第129話 『A Terrible Moment』

ダイニングから、絵梨香のすぐそばに歩み寄って来た小田原佳乃に、絹川美保子は目を見張った。


「佳乃ちゃん、あなた……!」


零も息を飲んだ。

その手には出刃包丁が光っていた。

さらに絹川が声を荒げる。


「佳乃ちゃん、気は確か? あなた、自分が何してるか、わかってるの?」


絹川の言葉に、佳乃はくってかかるように言った。


「なんだかんだ言いながら、この子、無傷じゃない! 私は心も体も傷ついてるって言うのにさ、この子はいつも誰かに守られて、心配されて……なんなら事件に巻き込まれたことで、より親密になったりなんかして……そんなの許せない! 私と同じ痛み、受けてもらうからね!」


そう言って佳乃は包丁を改めて持ち直した。


「何する気よ?!」


「そうね……まずはこうかしら!」


「やめろ!」


零が大きく叫ぶ声が響いて、それに反応した佳乃は、画面に目をやって一旦手を止め、そしてクスリと笑った。

そして絵梨香の左腕を、真一文字に切りつけた。


再び零が叫び、絵梨香は力ない唸り声が聞こえた。


「佳乃ちゃん、なんてことするの! ばかね! 鎮痛剤も含めた薬をたくさん投与してるのよ。血が止まりにくくなってるのに……何してくれるの!」


そう言って慌てて止血しようとする絹川の話も聞かず、血がついた包丁を掲げながら佳乃が画面に向かってくる。


「ねえ? どんな気持ち? 愛する人を目の前で傷つけられてるのって。でもね彼女の痛みもあなたの今の胸の歪みなんかよりもね、私の心の方がずっと痛いんだから」


「お前……」


「うわぁ、いい顔! あなたのそんな顔が見たかったのよ!」


「もうやめろ! もう逃げられないんだ、罪を大きくするな」


佳乃は呆れたような表情で笑った。


「やだ、もっともらしいこと言うのね。あなたはただこの女の心配しかしてないんだから、変に説教じみたこと言わないでくれる?」


「やめてくれ……」


「あはは、いい気味! でもね、こんなもんで済むと思っちゃダメよ。今度は……そうね、江藤さんの分の痛みも、彼女に感じてもらおうかな!」


にゃっと笑って佳乃は背を向ける。

「同じところを傷つけてあげるわ。美保子さん、いったい江藤さんのどこを刺したのよ! ああ、太ももだっけ?」


佳乃の肩越しから緊迫した声が聞こえる。


「やめなさい! ここでこれ以上失血させたら、意識がなくなるわよ!」

 

「やめろ!」


その声に、零と高倉は自分たちのいる『RUDE BAR』のカウンターから、入り口のある階段の上を見上げた。


「蒼汰……」

  

その名前を聞いた佳乃が、バッと画面を振り返った。


「えっ? 江藤さん?」


蒼汰は波瑠に体を支えられながら、ゆっくりと階段を降りてきた。


画面の中の佳乃は張り付いて様子を伺っていた。


「お前……傷は」


「こんなもんかすり傷だ、どうでもいい。絵梨香は!」


そう言いながら画面の真正面に蒼汰が立つと、佳乃は頬を紅潮させて画面いっぱいに近付いた。


「江藤さん! 大丈夫? ごめんなさいね。この人があなたのこと刺したりなんかして……傷はどうなの?  立って歩くの大変じゃない? だって包丁が刺さってたわけだし。私、心配で……」


蒼汰はその言葉を遮った。

「そんなことはどうだっていい! お前、何やってるんだ! なんで絵梨香を傷つけたりするんだよ!」


佳乃の表情がぐっと硬直した。


「この女のせいでそんな怪我してるのに……まだかばうの? 痛かったでしょ、この女のせいなのよ。すごく心配したわ江藤さん。会えて嬉しい」


零は画面に向かう蒼汰から視線をはずし、振り返って背後の波瑠を仰いだ。

声を潜めた波瑠が言った。

「ずっと高倉さんからの映像を見てたんだが……言っても聞かないから。分かるだろう? 天海先生には了承を得てきたから」

零と高倉が頷いた。


「今すぐ絵梨香を開放しろ!」


「やだ、ヒーローみたいなセリフ! できれば私の為に言ってほしかったな」


「そんなわけないだろ! 頭おかしいのか」


「江藤さん、せっかくだからお話ししましょうよ。信じてもらえないかもしれないけど、私、本当に江藤さんのことが好きなの。1年以上前なのよ、あなたと出会ったのは」


「えっ?」


蒼汰の反応に佳乃は満足そうに微笑んだ。


「渚駅でね、私がカバンを落として中身をぶちまけちゃった時にね、拾うのを手伝ってくれて……私が持ってた買ったばかりの小説を見て、"あ、これオレも読んだよ、面白かった"っていうから、"こういうの、男性も読むんですね" って言ったら、少し恥ずかしそうに "出版社の人間だから" って、そう言った。覚えてないのね。私はいつでもあなたを探していたし、見つけたら読んだ小説の感想を言おうと思ってた。でもようやく見つけたあなたを真正面から見つめても、あなたは私の前を素通りしたわ。切なかったけど、これから始めればいいって思ってた。私、相澤絵梨香の事はね、前から知ってたの。もう二年くらいになるかな。いつもおしゃれで可愛い服着てる子で、目を引く子だった。電車で一緒になることもよくあった。ある意味この子のファンだったのかなぁとも思うけどね。服装を真似しようと思ったり。そしてある日知ったの、憧れの素敵な男性とこの子が知り合いだったって。最初は彼氏かと思って焦ったけど、その距離感を見たらそうじゃないことはすぐにわかったわ。まあ、まさか親戚だとは思わなかったけどね。こういう子がタイプなのかなと思って、私はそこから更に相澤絵梨香を研究したわ、家のすぐ近くに住んでるのは知ってたけど、私は小さなアパート、この子の後を付けていったらこの辺りでは一番豪勢なこのマンションに住んでることがわかって。一度マンション内にも入ったことあるの。鍵を預かり忘れた知人を装ったら、親切に入れてくれたわ。エレベーターを4階で降りて、それからわざわざ外階段で上ったの。どんなとこに住んでいるか見ようと思って。素敵よね。7階のペントハウスだもん。もう住む世界が違うって感じ。そう思ったら変な気持ちが湧いてきちゃった。この子の身の回りを知れば知るほど 私の中にギスギスした感情が浮上したわ。いつもそばで見てるのに、この子、私にはちっとも気づかなかった。江藤さんと仲良さそうに一緒に歩いてるのも何回も見かけた。『RUDE BAR』にいつも一緒入っていった。私は一歩も足を踏み入れたことがないのに……私みたいな人間は入りにくいところだった。店からあんなに近くに住んでるのに、いつも誰かがこの子の事を送って行くの、楽しく話を弾ませながら。ホント、大事にされててさ。それまではこの子に憧れてたけど、だんだん腹が立ってきて憎むようになった。何も考えず、いつも能天気に幸せで、みんなに愛されて……そして、あの切り付け事件の時、救急車に乗るときに偶然この子が通りかかってさ、嬉しくて笑い出しそうになったわよ。ようやく私を認識する日が来たのかって。そしたら……まるで哀れなものを見るような目で見られた。この子にとって私は知らない人だった。その時も江藤さん、あなたが側にいたわね。そして素敵な男子がもう一人……なんなの? って思った。世の中は不公平よ。でもその背の高いイケメンが捜査に入って来たことで、これで接点ができるって、ワクワクしたわ。私の人生を転落させた田中を始末してやるって、その復讐だけのために生きてきたけど、ターゲットが変わったの。田中なんて、その辺に転がして死ねばいいだけで、この子は私の手でもっと大事に苦しめなきゃって、そう思った。でないと世の中の普通の女性が浮かばれないじゃない? この子みたいな天真爛漫な女の陰に、私みたいなこんなひどい環境で仕事してる女もいるってこと、解らせてやりたかったわ。だからね、この子と一緒に仕事が出来ることになったとき、どれほど嬉しかったか! 運命を感じたわ! この子に触れたり目を合わせたり、一緒にランチしたりして、夢のようだった。何より近くであなたを見られるのが、本当に嬉しかった。でも……あなたのその笑顔がこの女にだけ、向けられていることを……知ってしまった」


佳乃は鋭くなった眼光を画面の向こうに向けた。


「ある日突然、そこにいる長身イケメンが私に立ち塞がった。私は愕然としたわ。いかにもS 型で冷酷、事件に執念のある厄介な男。その男がこの子の事を付け回し始めて、私は一気に動きにくくなった。でも運命ってあるのよね。私はこの計画の中に相澤絵梨香が入ってきたことはもう、心底神のお告げだと思ったわ。この女と友達のフリすることができたのよ。なんか憧れのアイドルと話すみたいな気分だった。そして江藤さん、あなたとも会話ができる間柄になった。嬉しかったな。でも親しくなればなるほど、更に相澤絵梨香の存在が許せなくなった。私の大好きな江藤さんを裏切って、親友のイケメンと楽しいことしちゃってさ! だからお仕置き。この子の苦悩に満ちた顔を見るの、愉快だわ! ああ、そこのイケメン身長の苦悶もね! やだ、江藤さん。そんな顔しないで!  早く傷を治してね!」


「お前……」


言葉を失う蒼汰に向かって、佳乃はバチッとウインクをすると、絵梨香の血で染まった包丁を掲げた。


「ちょうどいいわ! 今からデモンストレーション再開! さっきね、私と同じ傷をつけてやったの。見て!」


佳乃が視界から消えたその先には、左腕を真っ赤に染めた絵梨香が、力なく座らされていて、その傍らの絹川美保子が、忙しそうにその処置に追われていた。


「絵梨香……」


「あれでも私よりずいぶん軽いのよ。今度は江藤さんと同じ痛みを味わわせてあげようと思って! 江藤さん、本当に好きなの。こんな女のために犠牲になるなんて。許せない」


「やめろ!」


佳乃は包丁を持ったまま絵梨香に近付いて、その血だらけの絵梨香の左腕にそっと触れた。


「あのフィクサー、この傷の向きがどうだとか……本当に面倒よね。自分で深く切りつけるのがどれ程大変だったか……聞いてるかしら来栖零さん、あなたには散々振り回されたわね。まあちょっと楽しい時もあったけど。そんなあなたもこの子の事となるとさすがに余裕がないわね。愉快だわ。ねぇ絵梨香さん、起きてよ! あなた、江藤さん裏切って長身イケメンと出来てたでしょ? 私そういうのすごくよく分かるんだよね、どこまでしたのかな……悪い子ね! 私が江藤さんに代わって、成敗してあげる!」


「ばかか! そんなこと望んでるはずないだろ!」


「江藤さん……私だってバカだってわかってるのよ。だから……あのまま放っといてくれたら、私はうまくいけばこの子の親友にでもなって、傷付けずに済んだかもしれないのに……来栖零が……あなた達も、私の過去を暴こうとするからこうなっちゃったのよ。ホント残念! みんながみんな、絵梨香絵梨香って。あなた達みたいな太陽のせいで、私たちみたいな人間は影になるの。どうせわかってもらえなよね……さぁて! どうしようなかぁ……素敵な男たちの苦しむ顔、見たくなっちゃった。簡単よね? この子を傷つければいいんでしょう?」


佳乃が包丁を持った腕を振り上げた。


「やめろ! やめてくれ!」


第129話 『A Terrible Moment』ー終ー

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る