第33話 『思い出との再会』

かけがえのない思いの詰まった夢から覚めた時、絵梨香は赤い車内に居た。


零に促されて、窓の外に目をやった。

景色は一転して、全面の海。

水面が宝石のように眩い光を放ち、思わず前のめりに窓に顔を寄せた。

美しい……そう思うと同時に、この景色を鮮明に覚えていると確信した。


そう、幼いあの頃に……同じ海を反対方向に走りながら見た、燃えるような夕日を思い出して胸がキュッと苦しくなった、あの日のことを。

  

お兄ちゃん……レイ


運転席に目をやった。

後頭部しか見えない。 

窓の向こうのサイドミラーに、サングラスをかけたクールな顔が映る。


あなたがあのお兄ちゃん……なのよね。

気付いていた筈なのに、今回の事件がなければ、もっと早く話すことができたのに……


それからは、しばらくまじまじとそのサイドミラーを見ていた。

表情のないその顔が、その視線に気付いているかはわからない。 

ただ一度だけ、少し首をかしげ、肩をすくっと上げたように見えた。



再び山道に入ってきた。

絵梨香の祖母の家の近くを通り抜け、西園寺のお屋敷に続く小径に出てきた。

あの時は広いと思った道が、今は車一台がやっと通れるほどの道だと知った。

大きくなるってこういうことなんだ……そう思った。


懐かしい門の前にたどり着く。

ギィーという音とともに、ゆっくり門が開いた。

この門が開くと、当時の絵梨香はかけっこのピストルが鳴ったかのように、全速力でお屋敷の門まで走っていた。

毎日、ここで今日は何があるんだろうと、希望に満ち溢れていた。

そしてその向こうには、西園寺のおじいちゃんの笑顔が待ち構えていた。

いつも両手を広げ、絵梨香を受け止めてくれた、あの優しい笑顔。


そのおじいちゃんは……もうこの世にはいない。

今日もあの笑顔で、抱きしめて欲しかった。

それなのに……

どうして、いないの?

どうして……


「絵梨香、着いたぞ」

蒼汰が明るい声で言った。

まだ夢の続きを見ているかのような、ぼんやりした頭で車を降りる。

同じく車を降りてきた零を、またじっと見てしまう。

その無表情の中に、かつてのお兄ちゃんの面影を探そうとした。


「おい絵梨香。荷物荷物!」

「あ、はい」

車の後方に行こうとした時、零の腕がスッとのびて絵梨香の手首を掴んだ。 

驚いて声も出ず、彼を振り返る。

零は、絵梨香の手を掴んでいるのとは反対の手をポケットに入れて、そこからさっき返却したばかりのハンカチを取り出した。


絵梨香の手のひらにそれを握らせる。

「え?」

零は何も言わず、手首を離すと、絵梨香を追いこして後方に荷物を取りに行った。

半信半疑で頬を触ってハッとした。

泣いていたなんて……気がつかなかった。



西園寺家の大きな玄関に入った瞬間、何もかもが懐かしくて、今にも章蔵が飛び出してくるのではないかと思うほどだった。


「ようこそ、お越しくださいましたね」

そう丁寧に頭を下げる、上品な白髪の女性がいた。

「零様、お久しぶりですね。そちらの方は、零様と一緒に中学生ぐらいの時に来られたお友達ですね」

優しい微笑みを浮かべる。

そして絵梨香の方を見た。

「もしかして……」

絵梨香は頷いた。

「えりちゃんなんですね!」

「弓枝おばさん!」

「まあ……おきれいになられて。よくお顔を見せて下さい」

そう言って弓枝は歩み寄り、絵梨香の手を取った。

「懐かしいわ。あの頃の旦那様は、えりちゃんと遊ぶのを本当に楽しみにしていらしたわね。お会いできて、本当に嬉しいわ」

「私もです」

絵梨香は弓枝の手を握り返した。


「さあ皆さん、お上がりになってください」

「お世話になります」

「昼食をご案内する前に、まずは皆さんお部屋にご案内します。午後から泰蔵様もおいでになります。お話は後ほどゆっくりいたしましょう」


玄関エントランスから見える中世のお城のような大階段は、あの頃と変わりなく、存在感をもってそこにそびえ立っていた。

無邪気な小学生だった頃は、この価値がわからず、階段の中央の手すりに腕を引っ掛けて、滑り台のようにして遊んだ記憶がある。

階段の脇には、当時にはなかったエレベーターが設置されており、それに乗って2階に上がった。


エレベーターの扉が開くと、巨大なサンテラスが視界いっぱいに広がる。

「ここ、すごく覚えてる!」

荷物を広場の端に置いたまま、絵梨香はそちらに向かって走り出した。

「すごい! 変わってない!」

「ほんとだな! 俺もここは覚えてるよ。おいおい絵梨香、小学生に戻ってるぞ!」

絵梨香はちょっと恥ずかしそうに笑うと、荷物のところに戻った。

弓枝が優しい微笑みを浮かべている。

「ではそれぞれのお部屋の鍵をお渡します。そうですね、30分後に下にいらしてくださいね。ダイニングの場所は覚えていらっしゃいますか?」

絵梨香はこっくりと頷いた。


3人はそれぞれ個室に入った。

扉はそのままだったが、中は大幅にリフォームされていて、シャワールームやトイレだけでなく、 冷蔵庫もミニキッチンも付いている。

白を基調としたモダンな空間に大きなツインのベッドとクローゼットがあり、その中にはリネンやバスローブが置かれていた。

ホテルさながらのこのグレードは、そうそうたる来賓を想定して作られているのだということを思い知らされる。

ベッドの奥にあるカーテンを開けると、ゴルフ場と見紛うほどの広大な中庭が広がっている。

ベランダに出てみると、その手すりだけが当時のままで、昔懐かしい記憶を呼び戻してくれた。


「絵梨香」

右隣から声がする。

蒼汰もベランダに出てきていた。

「部屋ん中、すごいな。オレが泊まってた時とはちょっと雰囲気違うけど」

「うん、内装はリフォームされてたね。でもこの手すりは一緒! ねぇ、蒼汰はどれくらい宿泊してたの?」

「そうだな、2週間近くいたと思う。最初の年はさ、この家が広過ぎるからなんか不安で、嫌がる零と同じ部屋に泊めてもらってたんだ」

「そうだったんだ。私は実際ここに泊まったことって数日しかないかな。静代おばあちゃんの家が近くだから、毎日通って来てた。夜遅くまでおじいちゃんと遊んだ日に泊めてもらったくらいかな。その時は、私が眠るまで弓枝おばさんがそばにいてくれたんだ」

「そうだったのか」

「ここに来たら、本当小学生に戻っちゃいそう。楽しくて、あっちこっち見て歩きたい。……でも、1番会いたい人がいない……まだ実感がないの。ご飯食べに下に降りたら、「えりちゃん!」って声かけてくれるような気がして……」

「オレもわかるよそれ……ここは今、家主を失った家なんだな。西園寺家はこれからどうなるんだろう」


零は中庭を背にして、手すりにもたれながら、そっと二人の話を聞いていた。

「じゃあ、荷ほどきが終わったら 下に降りようか」

「そうね」



部屋を出た絵梨香は、再びサンテラスに向かった。

そっと扉を開けて表に出てみる。多くの植物が植えてある花壇を眺めた。


弓枝を手伝って、一緒にスコップを持って花を植え替えたこともある。

夏の間に絵梨香の身長を越した向日葵ひまわりも、ここに植えられていた。

そして隣にはいつも “お兄ちゃん” がいた。


目を閉じると、懐かしいあの日の蝉の声が、今の蝉の声とかぶって聞こえてくる。

小さな自分と、そして小さな男の子、彼が優しい瞳で自分を見てくれている光景が目に浮かぶ。


まさかあの子が……しみじみ思う。

彼は気付いているんだろうか?

あの夏の事を、覚えているのだろうか?


テラスの一番奥に行って、下を見下ろすと噴水がある。

これは昔と同じ景色だった。

でもこうやって覗き込むために、昔は花壇によじ登っていた。

危ないと弓枝おばさんに叱られたことを思い出す。

後ろでガラッと扉が開く音がした。


「そんなに乗り出したら落ちるぞ」

振り向くと零が立っていた。

扉のサッシに頭を打たんばかりの長身になった彼も、昔は小学2年の私と変わらないぐらいチビッ子だった。

「ここはあまり変わってないな」

そう言って手すりに両腕を置き、身を沈めるようにして遠くを見ていた。

絵梨香も手すりの上に組んだ手の上にあごを乗せた。


「このまま……」

「なんだ?」

「このままここで楽しく過ごせたらいいのになって、思って……ずっとここへ来たかった。ようやく来れたの。だから事情聴取とか、そんなことしないで思い出に浸っていたいのに……」

零がそっと絵梨香の方を向いた。


「おじいちゃんに会いたい……」

そう言って、手の甲に額を押し当てて下を向く絵梨香を、零はじっと見つめていた。

絵梨香が一息ついて顔をあげ、零の視線に気付いた。

零は視線をらしながら言った。

「ずっとここにいたら、また虫が飛んでくるぞ」

「そうね」

絵梨香は少し睨んでから、笑った。


部屋から出てきた蒼汰が二人を見つけた。

「おいおいお前ら、そんなとこに真っ昼間からいたら、真っ黒に日焼けしちまうぞ!」

零が中に戻ろうとする。

後ろからついていく絵梨香が叫んだ。

「あ!」

「なんだ? ほらやっぱり虫がいるんだろ?」

「いるけど……これ!」

零は振り返って戻ってきた。

絵梨香が指差す花壇の脇の樹木に、見事な光沢を発した緑が基調の美しい虫がとまっていた。

「ああ……これは、ヤマトタマムシだ」

零の言葉に、絵梨香は言った。

「知ってるわ。だってあなたが教えてくれたんだもの」


絵梨香は手のひらで太陽をさえぎりながら、小走りに建物の中に入り、蒼汰と一緒に階段を降りて行った。


零はしばらくその場に立ち尽くしていた。

「やっぱり……そうだったのか。あの夏の、小さなあの子が……彼女だったか」


第33話 『思い出との再会』ー終ー

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