第49話 『思いやる心』
目が覚めた。
今度は……カーテンが開け放れていて、明るい日差しがベランダを縁取っている。
今は……昼間のようだ。
絵梨香は体を起こして、辺りを見回した。
ソファーの横に、今朝になって慌てて詰め込んだキャリアカートがあった。
私の部屋だ。
誰もいない。
額に手をやると、びっしり汗をかいていた。
服を着たままベッドに入っている自分見ながら、どうしてここにいるのか頭を巡らせる。
サイドテーブルには、くしゃくしゃになったペーパーバッグと、その横には、零にハンカチを返した時に、そのハンカチを入れていた小さなジッパーバックが置かれていた。
それらが自分の枕元に置かれてるいる理由を、思い出した。
そう、“蔵” に行ったのだ。
その時の思い、うまく繕えない不甲斐なさ、そして蒼汰の優しさに対する罪悪感……
全部思い出した。
過呼吸を起こしたことも。
それらが蘇った瞬間、体が緊張するのがわかった。
またあの時のような苦しみが襲ってきそうで怖くなる。
あの時……
色々な気持ちが交錯して、頭がぐちゃぐちゃになって……
色々なシーンが浮かんだ。
幼かったあの日の私たちの姿から、あの想命館での……
そして昨日の、あの"蔵"での気持ち……
秘密を持つことの息苦しさと、なにも知らずに優しく接してくれる蒼汰の介入を拒んだ自分が許せなくて、申し訳なくて涙か止まらなくなった。
しかし……
絵梨香の鼓動が音を立てる。
蒼汰は、いつもの蒼汰じゃなかった。
いつも助けてくれる蒼汰、でもあの時の蒼汰は……
蒼汰は自分を抱き寄せた。
その腕は強引なほど強く、頭を支える指先にも力を感じた。
薄いシャツから伝わってくるその胸は、思っていたよりもずっと広くて、固く、彼の鼓動と体温が、自分の知る蒼汰のものとは思えなかった。
そして、男の人の匂いがした。
抱き締められている相手が、本当に蒼汰なのかと戸惑って複雑な思いに支配されていたその時、彼の腕の間から黄色い物が目に入った。
"蔵"の入り口の足元に置かれていた黄色いレジャーシートは、確かに屋敷の玄関先にあったはずだった。
それがそこに置いてあるのは、そこに一度零が足を踏み入れたことを意味する。
この状況を見られたと、そう思った。
その時だった。
急に体の中に息が入ってこないような感覚に陥ったのは。
そこからはもう意識が混濁して、窒息させられるような物理的苦痛しかなかった。
次に目を開けた時は、目の前に零と蒼汰、2人の顔があり、さらに深い井戸の底に引きずり込まれるような気持ちに陥ったのだった。
絵梨香は頭を抱えてぎゅっと目をつぶった。
また心臓が音を立て始める。
「絵梨香、目が覚めたのか?」
「蒼汰………」
ドアが開いて、聞こえたその穏やかな声に救われた。
「気分は?」
「うん、大丈夫。……ありがとう蒼汰。"蔵"からここまで……連れてきてくれたんだよね。重たかったでしょ」
蒼汰は、うつむき加減でそう言う絵梨香の前に回り込んだ。
ベッドに腰を下ろして、覗き込むように絵梨香を見る。
「まあね。ああ……痛てて! お陰でもう腕が上がらなくなっちゃったよ」
「え?」
顔を上げた絵梨香に、蒼汰は大袈裟に腕を回して見せて、笑った。
「ひどい!」
「ははは、ウソウソ! 羽のように軽かったよ。もう何にも持ち上げてないくらいに!」
「そこまで言っちゃうと白々しいじゃない」
「そうだな」
いつもの蒼汰の笑顔だった。
絵梨香を優しく見つめながら、伸ばしかけた手を膝の上にスッと戻して、立ち上がった。
「汗かいてるなぁ、とりあえず水分摂っとかないとな」
蒼汰がミネラルウォーターを取りにテーブルの方に歩きだし、開けようとそのキャップに手をかけた。
「あ、待って、昨日の残りがまだ冷蔵庫に入ってるわ」
「昨日?」
蒼汰は冷蔵庫を覗いた。
そこには空っぽのウォーターピッチャーと、そのとなりには、残り1/3ほどの同じパッケージのミネラルウォーターがあった。
蒼汰はそれを取って絵梨香に渡してやる。
「絵梨香、これ、いつもらったんだ?」
気軽に聞いたその質問に、絵梨香は過剰な反応を見せた。
「どうした? 絵梨香、変だよ。まだなんかオレに気を使ってるの?」
蒼汰は再びベッドに腰かけた。
「ううん。そんなことない」
「だったらいいけどさ、ちょっと気持ちをほぐした方がいいよ。ここに来たら尚更、色々思うことがあるろうけど、気持ちをフラットにして、それこそ深呼吸しないとさ、また苦しい目にあうよ」
「ごめん、心配ばっかりかけて」
「だから、謝らなくたっていいんだって。そう思うんだったらさ、早く楽になってよ」
そう言ってまた立ち上がる。
「いっぱい汗かいたんだし、今度は脱水症状になるぞ。まずはそれを飲み干して」
そう言いながら、未開封のボトルをサイドテーブルに置いた。
「オレ、ちょっとここ離れるけど、絵梨香一人で大丈夫か?」
「ええ、大丈夫」
絵梨香はそう言って笑って見せた。
「じゃあ、もし何かあったら電話してくれな!」
そうと蒼汰は、手を振りながらドアを閉めた。
きっと蒼汰は“蔵”に向かったのだと思った。
混沌とした記憶の中で、零が“蔵”に行くと言っていた言葉が浮かんだ。
たしか蒼汰も"後から来てくれ"と、零にそう言われていたはずだった。
でも。
蒼汰はそれを言わなかった。
私がさっき、変なリアクションをしてしまったから?
それとも……気付いてしまったんだろうか?
私が昨夜、部屋を空けていたことを。
それとも単に、また具合が悪くなると思っての配慮だったのか……
蒼汰は"蔵" の前に立って、小さな南京錠で施錠された蔵戸に目をやった。
なにも確認しないまま、躊躇なく横の小道に向かった絵梨香を思い出す。
その小道を通り、中に入ると、零は作業台に腰掛けながら電話で話していた。
その内容から、その相手が、昨日聞いた静代の甥の“佐久間洋平”弁護士だと推察できた。
「こっちに来るって?」
電話を切った零に、そう聞いた。
「ああ、1時間後にな」
作業台には、さっき絵梨香が並べたままの、数々の思い出が広げられていた。
それらに目をやりながら零が聞いた。
「あいつは?」
「ああ、目を覚ましたよ」
「容態は?」
「額に汗びっしりだったから、良好ってわけでもないだろうけど、落ち着いてはきてたよ。とにかく水分を摂らせた」
「そうか……ついててやらなくて、いいのか?」
「なんで……そう思うんだ?」
蒼汰のその言葉に、零は台の上のノートに伸ばしかけた手を止め、顔をあげた。
「蒼汰……」
「零、お前さ、さっきホントは一回ここに……」
そう言ってから、零の返事を待たずに重ねる。
「いや……何でもない。ああ、絵梨香が呼吸困難になってたあの時、咄嗟に零に電話しようって思ったんだよ。そしたら、携帯落っことしちまってさ、焦ってたら零が走って来たから。近くに居たのかなと思って」
「あ、いや、ちょうど到着したところだった」
「そうか」
蒼汰は少し俯いた。
「それはオレも運が良かったな。絵梨香を支えてるから、落ちた携帯に手が伸ばせなくてさ。零が駆けつけてくれて助かったよ」
「そうか」
「ああ。あのまま放置されてたらオレもパニックになっちまってたかもな」
蒼汰は首をすくめた。
「それまであいつには変わった様子はなかったのか?」
「変わった様子といえば、そもそもあんな風に寝坊してくること自体、珍しいと思ったけどな」
「そうか」
「"蔵"に行く前、なんとなく元気がなかったから本人に聞いたんだ。そしたら、夜中に電気つけたままうたた寝してたみたいで。だからあんまりちゃんと眠れてないのかもしれないけどな。あとさ……」
「なんだ」
蒼汰は作業台の上を見渡した。
「これ並べたの、絵梨香なんだよ。オレがこうやって、螺鈿の箱から取り出してさ、絵梨香に手渡して、あいつが並べていくんだけど、16年ぶりに当時の自分たちが使ってたおもちゃを見たらさ、普通は感嘆の言葉が漏れたりするだろ? 特に絵梨香みたいなタイプだったらさ、"懐かしい!"って言って、もっと盛り上がるもんかと思ったんだよ。なのに淡々と並べていくんだ。オレ思ったんだよね。ここは絵梨香にとって神聖な場所だったんじゃないかって。じいさんとの思い出と、それから小さい時のお前と絵梨香の思い出が詰まった、いわゆる聖域なんじゃないかって。なのにオレは好奇心からズカズカ踏み込んで来ちまった。すごく申し訳ない気持ちになって絵梨香に謝ったんだよ。そしたら急に泣き出して。わかんねえけど何度も何度も謝るんだ。なんか子供に戻ったみたいに泣きじゃくるからさ。そしたら息遣いがおかしくなってきて……」
「そうか」
「零」
「なんだ」
「絵梨香が過呼吸になった顔見てさ、オレ、あの時のお前の顔を思い出したんだ。お前さ、何度もあんな顔して倒れたんだ。その度にオレは、お前が死んじまうんじゃないかって、本気で怖いと思った。その時のお前と絵梨香が同じ顔をしたから、体が震えちまって。どんな処置をするべきかなんて、分からなくなってさ。もうお前を呼ぶしかないって、思ったんだ」
「俺は生きてるじゃないか。死なない病だって、知ってるだろう?」
「お前、よく言ってたよな。“死ぬほど苦しいからいっそのこと死んでしまいたいぐらいなのに、死ねないんだ”って。それ聞くたびに、オレは悲しかったし、悔しかった。お前をこんな風にしたあの事件が、心の底から憎かったよ。でもお前の苦しみや憤りを思えば、オレのそんな思いなんか何の意味も持たないと思って、とにかくオレは、何もできないけどお前のそばにいてお前を見てようって、そう思ったんだ」
「蒼汰……」
「なあ零、ひょっとして、今も続いてるのか?」
「いや」
「絵梨香があんな状態になってる時も、お前は冷静に対処してた。言ったんだ、“年季が違う”ってさ。しかもお前が部屋から取ってきたあのペーパーバック。今もあの時みたいにいつも持ち歩いてるってことだろう?」
「あ、あれは、いわゆる“お守り”みたいなもんだ。ここ数年発作的なものは起きてない」
「本当か? じいさんが亡くなった、あの日も……か?」
「ああ。さすがにヤバかったけどな」
「だろうな。……ひょっとして絵梨香は、あの時のお前みたいな心の傷を負ってしまったってことなのか?」
蒼汰は何度か自分の膝を叩いて、憤りをあらわにした。
「なあ零、お前はさあ、なんでも一人で解決しようとするだろう? そりゃ何でも解決できる来栖零だけど、せめてお前自身の事はさ、オレにも共有させてくれよ。もう1人で苦しんだりしないで欲しいんだよ。役に立たなくたってさ、オレ、お前の親友としてそばにいるからさ。オレがいる意味を、オレ自身にも分からせてくれ」
「ああ、頼りにしてるよ」
零は絵梨香の苦しみの意図が解ったような気がした。
今、自分が蒼汰に抱いている背徳感と同じような気持ちが、彼女に重圧を与え、それが引き金となってパニックを起こしたのかもしれない。そう思った。
第49話 『思いやる心』ー終ー
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