第36話 『主を失った部屋』
零と泰蔵が引き続き話をする中で、席を外すため立ち上がった絵梨香と蒼汰は、弓枝にすすめられたまま部屋を出ると、はす向かいのダイニングに向かった。
「零はすごいなぁ」
蒼汰がしみじみと言った。
「そうねぇ、まあ……いつも無駄のない、なんていうか、尋問……じゃなくて、聞き取り調査?」
蒼汰は首を振る。
「いや、それだけじゃなくてさ、すべてが零のシナリオ通りなんだ……」
「シナリオ通りって? どういうこと?」
「あいつはティーカップに触れるだけで、オレらの退室のタイミング作ったんだよ。オレさ、泰蔵さんに会う前に、零から “カップに触れたら立ち上がれ” って、そう言われてたんだよ」
「え? なにそれ? そうなの?」
「ああ。オレも半信半疑だったんたけど、弓枝さんの行動を完璧に見抜いてたんだな、零は。見事っていうか……」
2人は顔を見合わせてため息をついた。
「よし! じゃあここからは、オレ達のミッションな」
大きな窓の外の噴水を見ながらダイニングに座っていると、弓枝が小振りのケーキスタンドを持って現れた。
「わ! これ」
絵梨香が嬉しさのあまり両手で口を覆う。
「これはオレも知ってるぞ。えっと……」
「ラ・メゾン・デュ・ショコラよ。覚えてる? えりちゃんは旦那様がこれをお土産に買ってきてくださった時は、一際喜んでたわよね?」
弓枝がお茶を注ぎながら話す。
「今でも好きよ! プラリネ」
「絵梨香の好物ですよ。この前ももらって大喜びしてたもんな?」
絵梨香が頷く。
「まあ、そうなの! これはもともと旦那様の好物だったのよ」
「そっか、それで私も好きになったのね……おじいちゃんに教えてもらった味だったんだ」
蒼汰もお茶をすすりながら、一つつまんだ。
弓枝が席につくまで、絵梨香もしばしチョコレートを堪能した。
「弓枝おばさん、私も絹川さんと会場でお話しはしたんだけど、絹川さんってどんな人なの?」
さりげなく、切り出せたと思った。
チョコレートのお陰で。
「そうね。私達とはあまり話さない人だから、一言では言い表しにくいけど……冷静で真面目な感じかしら」
「何年もここに来てるの?」
「そうね、3年目になるかしらね?」
「毎日来ていたんですか?」
「ええ。彼女は通いで、旦那様が外出されない日に来ていたわ」
「私ね『想命館』の打ち合わせで、おじいちゃんと絹川さんに会ったのね。おじいちゃん、そりゃちょっと歳はとったけど、あの頃と全然変わってない感じで…… 実際、介護士って必要だったの? 誰かに付き添ってもらわなきゃならないような風には、全く見えなかったよ。どうして3年前から介護士を?」
「それは私も分からなくてね。もちろん旦那様は介護認定なんて受けてないわ。ある日突然、旦那様が連れていらしたの。もちろん資格免許もある確かな方だから、私たちも疑いもしなかったけど」
「そうなんだ。絹川さんって近くに住んでるの?」
「毎朝早くに来てるから、近くに住んでいらっしゃるんだと思っていたんだけど……実はホテル暮らしだったって、事件の後に聞いたのよ」
「出身とかプライベートな話とか聞いたことある?」
「いいえ、全然。そういうことも話さない人だったわ」
「おじいちゃんとの結婚の話は?」
「それも全く。正直、予想すらしていなくてびっくりしたわ。旦那様と仲睦まじいような光景も見たことがないしね。ただ……」
「ただ?」
「結構な高級車に乗っていて……その車が実は会長が買い与えたと噂になってね。実際そうだったみたいなんだけど。その時は少しアレっと思ったわね」
「そうなんだ」
「さっき薬の話が出ていましたが、誤飲騒動があるまでは、じいさんが薬の管理をしてたんですか?」
「そうなの。絹川さんは主治医の紹介ではないから、その先生とも関わりがなかったので、始めは服用薬の事までは管理はしていなかったわ。でもお薬にはとても詳しい人だから、誤飲があってからは彼女が管理するようになって。それからは、私たちも説明を受けて、何のお薬か把握できていたの」
「薬に詳しいと?」
「ええ。以前、私が頭が痛いと言ったら細かく症状を聞いてくれて、その症状ならこれが合うでしょうって言って、お薬を頂いたことがあるのよ」
「そうなんだ」
「でもね、えりちゃんも気を付けて。若い人はやたらとお薬を服用するでしょ?」
「ええまあ……」
「私も頭痛薬を頂いて飲んだんだけど、最初はよく効いて助かるなと思ってたんだけどね、何回か使ったら、地面が回ったようになって、フラフラで歩けないくらいになっちゃったの。ちゃんと時間も空けてたはずなんだけどね。合わない人がいたり効き過ぎたり、体調にも左右するって、絹川さんは、そう言ってたけれど……私はちょっと怖くなって服用をやめたわ」
ティーカップが空になったタイミングで、廊下から声が聞こえてきた。
零と泰蔵の話が終わったようだ。
それぞれの対話相手とわかれて、3人はまた2階に上がっていく。
「お部屋でも食べてね」と弓枝が絵梨香にチョコをいくつか持たせてくれた。
なにも話さないまま2階に着いた3人は、必然的に零の部屋に入っていった。
コルビジェの白いソファーにどっかと座った蒼汰がぐーんと伸びをした。
「あーオレこういうのは苦手だなぁ。たいした話もしてないのに疲れちまった」
絵梨香がもらったチョコをガラスのテーブルに置いた。
零がいくつかの資料とパソコンをチョコの横に置いた。
絵梨香と蒼汰は、零がそれを口に入れるのを期待して見ていたが、彼は
まず泰蔵や弓枝との会話を再現しながら、それに基づいて零が取ったメモをまとめ、そして絵梨香と蒼汰が弓枝から聞いた話を、零が聞き取ってメモにまとめる。
それらの膨大な付箋メモが、壁面の模造紙に次々と貼られてゆき、時系列とその背景がだんだんとあらわになってきた。
依然として達筆極まりなく、感服してしまう。
「当日8時過ぎから約20分間の、2人の通話について、これはさっき運転手にも話を聞いて裏をとってある」
「いつのまに?」
「お前が伯父と話している間に、蒼汰と2人で運転手に話を聞きに行った」
「そうなんだよ。運転手の話を聞いてから、オレらはダイニングに行ったってわけ」
「へぇ……そういうことね」
それから10分もしないうちに、3人全員が立ち上がり、模造紙の前でその壁面を見入っているに状態になっていた。
零が時計を見上げた。
「そろそろ時間だ。俺は今から 主治医と会う。さすがに同席は無理だろう、専門用語のオンパレードだ。お前たちは寝ちまうだろうから、しばらく休んでてくれ」
絵梨香と蒼汰は顔をあわせて苦笑いした。
3人で廊下に出ると、零は足早に1人階下に降りて行った。
「絵梨香は、これからどうする?」
「私……おじいちゃんの部屋に行ってみたい」
蒼汰も黙って頷いた。
2人でキッチンに行き、弓枝さんに頼んで、章蔵の部屋に案内してもらった。
「一度警察の人が入られているので、私の手でだいたい元の位置に配置しています」
そういいながら2人を案内する。
「えりちゃんが、この部屋に来てくれるなんてね。旦那様がいらしたらどんなにお喜びになったことか」
弓枝は少し感極まったように
「弓枝おばさん……」
「ごめんなさいね、ごゆっくりどうぞ」
章蔵の部屋は、この屋敷の
カーテンを開け放つと、目に見える一面が深緑の息吹をあげているように、生き生きとした自然がすぐそばにあった。
天窓のある一番奥のオープンフラットの寝室だけは洋風で、星や朝日を感じられる作りになっている。
手前の和室は、縁のない畳を使用した純和風の落ち着いた空間で、欄間の組子細工も素晴らしく、壁の竹細工には一輪筒が施されており、真っ白の胡蝶蘭が生けられていた。
まるで
「弓枝さんは毎日、この部屋のお手入れをしているのね」
「そうだな……」
「弓枝さん、気丈に振る舞ってるけど、本当は一番寂しいんだろうな。だって、じいさんと何年、この家に一緒にいたことか」
「そうね。私がここで会った時に、弓枝おばさんが話してくれたことを思い出したわ。私が生まれた年に、弓枝おばさんはここに来たって。そう言ってた」
「じゃあ、じいさんを支えてもう24年だったんだな。それって奥さんが亡くなってすぐじゃないのか?」
「そうなるよね。確か弓枝おばさんには息子さんもいらっしゃるはず……私が小学生だったときに、多分大学生ぐらいの」
「弓枝さんは結婚してたのか? でもここで住み込みだよな」
「うん、旦那さんの話はきいたことがないわ」
「まあ、弓枝さんはずっとじいさんのそばで、何年も何十年もじいさんを支えて来たんだな。それなのにじいさんは、ここ3年ほど出入りした介護士と結婚か。挙句に主を失うなんてな……」
2人は弓枝の先ほどの表情を思い出しながら、彼女の思いに心を寄せた。
第36話 『主を失った部屋』ー終ー
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