第54話 『暮れゆく空の下で』

西園寺家に伺う際にも立ち寄った同じサービスエリアで、3人は早い夕食をとった。

先に席を立った零。

買い物を終えた絵梨香は、無意識に展望台に向かっていた。


先客は、そこにはいなかった。

絵梨香はベンチには座らず、いつも変わらずそこにたたずんでいる大きな“ハートのオブジェ”に腰をかけた。

そこから見下ろす全面夕日に染まった景色は、昨日とは全く違って見える。

夕日の色が、あの子供だった日の海で見た黄昏と相まって、目の奥から離れなくなった。

あのクルージングの写真を見たからかもしれない。

切ない思いに支配され、鼻の奥がツーンと痛くなる。

この二日間の思いが一気に込み上げてきた。

なぜ……この展望台の方に足を踏み出したのだろう。

私は確かに……彼を探していた。

昨日より、親密になったような気がしたから……? 

でも……一体何を話そうと?

何も言葉が見つからないのに……

自分にそう問いかける。

そしていつからか、ずっと心臓が高鳴って息苦しい事に気付く。

一度深呼吸してみようと、大きく息を吸った。

吐き出すと同時に、なんだか涙も出そうになって驚いた。

思わずうつむいた時、後ろから声がした。


「具合でも悪いのか」


遥か頭上にある、その顔を見上げる。

そこには、昨夜最初に“蔵”で出くわした時の、零がいた。

 

「どうした」

「いえ……どうもしないわ。なぜ?」

「苦しそうに見える」

「それは……」  

暫しの沈黙が流れた。

「あの……」

「なんだ」

「私、ダイニングで寝ちゃって……あなたが運んでくれたの……よね? ちゃんとお礼、言ってなくて……昨夜きのうはありがとう。あなたの部屋のベッド、使わせてもらったみたいで……申し訳ないなって思ってて……」

零は思い出したというように息をつくと、勢いをつけて話し出した。

「そんなことはどうでもいい。それより、あの現象、頻繁に起こるのか?」

「え……?」

「あれは普通じゃない。飲酒もしていないのに短時間で昏睡状態に陥るなんて。早急に調べた方がいい。昼間の過呼吸のこともあるし、心療内科か、それかカウンセリングか、とにかく……」

背後の遠い場所から声がした。


「おい絵梨香! そんな所でなにしてんだ? ほら行くぞ」

蒼汰は、ちょうどオブジェの柱の死角に立っていた零には、気付いてないようだ。

零から真っ直ぐ絵梨香に注がれていた視線が、スッと外れた。

後方を意識してゆっくり右に傾いたその横顔は、またいつもの彫刻のような冷たさに変わっていった。


「行けよ」

「え……」

「蒼汰が呼んでる」

「……ええ」


うつむいたままそっと立ち上がって、絵梨香はそのひときわ目立つ赤い車に向かう。

その横で蒼汰が荷物を沢山抱えて手を振っていた。


薄い色のサングラスをかけ、気だるそうな零が、大きなストライドで後ろから追い越す。

ほんの一瞬だけこちらを見ると、少し速度を落として、また前を向いたまま声を発した。

「少し眠った方がいい」

「あ……えっと、実はこのまま会社に寄りたくて」

「今日でないとダメなのか」

「あ……やっぱり迷惑かな? でもポンと降ろしてもらったら……」

「電車で帰るつもりか? やめておけ」

「……わかった」

零はそのままいつものようにスタスタ歩き出し、あっという間に赤い車に到達して、無表情で車に乗り込んだ。

返事が聞こえたのかどうかも、わからない。


昨夜、彼は私を階下から運んで、おそらく抱き上げて、そして自室のベッドに寝かしてくれた。

それなのに、お礼も言えていなかった。

それがずっと気がかりで……

ようやく言えたのに……


蒼汰が後部座席のドアを開けてくれた。

絵梨香が車に乗り込むと、零は無言で車を走らせた。


蒼汰はガサガサと土産袋を整理している。

「なあ零、『RUDE BAR』に直行か?」

「ああ、まあ」

「早速捜査会議だな。高倉さん、来るよな?」

「おそらく」

「波瑠さんと高倉さんにもお土産買っといたぞ!」

零は口元だけでふふっと笑った。

「オレも捜査会議、同席させてくれよな?」

「構わないが、疲れてないのか?」

「いくら昨日は深夜まで起きていたとはいえ、お前に比べたらまだ寝てる方だ。だから、大丈夫だよ」

零が蒼汰の方を向いた。

「昨日……深夜まで起きてたのか」

「ああ。なんだよ、そんなに驚くことか? オレだってここぞって時は徹夜してでも仕事する情熱くらい持ってるんだぞ。まあ、おまえほどパーフェクショニストじゃないけどね」

「……そうか」

絵梨香は、その零の反応の意味がわかった。

自分もさっき、テラスで同じ“焦り”を抱いた。

彼のなかにもそんな気持ちが沸くのだと思うと、少し不思議な気持ちになる。


「それでさ零、絵梨香、会社に寄るんだってさ。なんだっけ? この週末の絵梨香の担当の仕事を代わりに請け負ってくれた同僚がいるんだっけ? お土産渡すのか? まぁ、お礼言いに行くんだよな? だからさ零、絵梨香を『ファビュラス』のビルの前で降ろしてやってよ。絵梨香、それでいいんだろ?」

「あ……でも」

ドアミラー越しの零の表情が、少しだけ動いた。 


「分かった」

「え?」

「その代わり、下に車を停めて待ってるから、挨拶したらすぐに降りてこい」

「え……ああ、わかった。ありがとう」


燃え上がるような赤い雲の切れ目が、一面に美しいグラデーションを作り出し、そこからだんだん青紫の闇が空を支配していく。

刻々と暮れゆく変化のスピードは、まるで 自分の中にある揺れ動く気持ちと似ていると思った。


会社に寄ることを許してくれた彼の心の変化を見ようとして、サイドミラーで彼の表情を確認しようとしたが、もうすっかり辺りが暗くなってしまってそれは叶わなかった。


車が『ファビュラス』のあるビルの前に到着した。

「ごめんね、じゃあ少し待ってて。なるべく早く戻ってくるから」

お土産の袋を持って、絵梨香は小走りに建物の中に入って行った。


零は座席の背もたれをグっと倒し、天井を仰ぐ。

「今日も何度となく出たり入ったりして忙しかったのにさ、ずっと運転してもらって悪いな」

蒼汰がそう言って零の右肩を叩いた。

「別に構わない。俺にとっては車の運転自体も気分転換だ」

「昔からそう言ってたな。アメリカでもずっと車、乗り回してたんだろう?」

「ああ。車がないとどこにも行けないからな」

あっち西海岸の道は何もないところをずっとひた走りするから、考え事するのに最適だって、零、よく言ってたもんなあ」

「まあそのおかげで、とんでもない所に迷い込んだこともあったけどな」

「日本じゃそうはいかないだろう?」

「いや、NYよりは遥かにストレスが少ない」

「お前は運転すらもワールドワイドだな。ま、でも今回は出入りも激しかったし、疲れたんじゃないか?」

「まあ、色々あったからな」

そう言って零は頭の下に両腕を組んで、目を閉じた。

「零」

「なんだ」

「貸金庫から帰ってきてから口数が少ないけど、何かあったのか?」

「まあな、そのうち話す。先に近々、うちの親族が集められることになる」

「……そういう話か」


蒼汰はしばらく零の横顔を眺めた。

「弓枝さんからもらった飲み物、まだあるぞ。何か飲むか?」

「いや、いい」

蒼汰がカバンからミネラルウォーターを取り出して、ぐっと飲み干した。

「コレって、“ご当地天然水”だよな?」

「だろうな、そのパッケージだし」

蒼汰が首をひねる。

「どうした」

「いや……昨日さ、静代さんと別れて、零が静代さんを送って行っただろ。オレと絵梨香はそのまま2階に上がってさ、しばらくテラスに出たりしてから部屋に戻ったんだよ。その時はオレも絵梨香も何も持って上がってなかったんだけど」

「それがどうかしたのか」

「今日“蔵”で絵梨香が倒れて、オレが部屋に連れて帰っただろう? その時に絵梨香の部屋の冷蔵庫の中に、このミネラルウォーターのボトルが開栓した状態で入ってたんだよ。残りも少なかった。一体いつ取りに降りたんだろうって……思ってさ」


零は言葉に詰まった。

そのボトルはきっと、昨夜昏睡状態に陥った絵梨香を抱き上げて、零が自室のベッドに寝かせた後、もう一度資料を取りにダイニングに降りた際に、彼女の飲んだボトルも一緒に持って上げて、彼女の眠る枕元に置いておいたものだ。


「なあ、昨日の夜なんだけどさ、零も“蔵”の調査から戻ったあとは起きてたんだろ? 絵梨香も遅くまで起きてたみたいなんだよ。なんか気付かなかったか? いや、ひょっとしてさ、夜中に過呼吸とか起こしてんのに、オレらに気を遣って黙ってるとか、絵梨香なら充分ありうるからさ」


蒼汰の思いが、容赦なく零の心に突き刺さった。

さいなまれる気持ちに目を開く事が出来なかった。

「……まあ、今そんな憶測しても仕方ないか。眠いのに悪いな、話しかけて」

「あ、いや……」

「あ! 絵梨香戻って来た。あれ? 由夏姉ちゃん?」

蒼汰のその言葉に、零はバッと起き上がった。

東雲しののめコーポレーションの自社ビルのエントランスから、2人が歩いて来るのが見える。

零は座席を起こして、窓をオープンした。


「こんばんは。会うのは久しぶりよね。絵梨香が、随分お世話になってるみたいだけど。いつもありがとうね、零くん」

「いえ」

零はうつむき加減に答える。

「これから帰るでしょう? 私も乗せてもらっていいかな?」

「どうぞ」


後部座席に2人が乗り込む。

由夏が前に乗り出して言った。

「なんか蒼汰と会うのも久しぶりって感じするんだけど」

「そうだよ! 喋るのも久しぶりじゃん。由夏姉ちゃん、出張ばっか行ってるからさ」

「ホント最近忙しくて困っちゃうのよ。だから絵梨香のこともほったらかしてさ。だからあなたたちがかまってくれて助かってる」

「もう! 由夏ちゃんたら、子供扱いしないでよ! ちゃんと一人でやってるじゃない」

「あんたはおめでたい子だからね。世間知らずだから正直、危なっかしいわ。君たちが見ててくれるから、安心だけど」

「また。保育園に預ける子供みたい」

「近いものはあるわね」

「由夏ちゃん、ひどい!」


「零くん」

「はい」

「あなたとも、色々話しはしてても会うのは久しぶりだから、改めて言うのはどうかと思ったけど」

由夏は後ろからそっと零の肩に手を置いた。

「西園寺会長のこと、本当に残念だわ。あなたのことだから、事件解明に躍起になってるんでしょうけど、あなた自身は大丈夫なの?」

「ええ。ありがとうございます」


「おばあちゃんと電話で話したの。昨日会ったんだってね?」

「はい」

「あなたがずいぶん立派になったって、感動してたわ。ただやっぱり、おばあちゃんもあなたのことは心配してた。こっちに戻ってきたら戻ってきたで、また警察と一緒に捜査するわけでしょ? 大変よね?」


蒼汰が後ろに向かって言った。

「それはいつもオレも思ってるけど、零はもはや警察にとっても欠かせない存在だからな」

「そうみたいね。だから蒼汰、あんたが全面的にサポートしなさいよ」

「もちろんそのつもりだよ」

「だったら、零くん、絵梨香の事も……」

そう言って、由夏は口をつつしんだ。

「え? なんだよ由夏姉ちゃん、言いかけといて」

「いや、何でもないわ。絵梨香、旅行ボケしてないで、ここに帰ってきたら仕事だけじゃなくて自分の身の回りにも気をつけて過ごさなきゃダメよ。黒い紙がポストに入ってたこと、絶対忘れちゃだめ」

由夏は目に力を込めて絵梨香に言った。

「うん、わかった」

「あ、そうか! 絵梨香は西園寺家にいる方が安全だったんだった!」

蒼汰が頭を抱える。

「零くん、忙しいあなたに、これからもお世話になると思うけど、絵梨香の事、よろしくお願いします」

由夏はそう丁寧に言った。

「ちょっと由夏ちゃん、なんで彼にそんな……」

絵梨香と蒼汰は少し不思議な気持ちになった。

「なあ、由夏姉ちゃんさ、そんなに零と親しかったっけ?」

「え……親しいわよ! どうしてよ、サマコレでもうちの看板モデルやってもらったじゃない。充分、親しいわよ」  

「ふーん。そもそも、零が何でサマコレに出たのかも、大きな謎なんだけどな」

由夏は畳み掛けるように言った。

「まあ、そんなことはいいじゃない! で、君たちは『RUDE BAR』に行くの?」

「そうだよ、あれ? なんで由夏姉ちゃんそんなこと知ってんの?」

「ああ、さっき波瑠くんと電話で話したから」

「え! 由夏姉ちゃん、波瑠さんともそんなに密に連絡取り合ったりしてんの? 知らなかったなぁ」

蒼汰が意味深な笑みを浮かべながら由夏をチラチラ見た。

「もう!蒼汰、そんな過剰反応しないでよ。うちの周辺で通り魔事件があってからは絵梨香のことを心配してくれて、連絡くれるのよ。私も出張が多いしね」

「へぇ、そうなんだ。ハイハイわかりました」

由夏は蒼汰をギロッと睨んだ。


第54話 『暮れゆく空の下で』ー終ー

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