第120話 『Being Waited For』

RRRRR~

電話が鳴った。


「蒼汰。うん、今日はもうお風呂に入ったよ。そうそう。今?『月刊 fabulous』のコラムの執筆。今回はまだ余裕があるうちに着手しておこうと思ってね」


このところ蒼汰は毎日電話をくれていた。


蒼汰が自分と零との事を知ってしまったらどうなるんだろうと、まるで人生が変わってしまうかのような恐怖感があったのが嘘のように、これまでと変わらない対応で、蒼汰は今日も電話をかけてきてくれる。


もちろん、この平穏な日常を形成してくれているのは他ならない蒼汰の器量であって、自分はただ、その優しさに甘えているだけでしかない。


その罪悪感が消えるわけではないけれど、そこで蒼汰を拒否する権限も度胸も、自分にはない。


単に年月だけではない絆が、自分達の中にあるから……


いつもスマホを傍らにおいて、まるでそこに蒼汰が居るかのように、ハンズフリーで他愛もない話をする時間が、絵梨香の長い長い夜の寂しさを軽減してくれていた。


「じゃあ答えて、私が今食べているのはなんでしょう? え、わかんない? さっきからここで料理してたんだからなんとなくわかるでしょ。ん……ブブー! 正解はカルボナーラでした。……え? ダメだよ、パスタだけじゃ正解にはなんないよ。はい、蒼汰の負け。明日は蒼汰のおごりだからね!」


幾分気持ちを上げ目にはしゃぎながらも、時折画面を覗いては、別の通知を探している自分がいる。


零からは、しばらく連絡が来ていなかった。


あの公園で、偶然会った佐川さんが耳に当てていた端末の向こうには、零がいた。

佐川さんから、私たち三人がそこを通りかかったことも、彼はその場で聞いたはずだった。


でもその夜も、翌日も……零から連絡はなかった。


蒼汰と私が話したであろうことも、彼ならばきっと察しているはずなのに……


佐川さんは、捜査が進んで相当忙しいと言っていた。

そう聞くと、余計に彼に連絡できなくなった。

タイミングを失うと、ますます連絡しにくくなって……

もう何日が経つだろう。


今日も蒼汰は零について、その名前すらも一言も発することがなかった。


「じゃあね! バイバイ、おやすみ」


そう言って電話を切った後、頬に残った笑みをすっと消す瞬間が、私を悲しくさせる。



たった数日前なのに、もう何週間も前のことのように思える。


零と見つめあった夜。

その眼差しを思い出すだけで、胸がグッと苦しくなる。


少し肌寒い中で二人寄り添って、見上げた漆黒の海に浮かぶイルミネーションが、瞼の奥に焼き付いている。


その景色を覆い隠すように近づいた彼の頬の温度も、指先の冷たさも、唇の熱さも……

全て覚えている。


あの海の見える思い出のレストランに迎えに来てくれたあの日は素敵なバーにも連れて行ってくれて、二人の思い入れのある曲を聞いた。

ゆらゆら揺れる小さな炎を見つめながら、テーブルの下でつないだ指先にこもった力が、お互いの思いを伝え合っていた。

でも店を後にしてからは……

なぜか帰りがけは零は言葉少なく、その表情は少し固かった。

そして私を置き去りにするかのように部屋に送ると、あっさりと帰ってしまった。


その夜からずっと、声を聞くどころかメッセージすら来ていない。


ずっと考えていた。

何か腑に落ちない、タイミング垣間見た瞬間があった。

いつ、どこで……


あっ、そうだ。


『Moon Drops』で彼は一度、電話を受けて中座した。

その後から少し……変だったような気がした。

オーナーがせっかく私たちのためにピアノを弾いてくれたのに、その目は何か他のことを考えているようなガラス玉のように浮ついていた。


そして彼は家にも上がらずに帰ってしまった。

なんだか慌てた様子にも見えた。


何かあったの……


毎日連絡をくれる蒼汰は、零と話したりしているのだろうか?

連絡を取っているのか、分からない。

蒼汰との会話はごくごく日常的なことで、零の事には一切触れていなかった。

それを蒼汰に聞くわけにもいかず、ただただ 宙に浮いたような時間を過ごしていた。


今日はいつもより囚われている。

限界か、はたまた禁断症状……

いてもたってもいられなくなった。


しばらくスマホとにらめっこしたが、彼に対しての気の利いた言葉もねぎらいも、何も浮かばない。

だから……

たったひとつの、本当のこの気持ちを書いた。


「会いたい」


既読がついた時は、思わず立ち上がってしまう。

でも何も返ってこなかった。


寂しくて、切なくて……

メッセージを送ってしまったことで、余計に時間が経つのが遅く感じられる……


息が苦しくなって、窓のカーテンを開け放った。

嵐の夜に見た夜景より、たくさん明かりが着いているはずなのに、なんだか暗く感じられた。


部屋の明かりを消してその窓に近づく。


パノラマの夜景が広がった。

あの日は、振り向けばすぐそこに彼の眼差しがあった。

彼の息遣いが聞こえるような……

そしてかすかに触れる、胸から長く伸びた腕が私を包み込んだ。


インターホンが鳴った。

こんな時間に誰……

あ……


モニターの前いたのは


「零!」


そう言って玄関に向かう。

心臓が高鳴って、めまいがしそうだった。

彼がインターホンに指を伸ばす前にドアを開けた。


絡んだ視線だけで、お互いの思いが通じ合った。

零は何も言わず、絵梨香の頭に手を伸ばして 強引にその胸に抱いた。

絵梨香もその胸に寄り添う。

彼を感じようとして。

もう気持ちは止められないと思った。

交錯する思いも、すべて彼のものだと実感する。


彼を求める気持ち。

この究極の息苦しさも、背徳感すらも宝石のように輝いて見える。

ずっと待っていたのだろう。

今、目の前にいる彼と、この切なくて泣き出しそうなキスを、全身で感じたいと思った。


「リビング、真っ暗だな。どうした」

カーテンを開け放った窓の側に立った零が言った。


「あの日を……思い出してたの。嵐の日、こうして窓を開け放って外を見てたよね。そして、後ろには、あなたがいて」


「それで?」


「それで……」

すぐ後ろにいた零が、彼女のその言葉を塞いだ。

長く甘いキスを交わす。

潤んだ瞳で見上げる視線をとらえたまま、零はまた屈むように絵梨香の顔に覆い被さる。


「コーヒー、淹れるわね。お腹は? すいてない?」


ダイニングに向かおうとしている絵梨香の手首をとって、零は勢いよく引き寄せた。


第120話 『Being Waited For』

            ー終ー

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る