第32話 『遠い夏の日の思い出』
絵梨香は、零がハンドルを握るそのすぐ後ろの席で揺られながら、親友同士の弾む会話に目を細めていた。
これから向かう西園寺家。
そこに行くのは十数年ぶりになる。
それも子供のころだ。
あどけない少女だったあの頃、感受性を全面に溢れさせ、毎日毎日楽しく過ごした日々を、ぼんやりと思い起こす。
いつしか、少しずつ眠たくなって、シートに身を預けた。
小学校低学年、絵梨香7才の夏だった。
その夏休みは、父方の祖母の静代のところに長期滞在の予定。
母から離れての生活は、半ばホームステイのような冒険の毎日だった。
静代おばあちゃんの邸宅の近所には、おばあちゃんと高校の同級だったという、幼馴染みのおじいちゃんが住んでいた。
これまた果てしなく広く立派な大豪邸、一度およばれに行ってから、すっかりそのおじいちゃんと仲良くなった絵梨香は、しょっちゅう招かれ、そのうち毎日のようにおじいちゃんを訪れるようになった。
自然の真っ只中、おじいちゃんと運転手のおじさんに、色々な所に連れていってもらった。
すぐに手を伸ばせば魚が掴めそうなくらいに澄んだ、滝壺の天然プールでは、足がつかなくても泳げるようになった。
夕方に仕掛けを作って、翌朝早朝にカブトムシやクワガタを捕獲しに行った日もあった。
2泊3日のクルーズの旅は祖母も一緒に招待されて、瀬戸内海を九州まで周遊した。
美しい夕陽に魅せられて、拙いながら大きな絵を描いた。
川にニジマスを釣りに行って、野菜の収穫を手伝って…
楽しい夏の日はあっという間に過ぎていった。
お陰で、小学生になりたての7才にして、母親からも自立できる
翌年からも夏が待ち遠しくて、セミが鳴き出すとソワソワしていた。
一学期の終業式の夜には、もう新幹線に乗っていた。
付き添いで来ていた母が3日程で帰っても、絵梨香はこれから始まる夏への期待に胸を膨らませていた。
ある日、いつものように朝食をとってから、おじいちゃんのお屋敷に向かう小路を歩いていると、お屋敷の方から見慣れない赤の外車がやって来て、絵梨香の横を走り去っていった。
いつものように執事のおじさんに開けてもらった玄関には、絵梨香がすっぽり入ってしまうくらいの大きなカバンがいくつも置いてあった。
「エリちゃん、いらっしゃい!」
いつものように、おじいちゃんが笑顔で迎えてくれた。
「こんにちはおじいちゃん! 今日はなにして遊ぶ?」
「なぁエリちゃん、今日はスペシャルゲストを紹介するよ!」
「スペシャルゲストってなあに?」
「そうだな、エリちゃんの新しい友達だよ」
「友達?!」
おじいちゃんは後ろを向いて奥に声をかけた。
「さあ、こっちにおいで」
大階段の後ろに小さな影が見えた。
「エリちゃん、おじいちゃんの孫を紹介するよ。今日からうちに泊まるんだ。毎日一緒に遊べるぞ! さあ、ご挨拶しなさい」
「えっと……ボクは……」
「あいざわえりかよ! ねぇねぇ、これから毎日遊べるの?」
「え? あ……うん」
「やったー! じゃあ、今から何して遊ぶ? ねぇおじいちゃん、今日は河原でお料理するって言ってたっけ? えっと……はんご……」
「そう、飯ごう炊さん。カレーも作ろう。さあ、さっそく出掛けるとしようか」
最初は少し緊張気味だった彼も、カレーが出来る頃にはすっかり打ち解けて、笑顔で話していた。
「ねぇ、兄弟はいる?」
「うん、兄ちゃんがいる」
「いいなあ」
「兄弟はいないの?」
「うん、私一人っ子だから」
「そうか。じゃあ今日からお兄ちゃんになってあげるよ」
「ホント! いいの?」
「ああ、ボクも妹が欲しかったんだ」
「じゃあ決まり! ここにいる間は、私たち兄妹ね!」
「そうだな。ちゃんと兄貴の言うことは聞けよ」
「お兄ちゃんがしっかりしてたらね!」
「生意気だな」
「ねぇ、名前……なんだっけ?」
「レイ」
二人は兄妹さながらに、幾日も幾日も行動を共にした。
屈託のない 小学生らしい小学生だった 2年生の絵梨香。
そして絵梨香とさほど身長は変わらないが、兄という意識を強くもった4年生のレイ。
レイはそれでも妹の面倒をしっかりみながら、毎日毎日裏山に行っては、山に川に自然と戯れて遊んでいた。
そして夜は、大家族のような大所帯でご飯を食べて、いっぱい笑って……
幸せな夏休みを送っていた。
「ねえねえ、お兄ちゃん明日はどこに行く?」
「そうだな……今日はこの河原まで来たから、明日はこっそり釣竿と網を持って、もう少し上流まで行ってみようか?」
「ああ……楽しみだなぁ!」
翌日は雲行きが怪しかった。
「お天気、悪いけど大丈夫かなぁ?」
「まあ……なんとか雨が降らずに済めばいいな。曇りだから涼しいかもしれないし」
雨が降ってきた。
「どうするお兄ちゃん? もう引き返す?」
「せっかくここまで来たんだ。あともう少しだから、行ってみようよ!」
「あたし、ちょっと疲れたんだけどな」
「そっか、じゃあどっかで休もう」
お地蔵さんの
だんだん雨足が強くなってくる。
レジャーシートをレインコート代わりにして、二人でくるまって雨をしのいだ。
「なかなか
「雨が止むまで待ってられないな。少し小降りになったから、動こう。エリ、立てる?」
「うん。がんばる」
レジャーシートの端と端を持って、二人でマントのようにして、もと来た道を戻っていった。
腕を上げていたせいでバランスを崩したエリは2度も転んだ。
「エリ、ボクが持つから、ここに入って」
レジャーシートをエリカの頭上にかざす。
「……お兄ちゃん、絶対怒られるよね……」
辺りは暗くなってきていた。
暗さよりも、怒られるんじゃないかという恐怖が勝っていた。
レイはしばし黙っていた。
ようやく西園寺のお屋敷にたどり着いた時には、約束の時間を2時間も過ぎていた。
こっぴどく叱られるのかと思いきや、おじいちゃんは持っていた傘を放り投げて、二人に走り寄り、その体を抱きしめた。
「よかった……無事で」
その言葉と、その体の温かさを感じたとき、この人に心配をかけたりしてはいけない、と感じた。
静代おばあちゃんも心配して迎えに来てくれていた。
子供二人、頭を下げて謝った。
レイはもう無茶はしないと約束し、更に静代おばあちゃんには、エリを危険な目にあわせてしまったことを謝った。
おばあちゃんはレイの手を取って言った。
「本当はもっと早く帰れるのに絵梨香にあわせてくれたんでしょ? お兄ちゃんがしっかり面倒をみてくれたんだね、ありがとう」
おばあちゃんはレイの頭を撫でた。
それからは比較的近くで遊ぶようになった。
川に入って魚やヤゴを見つけたり、畑で蝶や珍しい虫を捕まえたり、蝉の羽化に出くわして神秘的な気持ちになったり…
ひまわりと背比べして抜かされたエリをなだめて、草で切った傷も手当てしてくれた。
髪に虫がついたと泣いたら、それを取ってくれた。
畑にトンボが多く舞うようになった頃、絵梨香は家に帰ることになった。
毎日 “明日の約束” をしていたのに、それが出来なくなることなんて、実感がわかなかった。
お互い都会に帰ってからも、何らかの形で連絡を取り合うなんて発想は、幼い二人にはなかった。
帰る前の晩、エリは絵を描いた。
兄妹のように二人いつも一緒に過ごした夏を、切り取って大切に残しておきたくて……
同じ絵を2枚書いて、良くできた方をレイに渡した。
「遊んでくれてありがとう」
仰々しく、そう言って渡したのを覚えている。
「ありがとう。また遊ぼうな、エリ」
「うん、バイバイ。お兄ちゃん」
そう言ってお互い笑って別れた。
帰りの車の中で、海の向こうに夕日が沈んでいくのを見たとき、急に悲しくなって涙が出てきた。
おなかがすいたのだろうと思った両親は、サービスエリアで絵梨香の好きなものを色々買ってくれた。
いつもなら飛び付くような好物のものでも、涙の味しかしなかった。
二学期が始まって、教室の後ろにエリが夏の課題として提出した「里山の生物」というタイトルの展示が貼り出された。
お兄ちゃんと二人で作った力作だった。
この写真のオニヤンマを見つけたとき、お兄ちゃんはすごく喜んでいた。
カエルを捕まえようとして、転びそうになった私を助けようとしたら、お兄ちゃんも一緒に川に落ちて、ずぶ濡れになって……
目を閉じると、いくつもシーンが浮かび、それを見るたびに兄に思いを馳せる日々だった。
何年か経って、それが初恋だと知った。
その後も、西園寺のお屋敷には何度か出向いた。
最初は密かにお屋敷の中にお兄ちゃんの残像を探した。
けれど、優しいおじいちゃんの笑顔の横に 彼の姿はなかった。
それ以来、何度夏がやってきてもお兄ちゃんに会うことはなかった。
そのうち、純粋におじいちゃんに会いに行くようになり、そして夏が来るたびにあの田舎の家に遊びに行っていたことも、いつしか幼い頃の思い出となってエリの胸の奥に眠っていた。
お兄ちゃんのことは、幼い日の公園のブランコのような存在として心の中に溶け込んで、その形を成さないものとなった……
目が覚めた。
一瞬、今何時なのか、ここがどこなのかも、分からなくなっていた。
その心地よい揺れと、ゴーっという車の走行音で、あの赤い車内に居ることを思い出す。
「起きたのか?」
「あ……うん。あれ、蒼汰また寝ちゃってるね」
「ああ、いつものことだ」
「ごめんなさい、あなただって眠いでしょ」
「かまわない。それより、外」
「え? うわぁ!」
さっき展望台から眺めたキラキラした海が、見渡す限りのパノラマで、一面に広がっていた。
「綺麗……」
「ああ」
その声の中に、なにかを見つけようと、記憶を
第32話 『遠い夏の日の思い出』ー終ー
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