第106話 『Be The Trigger For Case』
絵梨香をマンションまで送った高倉警部補は、夜更けの大通りを渡る。
この道を、あの三人が揃って渡って来た……あの日を……
今も時々思い出すことがある。
あの時にはもう……始まっていたのか?
あの頃、彼らがそれぞれ数ヶ月後の自分達の姿を想像することが、果たしてできたのだろうか?
ドアチャイムを鳴らすと同時に、心地よい音楽に身体が一気にさらわれる。
落ち着いた空間の暗がりのなかに、グラスを磨きながらこちらを見上げる温かな眼差しを見つける。
皆がここに帰ってきたくなる気持ちが、よくわかった。
ふとそう思った瞬間に、優しい声が響く。
「いらっしゃい」
「遅くなりました」
そう言いながら、高倉は階段を下りていく。
あらかじめコースターがセットされたカウンターに、腰を下ろす。
「お疲れ様です。お待ちしてましたよ」
波瑠は、いつもの水割りを高倉の前に置いた。
高倉がそのグラスに口をつけると、波瑠は話し始める。
「いつか……あいつの中のキャパシティが飽和状態になる日が来ると、思っていました。零はなんでもかんでも心の奥にしまいこんで、吐き出しはしない。でもしまいこんだところで、それはなくならないんですよ。もういい加減、解ってると思うんですけどね」
そう言うと、波瑠もグラスを傾けた。
「ところで高倉さん、ご結婚は?」
高倉は酒を吹き出しそうになった。
「……随分、唐突ですね?」
「あはは、まあ気がつけば周りに独身しかいないもんで」
「ホントだ」
高倉は笑った。
「結婚しないんですか?」
「まいったな、直球ですね! そのままそっくりお返ししたいところですが、まあ強いて言えば、いつでも結婚したいです。心も体も疲れ切って
高倉は自嘲的に溜め息をついた。
「伊波さんは? そういう訳ではないんですか?」
「ああ、僕はもう少し幼稚かもしれません。相手に想いを伝えられないんです。相手がどう思うかとか、迷惑じゃないかとか、そんなことを考えてボヤボヤしてて、それで過去に失敗した経験もあるんですけどね。自分に自信がないのが大いにあります。やっぱり恋愛って、いくつになっても難しいですね。大の大人二人がこうやって恋愛談義しても、何も解決しないわけですから、若い連中が悩むのなんて当たり前かもしれません」
「俺たちは……今からここで恋愛談義をするんですかね?」
「あはは。それもいいかもしれませんが、今は緊急性のある事案から取り組みましょうか。あ、でも……ある意味それに近い話になりますね。恋愛感情は淡く甘いものばかりじゃないですから、時に排除してしまいたいほどの支配力を持ちますし、
高倉は溜め息はついた。
「伊波さんが頭を悩ませるのもわかります。……まあ、時間の問題だと思っていたのも否めませんが、時間が解決してくれるほど簡単ではない事も薄々気付いてはいた筈なのに、なんの手出しもできないまま……」
「まあ、デリケートな問題ですし、そもそも他人が立ち入る話ではないですからね。ただ、それぞれが血を流しているのを、助けず手当てもせずに近くで見ているだけっていうのは……なかなか苦しいものです」
「そうですね……俺も辛くなってきました。……見守るしかないんでしょうか?」
波瑠はカウンターに肘をついて、組んだ指に力を入れた。
「いえ、僕は少し焚き付けてみようと思っています。どう転ぶかはわかりませんが」
高倉は少し驚いて顔を上げると、確かめるように、波瑠の視線を捉えた。
「フィクサーを預かる立場としては、非常に不安ではありますが……俺も精一杯サポートします。念のため、佐川には言わないでおきます。俺ね、根がお節介なもんで、若者の恋愛を応援したくなったりしそうで……もしフライングしそうになったら、伊波さん、注意してくださいね」
「あはは、わかりました」
「零くんの様子は、逐一報告しますんで」
「よろしくお願いします」
* * * * * * * * * *
「高倉さん……おはようございます」
そう言いながら、佐川は
「お前、今日は会議が1時間遅いのに、なんでそんなに眠たそうなんだ?」
「高倉さんこそ。昨日『RUDE BAR』にはいつ頃までいたんですか?」
「ちゃんと電車で帰ったよ」
「え? なんだ……それだったら僕の方が遅いじゃないですかぁ」
「は? どういうことだ?」
「僕、江藤くんと一緒にファミレスで話し込んでて……」
高倉がその名前に反応して、佐川を廊下に押し出した。
高倉の視線に目をやる。
「No way! You were there too!」
佐川は高倉の示す方向を確認すると、息を潜めながらそう
「すみません……」
「……あの後か?」
「そうです」
「江藤君は今日から名古屋だろう? 大丈夫だったのか?」
「昼からだからって、江藤君の方から誘ってきたんですよ」
「え? 彼から? どんな話を?」
佐川は眉を上げて会議室の入り口の方に視線を送った。
「愛は溢れてるんですけどね……」
「は? なんだ、その言い方?」
「ただ……複雑です」
「一体なにが複雑なんだ?」
会議室内からイスの擦る音が鳴り始めた。
「……そろそろ時間だな。佐川、続きはまたあとだ!」
「はい」
捜査会議室に入ると、零は定位置に戻っており、捜査員達が立ち上がった。
零は調書から顔を上げて言った。
「そろそろ始めましょう」
その表情にも言葉にも、なんの感情も含まれていなかった。
「あ……ああ、そうだな」
いつもより1時間遅れの会議が始まった。
「指紋照合でわかったことですが……
6年前に本人から被害届が出ていました。
小田原佳乃は……6年前に強姦事件にあっています。その頃と名字が変わっていました。田所佳乃、現在の姓は母方の親戚のもので、事件の約1年後に養子縁組によって小田原になったようです」
会議室内がざわついた。
「強姦事件……未遂ではなく……?」
高倉が改めて調書をめくって確認する。
同じように会議室内には、手荒に紙をめくる音があちらこちらで鳴り続く。
「はい……モンタージュを作成して捜査もしたのですが、犯人の手掛かりもなく、捜査は進展しなかったと……彼女は何度も警察を訪れて捜査を続けて欲しいと懇願していたらしく、警察署で暴れたこともあったそうです」
会議の開始前に、同じ調書を見ていた筈の零は、もうそれを手にも取っておらず、その瞳から何の感情も汲み取ることはできなかった。
「通院歴①産婦人科。事件同日に、産婦人科『瀬戸レディースクリニック』受診。感染症予防薬と経口避妊薬を処方されていました。通院歴②耳鼻科。事件翌日に、『芹沢耳鼻咽喉科』受診。外傷性鼓膜穿孔と診断。耳を叩かれたせいで鼓膜が損傷。カルテには男に殴られて鼓膜損傷との記載。当時交際相手はおらず、強姦事件によるものと……思われます」
皆が溜め息を洩らしながら、黙って
「当時の調書からです。犯行現場は桜川、今回田中の遺体のあった現場よりも少し下流です。田所佳乃は、拉致されてエタノールらしき気体を吸わされ、意識が戻った時には河原に居て、本人がそこに落ちていた石で犯人の頭を殴って逃げたと供述しています。しかし、警察官が現場に急行して現場を調べても血の着いた石も見つからず、付近の病院を探しても、その外傷の通院患者も見つからなかったそうです」
「そこに微量の血痕が落ちていたと」
「はい。それは当時採取してもちろん調べたのですが、前科がなく照合に至りませんでした」
「その血痕DNAが、田中紀洋のものだったんだな?」
「はい。そして、それが当時、被害者の証言をもとに作成されたモンタージュです」
「この傷の位置……」
田中の死体にあった古い傷の位置と一致していた。
「では、小田原佳乃は、田中がその犯人だと知ってて、入社したのでは?」
「確かに、偶然とは考えにくいな。彼女はおそらく、この強姦事件によって『想命館』に入社するまでの間は、何の職歴もない。仕事もしないで、警察には足繁く通って捜査を続けてほしいと抗議をし、精神的に参っていた印象があったと聞いた」
零が立ち上がった。
捜査員の間に緊張が走る。
「これまでを踏まえて、少し整理しましょう。
6年前に起きた田所佳乃22歳の強姦事件の犯人は田中紀洋である。彼女が犯人を殴った石は田中本人が回収、自宅に新聞紙にくるんだまま保管隠蔽。
ここから疑問がいくつか……
まず、田中紀洋が田所佳乃という女性を襲った経緯、以前から付け狙われていたか突発か。これに関しては恐らく前者でしょう。記録には割と簡素に書かれていますが、不審者が身の回りに居ると感じたことを、恐らく彼女は口頭で地域の交番に訴えていたのではないでしょうか。そのような通告の記載自体はほんの僅かですが、日報日誌には彼女の居住地区のパトロール強化の動きが書かれていました。
大きな疑問としては、このような行動を起こしている小田原佳乃が、過去に被害にあった田所佳乃であることを、ずっと伏せていたことです。そして、新しい切りつけ事件の被害者として、再び田中から被害を受けたと
ざわつきと共に、また紙をめくる音が部屋中に行き渡った。
「あくまでもここからは自分の見解ですが、小田原佳乃は当然、田中を恨んでいた。この事件のせいできっと就職も駄目になったでしょう。人生が大きく変わったという点で、恨んでいるのは、犯人の田中だけではなく、何度も訴えていたのににもかかわらず、適切に対処してもらえなかった、そして実際に被害に遭ってしまい、犯人をも見つけられなかった警察に対しての復讐という意味合いもあるでしょう。ある日どこかで偶然、もしくは執拗に探し回って、田中を見つけ、その就職先に潜り込んだという可能性は、充分にあります。それで自作自演を起こした。単に警察を振り回すというだけの目的ではなく、あわよくば、田中自身に制裁も下したかった……」
皆が息を飲んで聞いていた。
「ここでまた疑問が現れます。田中の死亡推定時刻に、小田原佳乃には絶対的なアリバイがあるということ。そして小田原佳乃が捏造に使った包丁で、田中は刺殺されているということ。ここに浮かんでくるのが“第三者の存在”です」
零は一度確認するように、会議室全体を見回した。
「例えばこの包丁一つとってもどのような経緯で小田原佳乃の手から田中の胸に刺さるに至るか。これを捜査していく必要があると思います。当然ながら凶器が一人で歩くわけはないので、誰かの手によって、それも小田原佳乃以外の誰かとなれば、また新たな見解が必要となります」
零が席に着いたと同時に、捜査員からは溜め息が漏れた。
すかさず高倉が立ち上がる。
「明日の午後からの小田原佳乃の任意の事情聴取については、その情報が隅々まで行き渡るように、連絡を回すとともに、聞き込み班は何か小さな情報でもあれば、必ず敏速にここの本部まで知らせるように。小田原佳乃は犯罪心理学の心得がある。簡単に自白に持っていくのは難しいだろう。だから小さなことでも、ここに引き止めておける間にねじ込んで、反応を確かめたい。では早速、それぞれの捜査に向かってくれ」
男達が一斉に立ち上がった。
一旦会議は解散となって、いつもは零と共にそこにまどろんでいるはずの高倉警部補が、珍しく一番に会議室を出て行った。
零はそれを気にも留めずに、相変わらずもう一度その分厚い調書に目を通しながら、退出していく捜査員たちをやり過ごしていた。
部屋に佐川と零だけになった時、高倉が戻ってきた。
「零くん、お客さんだ!」
その言葉に、零は調書から顔を上げた。
高倉の横には、紙袋を持った波瑠がにこやかな表情で立っていた。
「うわーここ! 知ってますよ! 有名なカツサンド屋さんだ!」
佐川が声をあげた。
箱を開けると、更にワーッ盛り上がる。
芳醇な香りを醸したソースがたっぷりと絡んだ肉厚のカツが挟まれた、ふわふわの食パン。
有名店の手土産ランキングでも上位に入るような、限定カツサンドだった。
「伊波さん、ありがとうございます!」
「こっちについでがあったんでね、別の買い物をしてたんですけど、これが目に入ったら僕も食べたくなっちゃって」
そう言って、四つあるうちの二つの箱を持ち上げた。
「ちょっと零を、借りてもいいですか?」
零が少し不思議な顔をした。
「ええ、もちろん」
高倉がにこやかに答える。
「零、屋上で一緒に食べようか?」
「はい」
「どうぞ!」
佐川がそう言って、机の上に並ぶミネラルウォーターを二本、零に渡した。
波瑠はにこやかに二人に微笑みかける。
「じゃあちょっと、行ってきますね。行くぞ零」
第106話 『Be The Trigger For Case』
ー終ー
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