第48話 『思い出の場所で』
蒼汰に “蔵” に行きたいと言われた絵梨香は、蒼汰に嘘をつくのが心苦しくなる一方で “彼” 以外とその場所を共有することに抵抗を感じていた。
蒼汰と2人、玄関を回って表へ出る。
昨夜、雨に打たれた黄色いレジャーシートはすっかり乾いた状態で折り畳まれ、玄関の端に置いてあった。
蒼汰に気付かれないように、そっとそれを見た。
昨夜のことがふわっと脳裏に浮かび上がり、胸がコトリと音を立てる。
絵梨香は慌てて、それから目をそらした。
陽の高いうちに“蔵”に向かう道のりは、幼いあの頃と見事にリンクした。
違うのは草木の背丈、いや自分の背丈ぐらいか。
「“離れ”があるってことは、零に聞いて知ってたけど、こんな奥までは来たことないなぁ」
蒼汰が周囲を見回しながら絵梨香と肩を並べる。
幾分言葉少なめに“蔵”の前までやってきた絵梨香は、そのまま右手の横の小道に足を踏み入れようとした。
「あれ絵梨香、この戸が入り口じゃないの?」
蒼汰が引き止めた。
たしかに昨夜は、自分もこの施錠された蔵戸から入ろうとして、様子をうかがっていた。
「ああ……昔はこの横の小さい扉から入ってたから」
「そうなのか、じゃあ行ってみよう」
蒼汰は絵梨香の前に立って砂利の音をさせながら、その小道を入っていた。
左手にある小さな引き戸を指差す。
「これが入り口?」
「ええ……」
蒼汰はガラッと戸を開けた。
「わぁ、広いなあ」
勢いよく入ろうとする蒼汰に思わず言った。
「蒼汰、頭……」
蒼汰は驚いて足を止め、絵梨香を振り返る。
「頭? おお、危ねぇ! 頭打ちそうだったよ」
蒼太の頭の目前に、低くなっている
「これ、零だったら確実にぶつけてるよな! よく覚えてたなぁ、ここの梁が低いって」
絵梨香は焦りを取り繕う。
「ううん、違うよ。今見えただけ……」
「そっか、オレがそそっかしいだけだな」
そう言って蒼汰は、梁を避けて中に入った。
「うわーすごいな! こんな遊び場、いいよなぁ! 小学生だったらたまんないだろうな。絵梨香も懐かしいだろう?」
「うん」
蒼汰はその “秘密基地” に色めき立っている。
作業台周りの
「お! 零が言ってた螺鈿細工って、これじゃない?」
作業台から反対側に回り込んだ蒼汰が、
「でもこれ、何でできてるんだろう? ホント、玉虫の色にすごく似てるよな?」
その時、蒼汰の電話が鳴った。
「あ、零からだ。もしもし、泰蔵さんのところか? うん。え? 何、もう引き上げてくるのか? 早いな。オレと絵梨香さ、今 “蔵” に来てるんだよ。そう、昨日お前があのノートを見つけたっていう。ああ、絵梨香に連れてきてもらったんだ」
絵梨香はその電話を、息を呑みながら聞いていた。
「は? コオリってなんだ? ああ、蓋が螺鈿細工の藤の箱みたいな? うん、あるよ見つけた。え? 中の物? わかった。じゃあこの台の上に全部並べればいいんだな?」
「え?」
絵梨香は驚いた。
「で、お前は? わかった。じゃあここで待ってる」
そう言って蒼汰は電話を切った。
「彼は……何て?」
平然を装い、蒼汰に聞いた。
「この螺鈿のコオリってやつの中身を全部この作業台の上に出してくれってさ」
絵梨香は言葉を失う。
「零も今からこっちに来るってさ。まだ泰蔵さんのところだから、一旦屋敷に車停めてから歩いてくるんじゃないかな?」
「そう」
絵梨香は声を何とか捻出した。
「じゃあ始めよう! オレが中身を出して絵梨香に渡すから、並べていって」
「……分かった」
昨夜、色めき立って眺めていた懐かしい物たちが、どんどん並べられていく。
虫籠に虫眼鏡、ポケットサイズの昆虫図鑑、これらと奥に立て掛けてある虫取り網を持って、レイとよく裏山に行っていた。そこで見つけた植物を持ち帰って、プレパラートをつくり、この顕微鏡を覗き合った。
星座の本を片手に、星座早見板とにらめっこしながら夏の夜空を指差して、同じく奥にビニールをかけられて突っ立っている天体望遠鏡のピント合わせに苦闘した。
万華鏡は絵梨香の手作りで、折り紙やビーズなどを中にいれた。
人形、クイズの本にトランプ.オセロ、これらは雨で外出が出来ない日に重宝した。
本来の目的とは全く違った使い方をしていたストップウォッチは、“どちらがきっかり10秒を測れるか”、または “どれ程息を止めていられるか” に使用された。
そしてクレヨンとスケッチブック、夏の課題の下書き用ノートの中には、当時の最高潮の思いが詰まっている……
どれも目に触れるだけで、それぞれその物にまつわるかつてのエピソードが、事細かに蘇ってくる。
「絵梨香、絵梨香!」
「え?」
「何回か呼んだよ? どうした?」
「ううん。何でもない」
蒼汰は優しく絵梨香を覗き込んだままで、溜め息をついた。
「……またそうやって、誤魔化すの?」
「え……」
蒼汰は、机に並んだものを見渡した。
「ここは絵梨香の特別な場所なんだよな? じいさんとの思い出も溢れてるだろう。それに……零とも。そうだろ? ここへ来てみて解ったよ、神聖な場所なんだな。オレみたいな部外者がさ、違う空気感で立ち入っちゃいけない場所だったんだって。そう思った。ごめんな、絵梨香。ホントは……複雑だったろ?」
「蒼汰……」
絵梨香の罪悪感はさらにその重みを増した。
「……ごめん、蒼汰。そんな風に思わせちゃって。私、色々気持ちの整理がつかなくて混乱もしてて……何て言ったらいいか……ごめん」
言葉より涙が先に出る。
「おい、泣くなよ絵梨香! 何で絵梨香が謝んの。オレの事なんて気遣わなくていいって」
絵梨香は前後不覚のまま、まるで子供のように、何度も「ごめん」と言いながら泣いた。
「あーあ、絵梨香が小学生になっちゃったみたいだ」
絵梨香の頭に蒼汰が手をのばした。
何度もポンポンと手を置いてなだめる。
蒼汰の中にあらゆる思いが巡った。
本当に小学生だったとき、こうして慰めたことがあったのを思い出す。
それから中学生になっても、高校生になっても、変わらず心を許し合っていた2人は、親や友達に話せない事も、あらゆる感情も分かち合い、気付けば小学生の時と全く同じように、いつも絵梨香を慰めていた自分がいた。
絵梨香に恋の悩みを持ちかけられたこともあったし、絵梨香が自分以外の男のものになったこともあった。
絵梨香の笑顔の前で、心が潰れるような苦しみに耐えながら、恋愛相談に乗った時は、その帰り道の公園で数時間一人で頭を抱えたこともあったし、他の男と居るところを目撃してしまった日は、自分の限界を目指して走り続け、ぶっ倒れたこともあった。
大人になってからも一度……
散々酒をあおった挙げ句、酔いつぶれて、気が付けば、ちょうど帰国して日本にいた零の部屋で目を覚ましたこともあった。
零とどうやって落ち合ったかも、零に自分が何を言ったかも、なにも覚えていなかったし、零も何も言わなかった。
その時決めた。
これから何があっても、絵梨香のそばで彼女を見守ると。
今、目の前にいる絵梨香の涙の真相が、解らない。
ただただ儚げなその華奢な肩を見つめていると、いつになくざわめく自分がいた。
蒼汰は、泣き止まない絵梨香にあげていたその手で、彼女の頭をぐっと引き寄せ、そっと胸に抱いた。
優しく撫でるように彼女の髪に触れると、今までにない感情が沸き上がって、蒼汰の鼓動を更に早くする。
そしてそこに彼女の額が当たり、それをも共有している。
彼女の背中に手を回すと、自分の中の気持ちが増幅するのを感じ、指先に力が入る。
絵梨香にこんなことをするのは、初めてだった。
彼女を混乱させると知っていたから。
しかし……
もう手放せなくなるような恐怖心と戦いながら、蒼汰はただ胸の中に彼女を感じた。
「蒼汰」
その声に我に返る。
「絵梨香……ごめん」
「蒼汰……苦しい……」
「えっ?」
蒼汰は絵梨香を抱いていた両手をほどくと彼女の両耳に当てて、その顔を上げさせた。
絵梨香の頭は力なくグラッと後ろにのけぞりそうになり、荒い呼吸と共に苦悶の表情を浮かべる。
この症状を見たことがあった。
数年前だ。
それは絵梨香ではなく、零だった。
あの頃、何度となくこの現象に遭遇し、その度に親友が死ぬのではないかと心底心配した記憶が、絵梨香の顔にオーバーラップした。
「絵梨香! ダメだ、そんなに激しく息をしたら……」
蒼汰は絵梨香を支えながら、零に電話しようとした。
「絵梨香! しっかりして! 今零を呼ぶから……」
携帯電話が手から滑り落ちる。
その時、蔵の入り口から零が走り込んできた。
「どうしたんだ!」
「零! 見てくれ、この症状はあの時のお前の……」
「ああ、過換気だ。蒼汰、ゆっくり声をかけながら口を押さえろ」
零はなにかを探すように、辺りを見回している。
「何もないな……」
そう言った後、何かに気付いたように、パンツのバックポケットに手を入れた。
そこから取り出した、袋のようなものを持って、零は近付いてきた。
「それ、なんだ? ビニール袋を使うのは危険なんじゃないのか?」
「ああ、普通ならな。俺は年季が違う」
そう言って零は、おもむろに絵梨香の口に袋を当てた。
呼吸を数えて、しばらくすると外してを繰り返す。
「目をつぶるな。自分の内側に
絵梨香はその零の言葉に、必死に目を開ける。
この場所で、すぐ近くで、2人の顔が並んでいることも、零の冷たい指先が頬に触れる瞬間の優しい感覚も、それを見守る蒼汰の切ない表情も、すべてが絵梨香を迷いの縁に押し戻す。
また心臓がグッと持ち上げられるような感覚が起きて目をつぶる。
「ここじゃダメだ。部屋へ連れていこう。蒼汰、抱き上げられるか?」
「ああ」
蒼汰は零を見て、頷いた。
「絵梨香、部屋に戻ろうか。大丈夫だよ、もうすぐ良くなるからな」
蒼汰はそう言って絵梨香の頭をもう一度撫でる。
そしてその身体をさっと持ち上げ、蔵を出た。
日差しの眩しくて、目の奥に痛みを感じる。
蒼汰は絵梨香の頭を自分の肩にもたれさせるようにして、その視界を遮る。
「弓枝さんには……」
「ああ、わかってる。心配かけたくないんだよな? そっと上がろう」
玄関からすぐにエレベーターに乗り込んで、絵梨香の部屋に向かった。
ベッドに寝かされて、零が自室から持ってきたペーパーバックで何度か呼吸の調整を施された。
「いつからだ」
零が絵梨香の手首を取って、脈を見ながら静かに聞いた。
「あ……想命館のあの夜に……部屋に戻ったら……」
また少し鼓動が上がる。
「わかった、もういい。何も考えないで休め」
そう言って零は絵梨香の元を離れた。
「蒼汰、俺は蔵を片付けてくる。付いててやれ」
「ああ。……なぁ零、あの螺鈿の箱の中身を出させたのは……」
「後で説明する」
「わかった」
零は部屋を後にした。
第48話 『思い出の場所で』
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