第75話 『偶然とはーCan't be a crime』
"偶然" とは……
絵梨香に借りた傘に当たるポツポツという雨音を聴きながら、零はそんなことに頭を巡らせていた。
彼女と電車での遭遇……
それがなければ『ファンシーショップ』であの
これもまた "偶然"……
ふたりで傘を共有しながら、大通りからまた少し南に下りて、絵梨香を自宅前まで送った。
エントランスのガラス越しに、彼女がエレベーターの中に消えるまで見届けてから、マンションを出る。
この『カサブランカレジデンス』に足を運ぶことになって、もう何ヵ月経ったか……
それもまた、"偶然" から始まった。
街で絵梨香が声をかけてきたことを思い出す。
長きにわたって、それが初対面だと思い込んでいたあの日は……
偶然にも、オーダーしていた服を受け取るために、普段はさほど出掛けない街に出向いた。
偶然にも、行った時間帯が悪かった。
いつになく混雑していたその街に辟易としていたからだろうか、彼女が何を必死で話してるのか、ろくに頭に入ってこなかった。
今思えば、始めからちゃんと聞いてやって、早い段階で『ファビュラス』だと認識出来ていれば、もう少しマシな応対も出来たのかもしれないが……
蒼汰から “親戚にして幼馴染み” というその存在は、まだ子供だった中学生の頃から聞かされていた。
バスケ部の部室でも、蒼汰が持ちかける話題は、大好きなミステリーやトリックに加え、彼女の存在も大きく占めていた。
他の部員たちも、会ったこともないその幼馴染みの話を、まるで小説の一節を読むかのような感覚で、身近に感じながら蒼汰の話に耳を傾けていた。
思春期真っ只中の男子高校生になったチームメイトですらも、蒼汰に対しては、告白しろだのと色めかしく茶化したり出来ないような、その、恋ともまた違う思いの深さを尊重していた。
自分も、昔からよく聞いていた“絵梨香”という名前。
偶然にも、それが西園寺家で共に夏を過ごした“エリ”だとも知らず。
偶然とは……
そんなに落ちているものなのか?
街での再会も。
生前葬での再会も。
あの夜、蔵で会ったことも。
親友の幼馴染みが、自分の幼馴染みでもあったことも。
誰かに仕組まれたわけではない。
では、彼女が襲われたことは?
偶然……いや、それは現実的ではない。
たった一日、監視の目がなかったあの日……
俺以上に彼女の監視をしていたか……
俺の事も知っている誰か……
手を引いている別の人間……
初対面だと思い込んでいたあの日、すでに
ここで人影を確認していたのに……
その時に仕留めていれば……
諸悪においての "偶然" は、あり得ない。
少なくとも、俺は……認めない。
マンションに向かって立ちつくしている零に、背後から声がかけられた。
「零……どうしてここに?」
零は夢から覚めたような顔を向けた。
「蒼汰……」
「どうした? こんなところで突っ立って」
蒼汰は駅の方向から川沿いに上がってきたようだった。
「絵梨香は?」
マンションを見上げながら言った。
「ああ、部屋に上がった」
「一緒だったのか?」
「……ああ。いや、偶然電車の中で会って」
「お前、その……、いや、何でもない。なんだ零、今日は電車で出掛けてたのか? 珍しいな」
「ああ。中央区に行っていた」
「車じゃなくて電車でか?」
「ああ、その方が都合が良かったからな」
「そうか、なんかよく分かんないけど。で? 何でここで考え事をしてるんだ? 偶然こんな所で会うなんて……オレのことを待ってたわけでもないんだろ?」
「……蒼汰、『RUDE BAR』へ行こう。考えを整理したい」
「え? ああ、わかった……っていうか、そのつもりでこうして来てるんだけど……っておい! 聞いてないだろ! 待てよ零!」
先々歩いて大通りに向かう零の背中に向かって、蒼汰は声をあげた。
「ああ、蒸し暑かった! うわ、ここは快適だな……なあ波瑠さん、聞いてよ! コイツってさ、オレの話、全然聞いてないんだぜ!」
波瑠がカウンター越しに笑って迎える。
公園でのあの未遂事件があってから、絵梨香本人もそうだったが、蒼汰も一層明るく振る舞って見せている。
あんな事件に負けたくない気持ち、そしてまるで何もなかったかのように、忘れたいという気持ち……それらが相まって2人をそう動かしていた。
その気持ちが痛いほどわかる波瑠自身も、自分の気持ちの中に沸き上がる怒りを収めながら、彼らを温かく見守っていた。
「そうか? 零はわりとちゃんと蒼汰のお
「ヒドイな! 波瑠さんまでオレをないがしろにする気なの?」
波瑠は笑いながら2人の飲み物を用意する。
「零が蒼汰のお
「ええ、気になることがあって」
「そうなんだ? それはいいけどさぁ、オレのお
「ははは。零、会議室を使うか?」
「いや、波瑠さんにも聞いてもらい事があって……ご迷惑でなければここでもいいですか?」
「ああ、こんな時間から客は来ないし、大歓迎だ。で、何の話なんだ?」
「相澤絵梨香について」
3人はカウンターの奥の方で頭を突き合わせて話し出した。
「じいさんの事件のあと、この店で彼女が泥酔状態になったことを覚えていますか?」
「ああ……あれはさすがに驚いたな……今までそんなこと一回もなかったし。しかもほとんどアルコールも飲んでないに等しい」
「あの時の絵梨香、酔っぱらったみたいな状態だったよな? 精神的に参ってるから、あんなふうになったのかと思ってたんだけど……薬、飲んだよな? カバンから取ってくれって言われて、オレ、絵梨香に渡したけど」
「ああ、あの時アイツが頭痛薬だと言って服用したあの薬は怪しい。いくら酒と同時摂取したとはいえ、普通の頭痛薬であんな症状が起きる訳がない。ただ、注目すべきは、店に入ってきた時点で 既に階段から落ちそうなぐらいフラフラしていた事だ。あくまでも 予想だが、ここに来る数時間前にも1錠服用していたんじゃないかと思う。それで薬が切れかかった時にまた頭痛がしたから、ここでさらに1錠飲んだ。その後はどうだ? 急に復活したみたいに意識もしっかりしてきただろ? おそらく帰宅後は、しばらくしたらまた泥酔したような状態になったんじゃないかと思う。本人に聞く必要はあるが……」
波瑠が神妙な顔をして言った。
「零、まさか……危険な薬なんじゃないよな?」
「実は今回、彼女が入院した際に行った血液検査で『C16H14ClN3O』という成分が検出されたんです。これは依存性もある抗うつ剤として処方されている分野の薬です」
「うつ病の薬? 絵梨香ちゃんが?」
「まあ、じいさんの事もあったし、飲みたくなるのも解るけど……でも絵梨香はここ数年、医者にもかかっていないはずだけどなぁ」
蒼汰が首をかしげる。
「しかも結構な濃度で検出されている」
「精神科に通ってるなんて話、聞いたことないぞ」
「そう、念のため天海先生に頼んで、過去に抗うつ剤を処方された記録をたどってみたが、それもない。よって彼女がこの薬を自力で手に入れることは不可能だ」
「じゃあ……」
「そう、正規に処方されたわけではないということになる。市販薬でも似たものはあるが、濃度が違う。譲渡されたものに間違いないだろう」
「ということは、事件の後に身近な人間が絵梨香に薬を渡したってことなのか?」
「そうだ。それが『C16H14ClN3O』だとしたら……」
「つじつまが合うな。本当に危険な薬じゃないのか?」
「まあ、一般的内科でも処方されている薬だからな、用法さえ守っていれば危険ではないが……ただ問題なのは、事件の後に相澤絵梨香をヒアリングした医師によると、本人はこの日も前日も、薬は一切服用していないと言っていたそうだ」
「は? 飲んでないのに検出されたってことか? それって……」
「知らないうちに飲まされたことになる」
「絵梨香に連絡するよ」
蒼汰がすぐさま電話をかける。
零の頭の中でパズルが徐々に組み上がってくる音がした。
「零、今から絵梨香の家に行こう」
「今から?」
「だって、こんな時間から外出させるのもなんだし、本人も話があるって言うんだよ。いいだろ?」
波瑠が奥から小さな箱を持ってきた。
「絵梨香ちゃん家に行くなら、これを持って行きな。俺からのプレゼントだって、渡しといて」
「さすが波瑠さん、気が利くなぁ! 『Galler』? これなんて読むんだ?」
「ガレー。ベルギーチョコレートだ」
「零、今 “おまえそんなのも知らないのか?” っていう顔で俺のこと見たよな?」
「いや別に……」
「そんなの知らねーよ!」
「それは悪かったな……」
「やっぱり思ったんじゃねーか!」
波瑠が笑っている。
「絵梨香ちゃんによろしくな!」
「ごちそうさまでした波瑠さん」
零と蒼汰は『RUDE BAR』を出る。
ドアを開けた瞬間、また湿度の高い空気が一気に身体に入ってくる。
絵梨香が言っていたように、さっきより少し雨足が強まっていた。
零が水色の傘をさし、蒼汰も後ろから傘をさした。
ポツポツと雨が叩きつけてくる音を、零は不思議な感覚で聞きながら、その傘に目をやる。
「零が傘をさしてるところなんて、何年も見たことがなかったなぁ」
「ああ、そうだな」
「……その傘……」
「ああ、アイツに借りたんだ。ちょうど返せるな」
「そっか、そうだな……」
“駅からふたりで1本の傘を共有したのか”と、さすがにそんな無粋な質問は投げ掛けられなかった。
蒼汰の中で、もうひとつの “借り物” の存在が浮上する。
「……あのハンカチは……」
「ん? なんだ蒼汰? なんか言ったか」
「いや、何も……」
蒼汰は後ろからその傘を見ながら、首を振った。
ほどなく、絵梨香の待つ『カサブランカ・レジデンス』に着いた。
零にとっては、もはや日常的な存在ではあるが、いざエントランスをすり抜けるとなると、また異なった感覚だった。
以前ここに立ち入ったのは、あの“黒い紙”を発見した時だった。
あれは、決して "偶然" なんかじゃない。
犯人の挑発的な行いに、いつになく乗せられている自分がいる。
ーこのまま逃げ切れると思うなよー
蒼白い炎のような感情が胸に灯るのを感じた。
エレベーターの階数表示を見ながら零が言った。
「蒼汰、アイツから残りの薬を回収するんだ、調べるぞ」
「そうだな! わかった」
第75話 『偶然とはーCan't be a crime』
ー終ー
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