来よう」


「そうだ今度は『LACHICシック』に行こうよ! 私がご馳走する!」


「ああ、予約が取れたらな」


「そうだった……まずそっちだね」


「ははは」



店の外に出て、大通りを歩く。

秋が近づいているというのに、少しも涼しくなく、むしろ湿気を帯びた空気を感じる。


「明日から下り坂みたいよね。天気予報士がテレビで言ってた」

 

「そうだな、天気悪いんだってな」


「出張なのに雨だったら嫌だよね、荷物もあるし」


「でも、名古屋に入っちまえば、大した移動もないからね。向こうではドアtoドアで済むから」


「そうなんだ? 観光とかしないの?」


「そりゃ作家の希望があればね。彼女はそういうタイプでもないし」


「でも作家さんのケアとか大変でしょ?」


「いや、書かせることに比べたら、ちょっとした付き添いなんて苦でもなんでもないよ」


「やっぱり担当さんって大変よね? ねぇ、明日の出版キャンペーンの作家さんってさぁ、もしかして、あの “花梨レモンティー” の女性なの?」


「……ああ、そうだけど……なんで?」


絵梨香はにっこり微笑んだ。


「なんか、そんな気がした。楽しみだよね! 名古屋!」


「なんだよ、その言い方は?」


絵梨香は、覗き込むようにこちらを見て笑いかけると、また軽やかな足取りで少し前を歩きだす。



……そんな笑顔を、見せないでくれ。

違う……

違うよ、絵梨香……

オレは……



後ろからクラクションが鳴った。

振り返ると、二人の横にスッと車が止まって、パワーウインドウが開いた。


「高倉さん!」


「江藤くん、相澤さんも!」


「こんばんは!」


運転席には佐川刑事が乗っていた。


「良かったら乗って行かない? 今から少しだけ『RUDE BAR』に行こうと思ってさ。送っていくよ」

 


二人は後部座席に座った。


「ありがとうございます。でもこんな時間から行くんですか?」

時計を見ながら首をかしげる絵梨香に、高倉は助手席から振り向いて言った。


「いや、ほんの少しだけ。ちょっと伊波さんに話があってね」


高倉はそれ以上の話をしなかった。

当然、今朝蒼汰が電話して昨夜の件について謝ったことも、零とのことも。


もちろん絵梨香に聞かせない方がいい話もあったかもしれないが、波瑠との議題は間違いなく零の事だろうと思った。



「君たち、ご飯食べに行ってたの? いいなぁ。俺たち、また弁当だったよな?」


「ええ、それもあの蛍光灯の並ぶシラケた捜査会議室でね。男ばかりのむさ苦しい声が飛び交う中でだよ? 味も何も感じる気にもなれないだろ? どう思う!」


佐川がルームミラー越しに二人にボヤいて笑いを誘った。


蒼汰は、カラカラと笑う絵梨香の横顔を見てから、高倉に視線を向けた。


彼は今夜、自分と絵梨香が食事に出掛けていることも知っていたはずだ。


それをどんな風に零に伝えたのかはわからないが、こんな時間から『RUDE BAR』まで出向き、大人二人が膝を付き合わせて相談するほど、零の状態も良くないのかもしれない。

そんな思いがフッとよぎった。


零の事が、どうしても頭から離れない。

解りすぎる間柄も時には厄介だ、と思った。


そして今は……

この敏腕刑事達から、自分が最大限の気遣いを受けている事に、居心地が悪かった。 


何をやっているんだ……オレは……



絵梨香のマンションの前で、絵梨香と高倉が車を降りた。


「じゃあ江藤くん、出張続きだけど仕事頑張って! 明日、午後からだっけ? 天気が悪くなるらしいから気を付けてね! じゃあ! 佐川、江藤くんをよろしく」


そう言ってドアを閉めた。


エントランスに消えていく二人の後ろ姿を見ている蒼汰に、ハンドルを切りながら佐川も、バックミラーを見ていた。


「高倉さん、今から伊波さんと何を話すんだろう……」


独り言のように佐川が言う。


「捜査の方の進展はどうなんですか?」


思わずそんな言葉がついて出たことに、蒼汰は自分で驚いた。


この前まで聞き込みや会議にも加勢していた自分が質問するのに、何の違和感もないはずだが、滑稽に思えてしまうのは、自分の心の中に別の議題があるからだろう。

せめて、それが佐川に悟られなければいいと、情けない思いが浮上する。


「まあ、捜査員の規模は大きくなってるし、情報が手に入りやすくなったね。ただまぁ正直、ひっきりなしってどこだ。現場は現場で大変なのもわかるけど、会議室も会議室で情報がごった返している。それを零くんは簡単に処理するんだよな……ホントうちのフィクサーは凄いよ。

今、何が大変かって言ったら、彼の頭についていくのが大変なことだ。だけど裏を返せばそれだけだ。捜査員も彼に対しては従順だし、次々に上がってくる有用な情報も手応えを感じる。そういう意味では、捜査においては今のところ問題なく進んでいているんだ。だけど……」


その濁した言葉に、蒼汰が顔をあげた。


「君が気になってるのも、その続きなんじゃない?」


「え……佐川さん?」


「僕も “フィクサーの兄” の筈なのに、今夜は『RUDE BAR』に、呼ばれなかったんだ。なんか、淋しいな……」


「あの……“フィクサーの兄” って何です?」


「いや、それはまあいいんだけどさ、零くんの様子も何だかおかしくてね。江藤くん、まだ、仲直りしてないの? 君らが喧嘩したらこんなにも回りがざわつくもんかな? 僕にはよく解んなくてさ」


「あの……佐川さん、明日の会議は早いですか?」


「いや、いつもより一時間遅くなったんだ。聞き込みの結果が上がってくるのも昼前になるし、何か高倉さんが、零くんを気遣ってるみたいで、今日も早く帰らせたんだ。しばらくそうするってこっそり言っててね。……ということで江藤くん、次の交差点にあるファミレスに入る?」


「え! あ……はい」


……なるほど、この人も敏腕刑事だったな。

蒼汰は肩をすくめながら、改めてその横顔を眺めた。




蒼汰を乗せた車が走り去るのを背で感じながら、高倉は絵梨香と共に『カサブランカ・レジデンス』のエントランスをくぐった。


ポストに立ち寄る彼女を見ながら、あの黒い紙事件を思い出していた。



始まりは、あの時よりもずっと前だったんだよな……


高倉警部補は、この一連の事件を振り返っていた。


脳裏に浮かぶシーンには、あらゆる形で、全力で取り組む零の姿があり、そのおかげでこの事件の全貌がもうすぐ見えようとしている。


しかし……こんな華奢で可憐な女性が、大きな事件に巻き込まれたことを思うと、胸が痛む。



「送って頂いてありがとうございます。もう遅いですし、波瑠さん、待ってるんじゃないですか? ここで大丈夫です!」


「まあまあ、そう言わず。俺が零くんに叱られるから、ちゃんと家の前まで送らせてよ」


「……なぜ彼に?」


彼女は、少しけんのある言い方をした。


「昨日の『LACHICシック』は、どうだったの?」


「それはもう! すこぶる美味しくて!」


「じゃあ作戦成功だ! 零くんもしっかり食べただろう? 相澤さんに協力してもらって良かった!」


「協力だなんて! あんな素敵なディナーをご馳走していただいて。恐縮です」


「でも零くんは、本当に事件の手がかりを一つ拾ってきたんだよ? ホントにどこに行っても、優秀な奴は気を抜かないんだな」


「そうですね」


「それで、なのかな?」


「え? なんですか?」


「相澤さん、昨日ご機嫌が悪かったって江藤君が」


「ああ……蒼汰は何でも大げさなんですよ。あっ! 蒼汰、私がお土産を “爆食いした” みたいに言ってたでしょう!」


「ははは。それも言ってたな」


「ほんと、サイテーなんだから!」


「相澤さんが機嫌を損ねるほど、零くんが ディナーそっちのけで捜査してたなら、それはやっぱり俺らの力不足だ。ごめんね」


「全然そんなことなかったですよ。彼、美味しいって、お肉もペロッと食べちゃってましたし」


「本当!」


「なんか高倉さん、嬉しそう。まるで彼のママみたい」


「そこで “父親” じゃなくて “母親” っていうのが、なんか微妙な気分なんだけど……」


「あはは、すみません。“父親” にとっては息子ってそういう対象じゃないんでしょ? やっぱり甲斐甲斐しく息子の世話を焼くのは “母親” っていうイメージがあるので」


「あはは。それで俺は彼の "ママ" ってわけか! まあ、八割方正解かもな」


「やっぱり!……まあ、でも来栖家に当てはまるかどうかは、わかりませんけど……」


「ねぇ、相澤さんてさ」


「はい」


「零くんのこと、ミステリアスだと思ってるでしょ?」


「まあ……そうですね。何考えてるかちっとも分からなくて、分かったと思ってそのつもりでいたら、真逆なこと言われたり、正直、振り回されちゃって……」

  

「うん……それで昨日はご機嫌斜めだった?」


絵梨香は少しバツの悪い顔した。


「でも昨日の夜、零くんから電話あったでしょ? そういうフォロー、ちゃんとするんじゃないの?」


絵梨香はブンブンと首を振った。


「本人からはかかってきませんでしたよ。蒼汰からかかってきました。彼に電話するよう頼まれたって」


なるほど。

高倉は、確信を持った。


「相澤さん、零くんは今、多くの捜査員を束ねて捜査の中枢として奔走してるんだ。彼が休んでくれなくて、いつ倒れるかも分からなくてさ、俺はハラハラしてる。だから、彼が落ち着けるような、安らげるような時間を与えたくてさ。でもね、人って難しいから、逆にそういう時間が手に入ると、コントロールの効かない行動を起こしてしまうこともある」


「何か……あったんですか?」


「いや、大したことじゃないよ。昨日なんだけど。ちょっと零くん……気が高ぶっててね、俺と佐川で零くんを送ってったんだけどさ、そんなに飲んでもないのに昏睡状態みたいに意識失って、実家の彼のベッドに二人で運び込んだんだ。そんな事初めてで驚いてね」


絵梨香の表情が変わった。


「それで、零くんのお母さんと長々と話しているうちに、泊めてもらうことになってね」


「え? 実家に泊めてもらうんですか?」


「まぁ、ものすごい広さのある邸宅だからね、部屋はいくらでもあるんだろうけど、俺たちもちょっと驚いた。でも面白かったよ。朝起きた時の零くんの顔は。彼は何も覚えてないからね、自分が服のまま寝てることにも驚いて、ダイニングに行ったら俺たちがそこに座ってるわけだからね。多少は……自覚したと思うんだ」


「何を、ですか?」


「彼が著しく、精神的に疲れているということ」


「……そうなんですか?」

 

「思い当たる節はある?」


「え? いいえ……ありません」


そう言って絵梨香はうつむいた。


あの “忘れてくれ” と言った時の、彼の苦渋の表情……

彼の精神的疲労に、自分が加担していたのではないかと、胸が騒いだ。


「ああ……ごめんね。長々と玄関先で、引き止めちゃって。さあ入って!」


「いえ……送っていただいて、ありがとうございました」


「……零くんのこと」


「え?」


「いや、ごめん」


「何ですか? 何でも言ってください」


「ああ……いや、零くんのことをさ、君が理解してくれたらなぁ……とか、ついつい思っちゃったりするんだよね……」


「理解ですか……」


「というよりは……男ってさ、ここぞ!って頑張る時に、心の中に誰かがいると、ブレずに力を発揮出来るんだ。まぁ……独身の俺が言っても説得力はないんだけどね」


絵梨香は戸惑いの表情を浮かべていた。


「あ、ごめんごめん! さぁ入って!」


「では……波瑠さんによろしく。ありがとうございました」


「ああ、おやすみ」


「おやすみなさい」

そう言ってから、絵梨香はドアから振り返った。

「……あの!」


「ん? どうしたの?」


「……高倉さん、彼の……来栖零の、心の中には……誰も入れないと思います」


絵梨香は小さな声でそう言うと、軽く頭を下げ、立ち尽くす高倉の前でドアを閉めた。


そして玄関で靴を履いたまま、そこにしばらく立ち尽くした。


だって彼は……

ようやく勇気を出して、心のドアをノックしても、“忘れてくれ” なんて言って、追い返すような人なのだから……


憎らしいと思っても、昨夜の具合の悪そうな話を聞けば、胸がざわめく。

夕方電話もらった時に、つっけんどんな態度をしてしまった事にも胸が痛む。

でも……

目を閉じると浮かんで来るあの光景。

忘れてくれなんて言われたって……

忘れられるわけがない。


彼が、あの川沿いで私を抱き上げてくれた時の、あの空の近さを……

私の視界を遮るために その胸に抱きしめてくれたことも……

苦痛の渦の中から私を呼び戻してくれた、あの真剣な眼差しと声、そして重なる唇……


私を受け入れる彼と、私を突き放す彼……


絵梨香の胸に、また一瞬、焦げるような痛みが走った。



一体どちらが……本当の彼なんだろう?




第105話 『I Continued To Worry After Dinner』ー終ー

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