第96話 『生まれ持って背負う宿縁』
夜も更けていた。
被疑者"
署で新たに大規模な捜査本部が立ち上がり、会議の指揮を取る零を、高倉警部補は
高倉の運転する車に乗り込み、零は帰路の途についた。
「今日は “邸宅” でいいんだな?」
「またその言い方を……」
「いいじゃないか? わかりやすくて。しかし、実家の敷地内に『国指定重要文化財』があるなんて、すごいな! 拝観料がいるらしいじゃないか?」
「俺にも訳がわかりませんよ。もう物心ついた時には、そうなっていたので」
「
クールな零の表情が少し動いた。
「なぜ高倉さんが? 結構な"重要機密"のはずなんですが」
「実は……つい最近、
零は驚いた顔をした。
「へぇ、そんな顔するとは。零くんでもこんな身近に “想定外” があるんだな!」
なんだか嬉しいような……そんなつまらない発想が高倉の頭に浮かぶ。
零は表情を取り戻して聞いた。
「兄からですか、何の用で?」
「まあ、こっちの事件がどうなっているかの偵察だっておっしゃってたけどな。まあ、その進み具合で、君がどれほど多忙かっていうことを 知りたかったんじゃないかなと思う」
「そうですか。相変わらず、スカした人ですね」
「最初は多分その程度で、連絡をして来られたんだと思うが、西園寺家事件と、君と江藤くんの幼馴染が被害者である強姦未遂事件がつながったという話になると、事件の難解さを感じたんだろうな、ポツリと言ってたよ。“これはしばらくはそっちにかかりっきりだろうな”ってね。西園寺家の方も章蔵氏の殺害事件とは別の部分で、大きな問題があるようなニュアンスの事を聞いたよ。そこに、君が大きく関わってるんじゃないかって思ってさ。違うかな?」
「さすがですね。刑事の勘と、俺の事をよくご存じな高倉さんならではの推理だ」
「おお! フィクサーに褒められた!」
「よしてくださいよ、その言い方は」
高倉は笑った。
穏やかな表情のまま、運転席からチラッと零の顔を覗く。
「俺が言えた義理じゃないが、これから大変なんだろう? 零くん、君は大丈夫か?……いや、愚問だな。君は突き進むだろう。……じゃあ俺に何ができる? ちゃんと俺に役割をくれるか?」
「高倉さん……」
「頼むから、少しは甘えてくれよ。つまんない話でも大歓迎だ、色々君の抱えてる事を話してくれないか?」
「ありがとうございます」
「あとは……そうだな、例えば……相澤絵梨香さんの事とか」
零は高倉の方をパッと見た。
「相澤……ですか? なにを?」
「ああ……あんまりそういう事に介入すると、若者に嫌われちゃうか?」
「何ですかそれ? そういう時だけジジイにならないでくださいよ。話が見えません」
「そうだよな? 俺だって、君の兄さんと同い年なんだから」
「え、そんなに若かったでしたっけ?」
「なんだよ! 結局ジジイだと思ってたんじゃないか!」
「冗談です。兄貴みたいだと思ってますよ。感謝してます、高倉さん」
高倉は言葉に詰まった。
「どうかしましたか」
「いやすまん、ちょっと泣きそうになった」
「え? 嘘でしょ。冗談はやめてください」
「冗談じゃないんだよ、零くん、もうここまで俺も吐露してるから言わせてもらう。君はまだ若い。それは青いって言ってるんじゃない。若く自由でいていい年齢なのに、君は不自由すぎるんだ。見てて辛い。お願いだから幸せになってくれ」
零は驚いたように高倉の顔をまじまじみた。
「君のそばで君を支える存在が、そろそろ必要なんだと思う」
「俺は周りの人に恵まれてると思っています。今で十分満足していますよ」
「そういう意味じゃないよ。君の人生の伴侶だ。パートナー、心安らげる人」
零は溜め息混じりに言った。
「高倉さん、まさか見合いでも勧めようとしてますか? それは兄の差し金ですか? もしかして警視総監の?」
高倉は慌てるように否定する。
「違うよ零くん、そうじゃなくて……そうだな、例えば! ふと素に戻った時とかに、君の中で一番最初に浮かんだ人……そういう思いを大切にしてだな……」
零の表情のない顔を確認して、高倉は改めて言った。
「あ……すまん、これ以上言ったら、ハラスメントに値するかもしれないから、やっぱりやめておこう。これ以上、ジジイ扱いを受けるのはごめんだ」
二人は笑った。
心の
じゃあ、今日は少しは眠れるだろうか……
いつも目を閉じると、幾つもの事件の光景が目の奥にフラッシュして、次々に映りこんで来る。
その度に、苦しくなったり吐き気が止まらない夜もあった。
パワーウィンドウを少し開け、顔に風を受けながら、ふと目を閉じてみる。
遺体の状況、現場の状況、遺留品。全てにおいて写真で撮ったように頭に残って、それらのカードを束ねていくかのように、重ねて……
次に出てきたのは、相澤絵梨香。
苦しむ表情に、胸がざわめく。
彼女のゆがんだ顔を見ると、自分も呼吸ができなくなる。
苦しみの中、深い深い水の底に沈んでいった。 絶望か……
そこに、光が差し込む。
彼女を救うことが出来るのは、自分だけだ。 なんとしてでも、救う。
彼女に手を伸ばし、引き寄せ、抱きしめ……
口づけた。
なにかが目を覚まし、そして……
彼女は息を吹き返す。
この命を……途絶えさせることなく守るためなら、どんなことでも……
「零くん、零くん!」
「大丈夫か? 夢を見たんだね。“門”に着いたよ」
「ああ……ありがとうございます」
「汗びっしょりだ。君もだいぶ疲れている。 司令官に倒れられては困るからね。何でも相談してくれ。それと、無理しないでくれよ! 俺が君のことを心配な気持ちは、君が相澤さんを心配する気持ちと同じようなもんさ。わかるだろ? そう思ったなら、俺のためでもいいからさ、心を穏やかに、心身ともに健康でいてくれ」
零の心に、灯がともった。
零は一つ大きく息をつく。
髪をかき上げ、汗を拭った。
「最近、高倉さんは波瑠さんと仲がいいでしょう」
「え? そうだな、とても気が合う人だよ。歳も近いしね。どうして?」
「おっしゃってる事が二人とも一緒なので」
「じゃあ、君には3人の兄さんがいるんだな。なら、その兄達を悲しませないでくれよな!」
零は穏やかな顔で、頭を下げた。
車が敷地内に入った。
「ここからは君のナビが必要だ。ここは“迷宮”だからね」
零は微笑んで見せた。
最初に出てくる分岐を『国指定重要文化財』の母屋と日本庭園のある矢印とは逆の方に進むと、
「何度来てもここは幻想的な作りだね。あの分岐を中心に対称的だ。まるで国が違うみたいだな」
「俺からすると、なんだかいびつな感じです。おかげで、ここに来ても一つも気が休まらないですよ」
「そうなのか?」
「でもしばらくは、こっちの方が何かと都合が良いので」
「まあ、そうだな。事件が解決するまでは……ってところだな」
「そうですね」
一見、高原の高級リゾートホテルのような洋館のエントランスに続く車寄せで、零は高倉の車から降りた。
「じゃあ、また明日もよろしくな!」
その車が、門の向こうへ出るまで見送った。
零は大階段の向こうにある本館のリビングには立ち寄らず、そのまま自室がある“離れ”の方に足を向ける。
後ろから声をかけられた。
「零様。 お帰りでしたか」
「ああ、すみません。遅い時間に」
「何をおっしゃいますか。あなたの家ですよ」
零は自嘲的に笑った。
「このところ、度々お会いできるので嬉しいです」
「俺がこっちに帰ってきたら、松山さんも落ち着かないでしょ」
「そんなことはありません。さして何か、いい付けて下さるわけでもなく、むしろ、何かご要望でもあれば、お役に立てますのに」
「相変わらず仕事熱心な人ですね」
「零様が、私を頼りにして下さったのは、中学生の時の夏の課題ぐらい迄でしたかね」
「はは。よく覚えていらっしゃる」
「そうですね、中学生の割には無理難題をおっしゃって、私にとっては難しい課題でした。お手伝いするのに、図書館に参考文献を探しに参りました。いやぁ、実に、楽しかったですね。今はそういった事がないので、幾分退屈しております。いつでも、何なりとお申し付けください。なんなら、警察のお仕事でもお手伝いいたしますよ?」
「相変わらず、松山さんは面白い人だ」
「恐れ入ります。明日は、お車はお使いになりますか?」
「ええ、朝から出ます。先に警察署に向かいますので……」
「でしたら『AMG』ですか?」
「いや、『マセラティ』で」
「かしこまりました。車寄せにつけておきます」
「お願いします」
「お夜食を用意しますので、しばらくしたら 本館にいらしてください」
「わかりました。ありがとうございます」
また少し、気持ちが和んだ。
松山さんは2代にわたって、来栖家に仕える執事で、零にとっては本物の父親よりも、ずっと近くにいて信頼できる存在だった。
自室に荷物を置いて、本館のダイニングで食事を摂る。
そのままシャワーを浴びた。
リビングには、冷えたグラスビールが置かれていて、零はバスタオルで頭を拭きながら、ソファーに座って、それを
「ここのところ、ちょくちょく帰ってくるじゃない?」
後ろから声がした。
「ああ、居たんですか」
零は、頭からかぶったバスタオルから顔を覗かせて言った。
「母親に向かってそんな言い方って、ないんじゃない?」
「いや、珍しいシチュエーションなので」
「まあ、そうね」
「俺が帰っていると、松山さんに聞いたんですか」
「いいえ。二階の窓から見慣れない車が門から出ていくのが見えたの。こんな時間だったらあなたしかいないでしょ?」
そういいながら
零が目を丸くする。
「ますます珍しい光景だ。まさか俺に話でもあるんですか?」
零はソファーにもたれたままで口だけを動かしていた。
「あなたねぇ、母親が息子に話しかけて何が悪いのよ? 普通の光景でしょ?」
「この家に“普通”という概念が?」
葵は溜め息とついた。
「相変わらず、つれない返答ね。それはさておき、ねぇ零、駿から連絡はあるの?」
「この前の親族会議の後、兄さんを駅まで送って以来、話していませんけど」
「あの子から聞いたわ。あなた、捜査が忙しくて捕まらないかもって。相変わらず事件に関わりっぱなしなの?
それで? あなたはどうしたいの?」
「別に。今、何かを決める時期では、ないのでは?」
「それがそうもいかないようよ。
「……正式な要請とは?」
「お兄様が言ってきた。“西園寺家跡取り” として、零との養子縁組を実現させたいって」
零はおもむろに、頭からかぶっていたバスタオルを首まで下げて、ソファから身を起こした。
「とはいっても、“跡取り” だなんて、口実ね」
「口実?」
「ええ、お兄様はきっと、早々にもあなたを、西園寺家の “当主” にするつもりよ」
「は! 待ってくれ! そんな話……」
零は一瞬、遺憾に堪えないといった表情を見せた。
動揺が見えたその瞳をじっと見つめている母から、零はスッと目を
第96話 『生まれ持って背負う宿縁』ー終ー
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