第58話 『The Nightmare Destination』
蒼汰が帰ってからも、零と高倉は主に『想命館』の時系列について整理をしながら、意見を出し合った。
絵梨香に忘れ物を届けた蒼汰からメッセージが入る。
「高倉さん、今週末には俺と蒼汰と相澤で『想命館』に行くことになりそうです」
「そうか、よろしく頼むな」
「ですので、明日からは『想命館』のスタッフの個人的な聴取について、もう少し詳しい資料が欲しいのですが」
「了解、明日はそれを持ってくるよ。せっかく君たちに行ってもらうんだからね、入念な聞き込みができるようにしっかり準備して行こう」
客もまばらな時間になり、高倉も波瑠に笑顔でスイーツのお礼を言って、揚々と階段を上って帰って行った。
「ああ零、会議室はそのままにしておいていいぞ。明日も継続して使うだろう?」
「ありがとうございます」
「こっち来て一杯どうだ? 今日は車じゃなくなったんだから、飲めるだろ?」
零はカウンターに座った。
前にロックグラスとチェイサーが置かれた。
波瑠がテーブル席の客の相手をしている間、まん丸の大きな氷をグラスの中で転がしながら、零は一人カウンターに
何も考えないようにと。
そう思いながら挑んだ西園寺家だった。
しかし、それは叶わなかった。
自分が抱いていたものとは大きく食い違った。
亡き祖父章蔵の面影に、柄にもなく心を乱されて大事な事実を見落とすのではないかという懸念は、彼女が“あの子”だったという事実によって、また違う形となって降りかかってきた。
そして、ちょっとした偶然から見つかった 、今後の西園寺家の行く末を揺るがすような大きな事実……
その標的が明らかに自分だったこと。
それらに翻弄され、当初予定していた捜査から、少し外れる形となってしまったこと……
確かに、あそこでの時間は、凝縮された時間だった。
ただ……
「それが、なんだ?」
自分に問いかける。
その事実は一体、どんな影響を及ぼすのか。
その事実によって、何かが歪められるのか。
不安などではない。
何か違った形の概念が、渦巻いている。
しかし、それがなんだかわからない……
探せば、いつか見つかるのかもしれないが、しかしそれは広大な砂漠の中から、ごくわずかな砂金を見つけるような、非効率で確信のない探求……
それが“真の感情”というものなのであるのならば、多くの人間がそれを見つけられないか、又は何かにすり替えて、それを信じて生きているのか?
気付かないまま、死ぬことができるのか?
そもそも知る必要があるのか?
それさえ……
わからない。
世の中には変えられることと、変えられないことがある。
変えられないこと、それはじいさんが死んだという事実。
その真相は、解明したところでじいさんは帰ってこない。それが事実。
それでも俺は、真実を探している。
それこそが“感情”なのか?
いや違う?
ここ何年も多くの事件に携わってきたが、
俺が突き動かされているのは感情ではなく、天命に近いような気がする。
もしそうであるのならば……
今後もそれでいいような気もしてきた。
なぜ人は、その瞬間にある心の中の物を吐露する行為を、称賛するのだろう?
いつまでもそこにあるかどうかも分からない、たったその一瞬の発想かもしれないのに……
世に
しかし中には、その“足枷”を喜んではめる 人間も多く見てきた。
そういった人間は大概、自分のことを“幸せだ”と言う。
分からない。
堂々巡りだ。
大きく息を吐き、カランと氷の音を立てながら最後の一滴を飲み干した時、零の肩に波瑠が手を置いた。
「零、場所を変えようか」
店の鍵を閉めて、大通りを歩き出す。
「いつもこんな時間なんですか?」
「いや、まちまちだな。こんな感じで一人で閉めるとさ、今から電車に乗って帰る気になれないんだよ」
「それで藤田先生の所のマンションを?」
「そうだな。あそこ借りてから、もう何年になるかな? 下手すりゃ月の半分以上はあそこに住んでる」
川に出ると南側からサァーっと風が吹き抜けた。
青々とした桜の葉が、さわさわと乾いた 音を立て、秋が一歩近づいたことを知らせる。
「コンビニに寄ってかなくていいか? ちなみにうちは『RUDE BAR』のパントリーみたいなもんだから、酒もつまみも、しこたまあるぞ!」
高級外車が2台並んだ横を通り抜け、一見ボロアパートの階段を上る。
突き当たりまで進んで波瑠が立ち止まった。
アパートにはそぐわない立派な玄関扉は、ボタン式の暗号キーで解錠する。
ピーピーという音とともに開き、中へ入ると自動でロックされ、センサーで玄関の電気がついた。
そこに広がった空間は、零が予想していたものとは大きくかけ離れたものだった。
白い大理石の床に白を貴重としたファニチャーで、所々に観葉植物もあり、明るくモダンな空間は、少し西園寺家のあの個室にも似ているような気がした。
波瑠が笑った。
「ポーカーフェイスの零でもそんな顔するんだな。意外だったろ? もっとこう、男の一人暮らしっぽい薄暗い部屋を想像したんじゃないか?」
「はい」
「いつもさ、まだ陽が高いうちから薄暗い空間に降りて行くだろ? そんな所から疲れて帰ってきた時は、人間生活において芳しい環境で過ごしたいって思うわけよ。それを追求したらこうなったってわけ。ただ一つ難点は、時間の概念が無茶苦茶になっちまうことだな」
波瑠に促されて、ソファーに座る。
その位置から奥に目をやると、部屋の一角がコンピューターブースと化していた。
ソフトウェア会社の社長でもある零から見れば、それらの機材がどういったレベルのものかは一目でわかる。
「波瑠さん、あれはただの趣味の機材ではありませんね」
「あーそうか、お前が見たら一発でバレちまうな。実は今、設計もやってる。ちなみにここの部屋は俺の設計だ」
「そうだったんですか」
「実は健斗さんに、今後の事として色々提案されてるんだ」
「そういえば『RUDE BAR』は元々は藤田先生がオーナーだったんですね?」
「それを引き継いだんだけど、健斗さんは走り続ける人だから、あの店は誰かに任せて新しい事をしろって。今、経営の勉強もさせられているんだ」
「藤田先生らしいですね。じゃあ波瑠さんも、ゆくゆくは『FMJコーポレーション』に?」
「あんまり先のことは考えてないんだけどな、健斗さんも結婚してから急にまともになっちまって」
2人は笑った。
「俺たちの先生の時は、あんなに破天荒だったのにな」
「そうですね」
「零はあれから健斗さんとあんまり会ってないのか?」
「そうですね。起業する時はよく相談に乗ってもらってたんですけど、その後、お互いにアメリカに行った時期がバラバラで、日本で顔を合わせる機会がほとんどないままだったんで……一度アメリカで会ったことはあります。2人ともお互いにニューヨークにいたことがあったんで……」
「そうだったのか」
「その時に、初めて『ファビラス』の社長のかれんさんにもお会いしました」
「なるほど、その時期な? あの人達も散々俺らを振り回したんだぞ! 心配かけられたよ」
「そうなんですか?」
「ああ、いつも俺とレイラでさ。レイラは面識あるよな? っていうか、今日本でレイラを知らない奴っていないんだっけ?」
「まあ、日本を代表する女優としてハリウッドデビューした人ですから」
「そういえば、お前この前サマコレで一緒だったらしいじゃないか? レイラが零のことやたら褒めてたぞ」
「ろくに話もしてませんけどね。俺も仮面かぶってましたし」
「ははは。 今や女優のレイラも、あの頃は健斗さんの教え子だったからな」
「藤田先生の親戚じゃなかったでしたっけ?」
「そう、親戚にして、かつ帝央大学の学生もしてたってわけ。当時は俺もレイラも若かったからな、人の恋愛に他人がとやかく言ってもしょうがないのに、
「……よく分かりません」
「お前がそう答えるってことは、不自由だってことさ。酔っ払ってるついでに聞くけど、お前がやってる捜査という名の活動は、お前の心をすり減らしているだけじゃないのか? わかるよ、お前は求められてるし信頼もされてる。一見お前の思うように人は動いている。だけど求められているのはお前の頭脳だ。お前自身の、むしろ人間臭くてダメなところを求めて引き出してくれるような、そういう人がお前のそばにいたら、お前は幸せな笑顔を見せるんじゃないのか?」
「すみません波瑠さん。やっぱり俺にはわからないみたいです」
「そうだな、お前はまさに一瞬を生きてる。未来を求めてない。その未来は事件解決っていう未来じゃないぞ。お前が幸せに生きる未来だ。お前は幸せに固執しない。むしろ背を向けてるようにも見えるよ。それはやっぱり、あの事件の……」
「波瑠さん」
「あ! 悪い……飲み過ぎてるみたいだ。零、お前に踏み込みたいためにここに誘ったんじゃない、誤解しないでくれ。今はただお前を休ませたいだけだ。悪かった。シャワー浴びてこいよ。そこの突き当たりだ。服は適当に出しといてやる」
そう言って波瑠は奥の部屋へ行った。
シャワーを熱目に設定して、頭の上から一気に浴びる。
見つめている鏡と両サイドのガラス面が、みるみる蒸気で曇って行く。
まるで自分の頭の中のようだと思った。
この霧が晴れた時、何が見えるのか?
そもそも、この霧は晴れるのか?
頭を振りながら、ひたすら水滴に打たれる音を全身で感じる。
濡れた髪を拭いていると、その手に当たる感触に覚えがあった。
あの時……彼女の髪は湿っていた。
“蔵”から走って雨に濡れた時も、彼女を抱き上げて、部屋のベッドに寝かせた時も……
その冷たい感覚が、まだ手のひらに残っていた。
顔にかかった、彼女のその髪に伸ばそうとした、自分の手。
自分の掌を見つめた瞬間、色々なシーンが頭の中に一気に湧き上がって零を驚かせた。
サービスエリアで髪についた虫を取ってやった手。
サマコレの打ち上げの後に海に向かって 走り出す彼女の肩にジャケットをかけた手。
『想命館』庭園で泣いていた彼女に、西園寺家に到着して車を降りた時に泣いていた彼女に、そっと差し出したハンカチ。
何故かそれらを思い出すと、まるで睡眠に落ちる寸前のようなクラクラした感覚が広がる。
それも頭の中ではなく、胸や背中に……
首にタオルをかけ、鏡を見直した。
ひどく疲れているように見える。
明らかに寝不足だろう。
久しぶりに飲んだ酒にも、すっかり飲まれてしまったらしい。
リビングに戻ると、照明がワントーン落とされていた。
ソファーには タオルケットとクッションが置かれており、テーブルには先程置いていた蒼汰からのお土産の袋の横に、ミネラルウォーターとアルバムが置いてあった。
そっと開くと、そこには今では立派な地位にある人たちの、あどけない顔があった。
この頃はきっと教授だった藤田健斗。
明らかに学生の波瑠とレイラ。
まだ社長ではないかれんと、今や『ファビュラス』の重役である、由香と葉月も、あどけない表情で笑っている。
『FMJコーポレーション』のCEO就任式の時の藤田教授。
『ファビュラス』の株式上場記念パーティーの時の“3トップ”。
健斗とかれんとのアメリカでのツーショット写真。
レイラの女優賞受賞シーン。
そして健斗とかれんの結婚式の写真では、みんなが笑顔で写っている。
こうやって人はみな、時間と状況の経過を経て、現在に至っているのか。
当たり前のことを、ぼんやり考えてみる。
しかし、自分の今が何なのか、ましてや自分の未来とはなにか、やはり全然わからなかった。
ただ少なくとも、波瑠さんは、これを俺に見せることで、何らかのエールが送りたいと思ってくれているのだということは、伝わった。
一番最後のページをめくると、藤田教授と波瑠と自分が、『RUDE BAR』で写っている写真が貼ってあった。
誰かが入口付近の階段の上から撮ったであろうその写真には、突き抜けた笑顔の21歳の自分が写っていた。
本当にそれは自分なのかと、目を疑うような豊かな表情でカメラを捉えている。
その時ふと心の中に、黒い影がやってきた。
「こいつはまだ知らないんだ
この後 どんなことが起きるのか
どんな絶望が この笑顔をなくし
心をズタズタに引き裂くのか」
その瞬間、身に覚えのある感覚が、体の端っこから湧いてきて、蝕んでいくのを感じた。
誰かに首を絞められているような苦しさ……
誰もいないのに、息をしているのに、空気が入ってこない。
生殺しのような苦しさと、血液が沸き立つような衝撃に、身を固くする。
「うっ!」
首元を押さえて床に突っ伏す。
どんな体勢をとっても、苦しさから逃れることができない。
テーブルの上に手を伸ばして、無茶苦茶な手探りで、何かを探す。
土産物の入ったビニール袋に手が触れると、中身を全部振り出して、その袋を口元に当てた。
ここからは もうわかっていた。
終息するのが 時間の問題だということも。
実際この症状に陥るのは、かなり久しぶりだった。
しかし、どれほど苦しいものなのか、思い出した。
音を聞きつけて、波瑠が走り込んできた。
「零! どうした! 大丈夫か、……お前」
倒れたまま袋を口に当てている零を見て、愕然としながらも、その体を抱き起こした。
「零! この症状は……」
「あ……もう……だいぶ良くなって……きました」
「最近、またあるのか?」
「いいえ……数年……ぶりです」
憔悴した表情の零を、波瑠はガバッと抱きしめた。
「すまん! 俺のせいだ! 俺がお前を焚き付けたりしたから……本当に、申し訳ない……」
そういう波瑠の背中を、零は力なくトントンと叩いた。
「大丈夫です……そんな……心配しないでください……この症状で死んだりしません」
「そういうこと言うなよ、本当にごめん! 俺なんかにわかるはずないのに……お前の苦悩が。とんだかいかぶりだった。許してくれ!」
「許すも何も……波瑠さんには、感謝しかないですよ」
「零」
「数年ぶりに、こんなのをぶり返して……一つメリットがあります」
「メリットだって?」
「実は……西園寺家に行った時に、相澤絵梨香がPTSDを起こしました。今朝のことです……彼女が……どれほど苦しいか……その表情を見ても、介抱してても、経験者である俺でも……忘れてたんだと思います……でも思い出しました……これぐらい苦しいことを……これがあいつが味わった苦しみです……忘れないようにします……彼女はまだこの先も、これを経験するかもしれないから……」
「零!」
「眠ることにしますね……昨日もほとんど寝ていないので……」
「分かった」
第58話 『The Nightmare Destination』
ー終ー
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