第74話 『Found The Piece On A Rainy Day』

絵梨香は『ファビュラスJAPAN』の7階のエレベーターホールにいた。

昨日は、真っ赤な夕日から、目を背けた。

そして今日は……

そのいましめかのようなどんよりした空……

まただ……

またこんな気持ちで、ここに立っているなんて……


皆に心配されながらも、退院した翌日である昨日から出勤した。

同僚達は、事件についてどこまで知っているか判らない。

無駄に明るく振る舞う自分がいる。


皆が出払うと少しホッとしたが、由夏に宣言したにも関わらず、ファッション誌『月刊 fabulous』のエッセイの執筆が全くもってはかどらない。


それもそのはず、ここしばらくは、ろく街にも出ていないので、書けるほどのネタが何もない。

ネットやテレビの情報を羅列したところで、読者の心は動かせない。

また溜め息ひとつ……


それに加え、普通にデスクに座っている最中でも、不意にあの恐怖と痛みが襲ってくる。

何度か息が苦しくなって化粧室に駆け込んだ。


昨日、電車を降りて渚駅を出て、まだ陽の高い大通から桜川を見上げた時、また呼吸が乱れそうになった。

その時と同じ……苦しさ。

死角になって見えなくても、あの公園を意識するだけで、膝がガクンとして、頭から消そうとしているのに闇がどんどん沸いてきて、断片的にあの恐怖がよみがえった。


川沿いの道を上がることを避け、大きく西へ北へと迂回して、マンションにたどり着いた。


ポストを見るのも……

また "黒い紙" が入っているのではと考えてしまい、怖くて素通りする。


昨日まで、家の中でさえ心配して私から離れなかった由夏ちゃんも、今はまたやむなく出張に出ることとなり、ここしばらくは私は独り。

『RUDE BAR』にも行きたいけれど、立ち寄ると帰宅が夜になってしまう。

暗闇を歩きたくなかった。


今日は終業間際に、一度気を失いそうになった……

もちろん由夏ちゃんには言えない。

同僚たちに気付かれていないか……

それが心配だった。


電車に乗るのも、桜川が近づくのも憂鬱だった。



その時……

電車の中に珍しい顔を見つけた。

絵梨香は駆け寄る。



「珍しいね、こんな時間に電車で会うなんて、初めてじゃない?」


電車のドアの閉まるタイミングで声をかけられ、零はその声に驚いて顔を上げた。


「ああ……仕事帰りか?」



不覚だった。

考え事をしていたので、周りが見えていなかった……零はその思いを隠す。



絵梨香は零の隣に腰を下ろしながら言った。


「ええ、あなたは?」


「ああ……ちょっと人に会ってた」


「そうなの?」


しばらく沈黙が流れた。


零は絵梨香に気付かれないように、逆サイドで携帯をチェックする。

由夏からのメールが届いている。

「絵梨香、退社」

時間は10分ほど前だった。


今日もいつものように渚駅で時間を潰し、その姿を確認したら駅から気付かれないように彼女の後ろを付いていく予定だった。


いつものパターンだ。


しかし、今日は思いがけなく早い退社だったようだ。


まあ、それでも絵梨香と乗り合わせていて良かったと、ホッとする。


彼女が先に到着しいて、一人であの町を歩かせることになっていたらと思うと、肝を冷やした。


あんな思いはもうたくさんだ。



渚駅から桜川に渡る前に、絵梨香はいつも自分がそうしているように西へ歩きだした。

零は黙ってその後を付いてくる。


大通り渡る横断歩道で2人並ぶと、絵梨香が切り出した。


「毎日、こうして迂回して帰ってるのよ」


「そうか」

零はそう言っただけだった。


絵梨香はちょっとムッとした。

「普通さぁ……」


「なんだ」


「“へぇそうなんだ” とか、“ちゃんと気を付けてるな” とか……人って成り立つ会話をするもんじゃないの? あなたが言ったのよ、川沿いを歩いて帰らない方がいいって」


零は、絵梨香の言葉に、意外にも少し驚いたような表情を見せて言った。


「……ちゃんと気を付けてるな」


その様子に絵梨香は、なんだか笑いが込み上げてきた。


「なにそれ? ちっとも感情がこもってないじゃない」


絵梨香は自分の足が軽やかになるのを感じた。


信号を渡ったところに最近オープンしたファンシーショップがある。


「あ、新作が出てる! 可愛い!」


ショーケースに張り付く絵梨香を、零は所在なさげに少し離れて見ていた。


絵梨香がバッグの端についているキーホルダーを指差す。

「このクマ、今OLの中で流行ってるのよ。『ジョイフルベア』っていうの! サマーコレクションでもブースに人が殺到してたの、見てない?」


「見てない」


「……あ、そう。確かに会場では見かけなかったわね。ずっと楽屋にいたとか?」


「そう」


やれやれと言ったように溜め息をついた。

「そんなんじゃ、女の子にモテないわよ」


零は面倒くさそうな表情をする。

「そのちっこいクマを知っていればモテると?そんな女こっちから願い下げだ」


「また、すぐそんな言い方するんだから。なにも知らなくてもモテるって自慢でもしてるわけ?」


零は何も答えず溜め息をついて、ショーケースに目をやった。


光沢のある深い青色で両目とボディにも無数のクリスタルをちりばめた小さなキーホルダーに目を留めた。

『一周年記念当店限定ベア11111円、残り8個』と書いてある。


零が突然店の中に入っていった。


「ちょっと! 急にどうしたの!?」

絵梨香も慌てて入った。


「すみません、あのショーケースの限定のキーホルダー、売り出したのはいつからですか?」


店員も、訪れるはずのないジャンルの来客に戸惑いを隠せない様子だった。


その勢いにも押され、慌てて答える。

「えっと……1ヶ月前くらいでしたか……あ、そうだ、定休日明けからだったからちょうど4週間前です」


「限定品の個数は?」


「10個です」


「ずいぶん少ないですね」


「あ、はい。クリスタルをはめこんでいて原価が高くてたくさん作ると赤字になるので」


「そうですか。2個売れたと言うことですが、どんな人が買ったか覚えてませんか?」


「お二人とも私が販売したので覚えています。会員カードもお持ちでしたし、限定品をお買い上げ頂いたお客様には今後もダイレクトメールを送ることになっているので、お名前も連絡先も控えてはいますが……」


「わかりました。個人情報保護のご心配があるでしょうから、近いうちに改めて警察官をつれてお話をうかがいに来ます。何日に購入したのかもわかりますか?」


「は、はい。記載しています」


「わかりました。ありがとうございました」


店員も絵梨香も唖然としている中、零は店を出る。

絵梨香も店員に頭を下げて慌てて店を出た。


「ねぇ、どういうこと? 全く何も見えないんだけど?」


零の大きなストライドに遅れをとらないように必死で付いていきながら絵梨香は聞いた。


「今は話せない」

視線も表情も変えないまま零はそう言った。


「でしょうね! いつもそう! あなたには何でもわかって、私には何もわからない!」


溜め息をついて絵梨香はもう一度彼の顔を仰いだ。

思いがけなく目が合って、少しドキリとしてしまう。


「ピースだ」


「ピース?」


「パズルのピースを集めてる。その重要なピースが一つ見つかったんだ」


絵梨香は自分のカバンに目をやる。

「このジョイフルベアのキーホルダーが?」


「いや、あのネイビーの限定品だ」


絵梨香は首をかしげた。

聞いても理解できないだろうけど、多かれ少なかれ、女性が絡んでいることに間違いはなさそうだ。そう思うとなぜか複雑な心境になった。


絵梨香にとっては毎日のルートである、川よりも西の道に向かって歩きだす。

公園を大きく迂回するように、西の大通りを北上し、上の大通りに出て、東向きに歩くのが、今の通勤路だった。


「遠回りに付き合ってくれなくてもいいのに」


「急いでもないのに、わざわざ道を変えて行くのも不自然だろ。それに……」


零が空を仰いだ。


「やっぱり降りだしたな」


確かに朝から今にも雨が降りそうな空だった。

現に絵梨香は傘を持っている。


零は絵梨香の手からスッと傘を取り上げると、開いて彼女にかざした。


「俺も入れてもらう」


そう言って絵梨香の斜め後ろに立ち、傘を支える。


彼の胸が時折肩に当たり、ドキッとした。

西園寺家の蔵からレジャーシートを被って本館に戻ったあの夜を、思い出す。

まるで子供のように、雨を踏みしめながら走ったこと。

彼の息遣いを感じながら、時折触れる胸や腕に心を揺らされたこと。

零の背中が、ぐっしょりと濡れていて大笑いしたこと。

そして、その優しさを嬉しく思ったことも……


「ねぇ、ちゃんと傘に入ってる? また前みたいにびしょびしょに……」

そういいながら振り向いたとき、思ったよりもずっと近くに零の顔があった。

目と目があって、胸に衝撃が走り、頬が熱くなるのを感じる。


「おっと」


零が絵梨香から目を離し、前方を見た。

前から傘をさしたまま走行している自転車がこっちに向かって来る。

零は傘を持ったまま、空いた手で絵梨香の肩を掴んで道の端に誘導した。


自転車が通りすぎた後もその手は肩に置かれたままで、絵梨香の意識はそこに集中した。


通りすがりのショーウィンドウに映る自分達の姿を盗み見る。


道行く人からはどう見えるだろう……

そんなことを考えた。


目の前にある、傘を支えるもう一方の腕がぎゅっと動くたびに、その男らしいフォルムにドキドキしてしまう。


気が付けばあっという間に『RUDE BAR』が見え、その大通りからまた少し南に下りて、絵梨香のマンション前まで来た。


いつもさいなまれていた憂鬱な気持ちを、今日はひとつも感じないまま、家に辿り着くことが出来た。


「ありがとう」

思わず出た本心の気持ちだった。

エントランスの入口で絵梨香がそう言うと、零は傘をたたんで絵梨香に渡した。


「傘に入れてもらったのは俺の方だ。お陰で濡れずに済んだ」


「ねぇ、本当に傘持ってなかったの?」


零は両手を広げて見せた。

「ああ、このとおり」


「じゃあ降ったらどうするつもりだった?」


「まあ、走ればさほど濡れないだろうと」


絵梨香はフッと笑った。


「なんかおかしいか?」


「うん。他の事には緻密なのに、意外と無頓着な所もあるんだなぁって思って」


絵梨香はまた笑った。


「これから『RUDE BAR』に?」


「ああ、高倉さんが来れないから会議はないけど、会議室でまとめたい資料がある」


「そう。じゃあその傘、持っていって」


「いいよ、近いし。走れば……」


「またそんなこと! 今夜もまだ降り続くみたいだから、帰りも使って! ね?」


「ああ……そうか。じゃあ、借りるよ」


「うん、ありがとう」


「あ、傘、ありがとうな。上がれよ」


「うん」


絵梨香は何度か振り返って手を振った。


零はエントランスのガラス越しに、彼女がエレベーターの中に消えるまで見届けてから、マンションを出た。


傘に当たるポツポツという雨音を聴きながら、マンションに向かって、零はしばらく立ちつくした。


そして、その背後から、声がする。


「零……どうしてここに?」


第74話 『Found The Piece On A Rainy Day』ー終ー

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