第121話 『Fall Into Hell』

ドアを開けるとそこに零がいた。


言葉も交わさずその胸に引き寄せられた。


もう気持ちは止められないと思った。

切なくて泣き出しそうなキスを、全身で感じた。


あの嵐の日を感じさせるような真っ暗な部屋から、カーテンを開け放った窓の外に目をやると、零は彼女の言葉遮るようにその唇を塞いだ。


長く甘いキスのあと、零はさっと絵梨香を抱き上げた。


驚いた絵梨香の潤んだ瞳を捕らえるように、零はその奥まで見据え、そして促すように奥のドアに目線を送った。


そして再び絵梨香の視線を捉え、静かに聞いた。


「いいか?」


絵梨香がが黙って頷くと、抱き上げたまま優しく口づけて、そのまま部屋へと向かい、そのドアを背中て閉めた。


壊れ物でも扱うかのように、そっと絵梨香の身体をベッドに横たえると、零も身を沿わせるように彼女に覆い被さった。


真っ暗な部屋の、窓から洩れる微かな月明かりをたよりに、お互いを見つめ合う。


零の冷たい指が頬に触れ、その大きな手が耳の後ろにスッと差し込まれ、彼女の自由を奪う。

指の一本一本の動きが感じられるほど、熱を帯びた身体を、零はその腕ですくいあげるように引き寄せながら、唇を重ねた。

そしてその唇は、ただただ力強い彼の腕にしがみついて、彼を受け入れる絵梨香の首筋へと降りていく。


彼の吐息を聞き、耳たぶに唇の温度を感じ、首から伝う濡れた冷たい感覚をたどりながら、ポツ、ポツ、という胸のボタンを外す音を数える。

彼の手のひらを素肌に感じ、彼の両手が二の腕を強く掴んだ時、絵梨香は自由になったその手で、初めて彼の髪に触った。

さらっとした柔らかい髪。

いつも果てしなく高いところにあるその頭に、顎を乗せるようにしながら、彼の髪に指をくぐらせた。


そっとその手を彼の背中に滑らせた。

しなやかで冷たいその背中に、熱い絵梨香の手のひらが触れ、抱き締める。


二の腕を掴んだ零の手に力が入ったように思えた。

絵梨香はまた彼の頭に手を置いてそっと撫でる。

熱を帯びた零の指先から痛みに近い感覚が流れた。

さらに加速するその圧力は、痛みと共に零から小さな振動を伝えた。


その手が小刻みに震えていることに気がついた絵梨香は、もう一度零の髪に触れ、その頭を抱き締める。


その時、彼の動きが止まった。


絵梨香の両腕を強く掴む零の腕から、肩に強い力がかかり、絵梨香の身体から唇を離した零が自らの頭を引き剥がすかのように持ち上げた。

絵梨香は驚いて視線の先に彼を探した。

しかし、その表情は髪で隠れて見えなかった。


「レイ……」


彼はなにも言わなかった。

腕を掴んだその指先にはまだ力がこもったままで、小刻みに揺れるような震えが伝わってくる。


「レイ」


何度言っても、彼は動かなかった。

 

「どうしたの? レイ?」


「……だめだ」


微かに見える顎のラインが動いて、絞り出すかのような声が聞こえた。


「レイ、なんて?」


「だめだ、だめなんだ……」


絵梨香はもう一度訪ねた。


「レイ、どうしたの?」


「ヤツを……蒼汰を……裏切れない」


絵梨香は息が止まりそうになった。


「レイ、そんなこと……」


「俺に蒼汰は裏切れない……お前は、あいつの……大事な宝物だ」


「レイ!」


「そんなお前を……汚せない」


「やめて! 私だって蒼汰は大事よ。でも、もう私は……」


「ダメなんだ!」


零はそう叫ぶように言うと、彼女の身体をベッドに押し付けるようにして、一人起き上がった。


「ごめん、ここを……出る」


背中でそう言って零は、ドアに向かって足を踏み出す。


「待って!」


絵梨香の悲痛を帯びたその言葉に一瞬立ち止まるも、零は振り向かず、ジャケットもって部屋から出て行った……


バタンというドアの閉まる音がと共に、耳鳴りのような高い音が絵梨香の頭の中に残る。


「……レイ」


そう口にするだけで、胸がぎゅっと苦しくなった。


息も苦しくなる。

こんなに切ない気持ちは初めてだった。

恐怖に近い、体がバラバラになって宙に浮いてしまっているような感覚だった。


あの背中に走り寄って、彼を止めたかった。

私はもう、目を背けることはできない。


「レイ……あなたは忘れられるの? こんなに2人が求めあっているのに……目を背けられるの」


涙が溢れて止まらなくなった。

胸が痛い……

起こした身体をまたベッドに倒れこませて、絵梨香はシーツを握り締めて泣いた。




「お、蒼汰。もう帰るのか?」


「うん。早く帰らないと、絵梨香が寝ちゃうからね」


そういう蒼汰を、波瑠は優しい眼差しで見た。



蒼汰を今日の夕方も、渚駅にいた。

そして、いつも通りの時間に電車から降りてきた。

絵梨香のあとを、いつものごとく家までつける。

今日はその足で『RUDE BAR』へ行った。

零の家に行って、本人と話して来たことという波瑠への報告もかねて。


絵梨香の退社時間に合わせて早めに行くと、その店主は賄いをご馳走してくれた。


「うまっ! 久しぶりだな、波瑠さんのシーフードピラフ」



「そうだな、ほら、オニオンスープと野菜ディップもな」


「サンキュー」


「で? 零と話したのか?」


「やっぱりバレバレか……」


「まあな。でも零はかなり多忙だって聞いてるぞ」


「それって高倉さんからだろ? 実はオレにも電話がかかってきて」


「そうか」


「あの家まで押しかけちゃったよ。あの豪邸に行ったのなんて何年ぶりか。遭難しかけたけど、まあなんとか零の部屋にたどり着いたよ」


「お前の方から頑張って歩み寄ってやったんだな」

そう言って、波瑠は優しい表情でそうたを見つめた。


「そうなんだよ。でもやっぱりいざとなると、零、からっきしだったよ」


「それも興味深いが、お前の方は大丈夫なのか?」


蒼汰は零とのやり取りを波瑠に話した。

それから、営業時間が始まって夜遅くなるまで、蒼汰はカウンターで思いを馳せながらも、波瑠と意気投合しながら過ごしていた。




じゃあはるさんまた来るね。


「ああ気をつけて帰れよ」


『RUDE BAR』の階段を登りきりドアを大きく開けて、外の空気を吸う。


その時、川から上がってきた車がタイヤの音をならしながら、かなり乱暴に走り去るのが見えた。


車種にもナンバーにも、そして運転手にも……

見覚えがある。


その表情に苦悩が見えて、蒼汰の鼓動が一気にに上がった。


とにかく、急いで絵梨香に電話をした。


電源が入っていないわけではないが 、何度かけても 出なかった。


蒼汰は今上がってきた階段を、また階下に降りた。

驚いた顔をした波瑠に向かっていった。


「波瑠さん、悪いんだけどさー。スマホ貸してくれない?」


半信半疑のままスマホを差し出す波瑠に礼を言って、そこからおもむろに電話をかけた。


たった2コールで彼女は出た。


「……もしもし、はるさん?……」


不安気にそういう絵梨香の声はいつになく怯え、震えているように聞こえた。


「一体何があった? 俺に話せないようなことか?」


「蒼汰……?」


「そうだよ、もっか着信拒否の対象者、江藤蒼汰だ」


黙りこくる絵梨香に向かって、再度言う。


「絵梨香、どうした?」


蒼汰は言った。  

返答がないということは、今は冗談言ってる場合じゃないらしい。


「どうした? 絵梨香、零と、何かあったのか?


絵梨香からは返事もなく、ただただ重い空気だけが、いつもの通話越しに伝わってきた。



第121話 『Fall Into Hell』ー終ー

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