第76話 『Be Tossed By Doubts』
『カサブランカ・レジデンス』の7階で降りると、すぐ目の前に絵梨香が住むペントハウスのドアがあった。
「いらっしゃい。どうぞ」
絵梨香がドアを開ける。
「やっぱり雨、ひどくなってるのね。良かったわ、持っていってもらって」
「ああ、ありがとう」
そう言って零は水色の傘を差し出した。
「絵梨香が帰ってきた時って、もう降りだしてた?」
「ああ……まぁ……」
蒼汰の質問に、絵梨香は少し曖昧に答えた。
「遅い時間に悪いな」
零がそう言うと、絵梨香は少しうつむき加減に答えた。
「いいわよ、一人なんだし。入って」
リビングのソファに通された。
「絵梨香、波瑠さんがこれ、絵梨香にって」
蒼汰はそう言ってチョコレートの小箱を差し出した。
「わぁ、『
「いやぁ……女子ってチョコレート1つでそんなにアガるもんなんだなぁと思って……」
「わかってないなぁ、何であるかってことより、まず、手土産を持たせるってことが波瑠さんの粋なところなのよ。それがまして好物だったら、その人の思いを感じるでしょ?」
「はぁ……なるほどね」
「蒼汰もそのくらいのこと出来ないと、モテないよ」
蒼汰は不服そうな顔をしながら、馴れた足取りでソファーに腰を下ろした。
「コーヒー淹れるわ。あなたも座って」
笑いながらそう言って絵梨香はキッチンに立った。
「ねぇ蒼汰、なんか電話で興奮気味だったけど……一体どうしたの?」
蒼汰は気を取り直して話し始めた。
「絵梨香さ、あの薬、もうやめてる?」
「あの薬?」
「ほら、『RUDE BAR』で寝ちゃったことあっただろ?」
「ああ……あの時ね」
「あの緑色の頭痛薬だよ。絵梨香、だいぶんおかしかっただろ? あの薬が原因じゃないかって話してたんだよ」
蒼汰と零の前にコーヒーカップと『Galler』の箱を置くと、絵梨香も彼らの向かい側に座った。
零が膝の上で組んでいた指をほどいて、絵梨香を見据えた。
「あの薬を飲んだ時、一瞬容態が戻っても、その後に更に強い眠気が襲ってきたりしなかったか?」
「え……ええ。そうね、今思えばよけいに眠気が増したかも」
真正面から零と合う目を少し外しながら、絵梨香は答えた。
「私、最初は気付かなくて……弓枝さんにも薬には気をつけなさいって言われて、ようやく薬の弊害でおかしな状態になってるって気付いて……もう辞めてるわよ。頭痛もなくなったし」
「絵梨香、今その薬まだ残ってるか?」
「ええ、あと2錠しかないけど、持ってるわ」
「それ、預からせてもらっていい?」
「別にいいけど」
絵梨香は一旦部屋に戻って、緑色の小さな錠剤の入った透明の分包袋を蒼汰に差し出した。
「それで絵梨香、この薬は誰に貰ったんだ?」
「ああ、これ? 小田原佳乃さんよ」
「え?!」
驚いたのは蒼汰だけだった。
黙って聞いていた零は、俯いてスッと目をつぶる。
「おい零、なんで驚かないんだ? まさか、知ってたのか……」
なにも言わない零に向かって、絵梨香が突っかかるように問う。
「ねぇ、どうしてそうだと思うの? 佳乃さんがなにか?」
「いや……」
「どうせ、また話せないって言うんでしょ?」
「また話せないって? 何のこと?」
蒼汰のその疑問は置き去りに、絵梨香は更に続ける。
「いつも急に突飛な行動して驚かせておいて、それで “どうして?” って聞いたら、すぐ “話せない” って言うよね? びっくりしたんだから、どうしてって聞きたくなるのは当然じゃない!」
「そうだな……すまない」
2人のやり取りを聞いて、蒼汰は呆然としている。
「あの……一体何があったんだ?」
「いいのよ蒼汰、どうせ “話せない” って言われるわよ!」
「絵梨香……」
「いや、話せる時期はもうすぐだ」
「はいはい、分かりました」
蒼汰は溜め息をついた。
「絵梨香、そう言うな。零にはそういう時もあるんだよ。コイツさ、今頭の中で組み立ててるんだ。それがカチッとハマったらちゃんと順序立ててさ、オレらにもわかるように話ししてくれるって!」
「へぇ、随分な信頼関係ね!」
蒼汰は苦笑いした。
「怒んなって絵梨香。それより、この薬さ、預かって成分分析してもらわないとわからないけど、頭痛薬じゃないらしいぞ」
「え? じゃあ何の薬?」
「おそらく抗うつ薬だろう」
零が答えた。
「え! そうだったんだ。……確かに頭痛薬だと言われたわけじゃないわ。頭が割れそうだって私が言ったから、私の状況を見て佳乃さんがくれたとしても、おかしくはないわね」
「一体いつ貰ったんだ?」
絵梨香は、『想命館』で章蔵が亡くなった日の夜中に具合が悪くなったことと、佳乃に助けられて和室で一緒に休んでもらったことを話した。
「そんなことがあったのか……ちゃんと話せよ! 事情はわかったけど、今後は簡単に薬なんて飲んじゃダメだぞ。しかも絵梨香、結構立て続けに飲んでただろう? 意外と依存するタイプなのか?」
「そんなつもりはなかったけど、あの時は頭痛のスパンが短くて……」
零が、錠剤を観察しながら言った。
「多分、ふらつきも突然意識が飛ぶのも、この薬の副作用だったんだろう。『RUDE BAR』に来たとき、既に足元がフラフラしていたのを覚えてるな? 西園寺家でも。ああいう症状が出る、どのくらい前にこの薬を服用したか、覚えてるか?」
「そうね……だいたい20~30分後位だったかな……あんまりよくは覚えて……」
「ストップ! 零、西園寺家でそんなことあったっけ?」
蒼汰のその言葉に零は言葉を詰まらせ、絵梨香も一瞬目を泳がせた。
2人の視線が合う。
「……いや、違ったか……まあ、とにかく、20~30分だな。意識が飛んだ後はしばらく昏睡状態になる……」
零のその言葉に、絵梨香は同調した。
「……そうね」
暫しの沈黙が流れた。
それを破るように零が言った。
「俺は明日、『想命館』に向かう。先に高倉さんと落ち合って、駅前のショップに立ち寄ってから行くつもりだ」
「駅前のショップ? なんの事だ?」
「蒼汰、どうせまた話せないって、言われるわよ。私も驚いたわよ。いきなり駅前のショップに入っていって、警察を連れてくるなんて言って……よくわかんないもの」
「なんだ……それでさっきから怒ってんのか?」
蒼汰はひとつ息をついて言った。
「零、オレも行っていいか?『想命館』に」
「もちろん構わない。夕方なら時間は大丈夫か?」
「ああ、明日は少し早くても大丈夫だ」
蒼汰は絵梨香の方を向いた。
「なぁ、絵梨香も行くのか? この前はそんなこと言ってたけど?」
「うん」
絵梨香は改めて零の方を向いた。
「私も……行っていいかな?」
「……ああ、蒼汰とまとめて迎えに行く」
絵梨香は俯きながらも、ほんの少しホッとしたような顔をした。
「彼女が……小田原佳乃さんが、もし責任感じてたりしたら、悪いなって、思ってて……」
「どういうことだ?」
「話してなかったんだけど……実はね……私が襲われた日は、佳乃さんと一緒に食事に行ってたのよ」
「なんだと!」
零はテーブルに手をついて腰を浮かしかけた。
「その話、警察には!」
「……してない……」
「だろうな! 初耳だ!」
「だって……電車に乗る前の事なんて、警察に聞かれなかったし……」
零は長い足を折り畳むように、ソファに座り直した。
「話してくれ」
「ええ。あの日は夕方になってから急に彼女から電話がかかってきて、食事行かないかって誘われたの。佳乃さんのお家、ここの近所なのよ、大通りからもうちょっと北に入って西に入ったところに住んでるんだって。だから、一緒に帰れるし、少しくらい遅くなってもいいかなと思って、由夏ちゃんにもそう報告はしたんだけど……」
蒼汰が前のめりに絵梨香を見つめながら相づちを打つのとは対照的に、零はなにか考え事でもしているかのように、ソファに深く座ったままだった。
「それで、会社の近くの取引先のレストランに行ったの。そのお店で『ファビュラス』のブライダル班がフェアの撮影してて貸しきりだったから、オーナーに頼んでそこで食事させてもらって。佳乃さんもすごく喜んでくれて。それが、食事が終わった頃に彼女に連絡が入ったの。急な葬儀が入ったって。それで彼女は急遽、『想命館』に行かなきゃいけなくなって……それで私が一人で帰ることになっちゃったの」
「そうか……彼女に迷惑かけたくなかったから、オレにも言わなかったのか?」
「うん……ごめん」
「そうか……」
蒼汰も下を向いた。
「もっと早く蒼汰に連絡しておけば良かったのかもしれない……私が甘かったわ。電車の中で眠たくなっちゃって、危うく寝過ごすところだったの。だからすごく注意散漫だったと思う」
蒼汰がハッとしたように顔を上げた。
零と目を合わせる。
「それであんな事になっちゃって……佳乃さんご近所だから、事件の事がひょっとして耳に入っているかもしれない。もし知ったら、先に帰った自分のこと攻めるかもしれないでしょう? それは嫌なの。だから知ってるかどうかだけでも確かめたいなって思ってたんだけど、でも電話はさすがにしにくくて……」
蒼汰は持ち上げていたコーヒーカップを、乱暴にテーブルに置いて立ち上がると、おもむろに絵梨香の横に座った。
絵梨香が少しびっくりしたように蒼汰を見る。
蒼汰はなにも言わず絵梨香を抱き締めた。
「え? なに? 蒼汰……」
戸惑いながら、零と目が合うと、絵梨香は気まずそうに目を反らし、蒼汰の肩をやんわり押して体を離した。
「やだ……蒼汰、どうしたの? 変よ」
蒼汰はほんの少し笑って見せる絵梨香の両肩をグッと
「絵梨香はなんにも悪くないのに、なんで自分を責めるんだ! それはお前じゃなくて……」
「蒼汰!」
零の静かな声が制した。
「くっそ……とにかく……そんな悲しい顔で笑顔を作るなよ」
そう言ってもとの席に戻ると、冷めたコーヒーを一気にあおった。
絵梨香のマンションを出ると、雨はもうやんでいた。
渚駅までの道々、忌まわしい公園を横目に、2人は思い思いの気持ちを抱えながら歩いていた。
「……絵梨香には言わないのか?」
蒼汰のその問いに、淡々と答えた。
「まだ小田原佳乃のことは全部把握していない」
「なぁ零、小田原佳乃はどんな人間なんだ? 絵梨香の敵なのか? 味方なのか? この公園での事件は関係ないとしても、何か悪意を感じてしまうのは、俺だけか?」
「いや」
零が鋭い視線で前方を見据えたまま言った。
「俺は敵だとしか思っていない」
「なんだって! どうして? さっきの話せないっていう事に関係あるのか?」
「ああ」
「やっぱりそうか……お前がそう言うなら……それで、どうする気だ?」
「明日は裏付けをしに行く」
「何の裏付けだ? 絵梨香も連れていって大丈夫なのか? それは……ああ、また話せないのか?」
「いや、お前になら話せるが、アイツには話せない。ただ、お前に話して、それが隠し通せるか? 仮になんとか相澤絵梨香に悟られないように偽装できたとしても、小田原佳乃の前でお前がポーカーフェイスできるとは思えない。敵意をむき出しにされては、この計画が台無しなんだ」
「……確かにそうかもな」
「アイツは小田原のこと信用している。そして、小田原は信用されてると思ってる。そこを利用するんだ」
「なんだって! 絵梨香をダシに使うつもりか!」
「危険なことはない。しかし、明日連れて行くのはその為だ。アイツだけじゃない、お前だって明日は小田原佳乃に対して好意的な態度で臨んでもらう」
「嘘をつけと?」
「演技をしろと言っている」
蒼汰は深く溜め息をついた。
「表向きは、じいさんの事件を調査する名目で、お前とアイツを補佐として連れて行く。だが俺が調べるのは、その事ではない」
「え……絵梨香の事件と小田原佳乃が関係があるって……そういう事なのか?」
沈黙に耐えられず蒼汰が言った。
「……分かったよ、話せないなら……」
「いや、蒼汰、違う」
「じゃあなんだよ!」
「関係があるのは、この “2つの事件” だ」
蒼汰は息を飲んだ。
「……それは、小田原と絵梨香じゃなく、西園寺家の事件と、って事なのか!」
「そうだ」
蒼汰は見開いた目を零に向けた。
「なんで……」
「まだわからない。結果そうなっただけなのかもしれない」
「オレにはさっぱりだ……分かったよ。零、お前を信じて協力するから、何でも指示してくれ」
「ああ、頼む」
第76話 『Be Tossed By Doubts』
ー終ー
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