第98話 『心暖まる策略』

午後イチから始まっていた捜査会議は一旦解散となり、次は夜にまた再開されることになっていた。


零は依然、席を立つ気配がなく、大量に山積みされた調書をひたすら読み漁り、そこに筆を入れている。


出張先から心配して連絡してきた蒼汰に、なんとか対処するから、任せてくれと言った高倉の頭には一つの案があり、その片棒を担いでもらう為に、波瑠に電話をかけた。




今日もまた、陽の高いうちに退社する。

絵梨香は眩しい顔をしながら、その頬に太陽の光を受けた。


でも。


以前とは、違って、足が軽い。

後ろを向かず、歩けるようになった気がする。


なぜ?


犯人がもう自分の前に出没しないと思うから?


違う。


昨日……

彼から、命をもらったような……

そんな気持ちになったから……



あれほどまでにして、私を救ってくれた。

彼のあの目が、腕が、指が、唇……

ほとばしるような、生気せいきと、

胸の高鳴り……

彼の鼓動が、今も耳に残っている。

そして、私に前を向かせてくれる。



絵梨香が会社を出て、駅の方向にワンブロック歩いたところで、後ろから軽くクラクションが鳴らされた。


「あ、高倉さん!」


「偶然だなぁ! 相澤さん、今仕事の帰り?」


「はい」


「元気そうだ。良かった! 昨日はありがとうね。ねぇ相澤さん、良かったら乗らない? これから何か用事でも?」


「いえ。あ、じゃあ、お言葉に甘えて。お邪魔します」


高倉は饒舌に話す。


「あれから体調は大丈夫?」


「ええ、大丈夫です」


「もう出勤してたんだね? 今日くらい休んでも良かったんじゃないのか?」


「いえ……こんなこと言ったら、また蒼汰に怒られちゃうかもしれませんけど、なんか……慣れちゃって」


「え? 慣れちゃってって? はは、そりゃ確かに江藤くんが聞いたら、怒り出しそうだけどね。どういうこと?」


「過呼吸って、本当に一時的なものなんですよ。特に自分と向き合った閉鎖的な空間で起こりやすいっていうか……症状がない時は本当になんともなくって、でもあったら死にそうなんですけどね。だから、あえて普通の生活をするようにしようって、思って。その方がいいってわかったので。そういう意味でも過呼吸なんかに負けてられないんで、私なりの反骨精神でやってます」


「頼もしいな! 今の零くんに聞かせてやりたいよ。彼はホントに……全く……」


「え? どうしたんですか?」


高倉は少し下を向いて、口角が上がるのを隠した。

少し神妙な顔を作って、顔を上げる。


「彼のことだから……わかるだろう? 捜査に没頭したら食事もろくに取らないんだよ。何とかしてほしいなと思って、俺も再三、言ってはいるんだけど、全然聞いてくれなくてさ……相澤さん、何かいい方法ないかな?」




捜査本部では、時折ホワイトボードを眺めては、また調書に目をやる零を、佐川がじっと見ていた。


心配そうな面持ちで、彼の前にコーヒーを置きながら、佐川は言った。


「零くん、そんなに根詰めなくても……君はさ、司令塔なんだから、みんなが集めてきたデータを効率よく裁けばいいと思うんだけど……そんなに生真面目に何もかも携わっていたら、体が持たないよ。食べてもないし……どうせ今後もまた寝ない日が続くじゃないか」


「ご心配かけてすみません。でも、大丈夫なんで」


「どうせそう言うだろうと、思ったよ」

佐川は肩をすくめて、溜め息をついた。



捜査本部の入口に、高倉が現れた。

佐川は高倉に向かって、残念そうに首を振った。

高倉は、ねぎらうように頷くと、声のトーンを上げて、零に声をかけた。


「零くん、お客さんだ!」


調書から零は顔を上げた。


「……こんにちは」


絵梨香がひょこっと顔を出した。



高倉は蒼汰との電話を切ったあと、波瑠に電話をかけた。


「伊波さん、高倉です。相変わらず零くんは、捜査本部に詰めてまして……それでも相澤さんをまた迎えに行ったりするのかなぁと……零くん本人に、聞くわけにもいかないですしね。何か、いい方法はないかなぁと……それで、ちょっとした思い付きがあるんですが、まずは伊波さんに相談しようと思って……」


暫し二人の策略会議が行われた。


「分かりました。高倉さん、しばらく待ってもらえますか?」


数分もしないうちに、波瑠から折り返しの電話が入る。


「なるほど! そうします。伊波さん、ありがとうございました。相澤さんのお従姉ねえさんにも、よろしくお伝えください」


満足そうな表情で電話を切った高倉は、含んだような笑みを浮かべた。



捜査本部の部屋の扉に姿を現した絵梨香に、一瞬、動きを止めた零は、ほんの少し動揺したようにも見えた。


すぐさま、また調書に目を下ろしながら、さりげなく声を発する。


「ずいぶん早い退社だな。具合でも悪いのか」


そっけなく吐くそんな彼の言葉でも、絵梨香には響くものがあった。


「いいえ。少しの不調もないわ。ただ、由夏ちゃんが心配して帰れってうるさいから……」



「いやぁ、街でたまたまあの辺を走ってたら、偶然、相澤さんを見つけてね。いや、まさか今日から出勤してるとは思ってなかったから驚いたんだけど、どうせ俺も戻るところだったし、彼女を送るついでに、なんなら3人で飯でもと思ってね。零くん、どうだ?」


零はこっそりスマホを覗いた。

いつもなら必ず送られてくる筈の、退社報告のメールが、由夏からは届いていなかった。


零は少し嘲るように笑いながら、高倉の顔を見た。


これがこの人の戦略か。

なるほど、いい手を使ってきた。

ただ、すべてのキャストにおいて詰めが甘く、

バレバレだが……


そう思って、今度は絵梨香の顔を見る。


至ってフラット無垢な顔で、こちらを伺っている。


こっちは単なる“駒”にすぎないな。

何も聞かされていないらしい。


零はフッと笑みを見せた。


仕方がない、乗ってやろう。


「わかりました、高倉さん」


そう言って高倉をじっと見てみたが、高倉は気付く素振りもなく、愉快でしょうがないというような表情で、零のそばに駆け寄って来た。


そして待ちきれないと言わんばかりに、零の椅子を引く。


「じゃあ早速、少し早めのディナーといこう! 相澤さんも、お腹減ったでしょ?」


そう言ってまくし立てるように二人を会議室の外に押し出す。


「零くん、君の車でいいかな? さすがに警察の車でディナーに出掛けるのも気が萎えるだろう?」


「ええ、構いませんが」


「俺、ちょっと佐川に言ってくるから、君の車に先に乗っててくれるか?」


高倉は二人を追い越して、廊下の先に足を急がせた。


二人は、蛍光灯の並ぶ長い廊下を歩き出した。


指が触れそうな距離にいる零を、絵梨香は、はにかむように見上げる。

その心の中には、温かい安らぎと、胸が高鳴るような揺らぎが混在した。


しかし、零の表情から何かを探すも、そこには何も見つからない。

前を見据えて歩く零に、絵梨香が恐る恐る声をかけた。


「あの……」


「なんだ」


「なんか、疲れて見えるんだけど……」


「そうか?」


「うん。過呼吸を起こした私より、ずっと」


不意に零が絵梨香を見下ろす。

 

「あ、ごめんなさい! 変な言い方して……」


「あれからは? どうもなかったか?」


「ええ、蒼汰と食事して帰ったけど、なんともなかった」


「そうか」


零はまた前を向いた。


「ねぇ、ずっとあの窓のない部屋捜査本部に、こもってるの?」


「まあ、こもってるつもりはないが」


「昨日は、家に帰ったんだよね?」


「ああ、高倉さんに実家の方に送ってもらってたからな」


「実家? へぇ……そうなんだ」


そう言えば、零がどこに住んでいるだとか、どんな生活をしているだとか……

聞いたことがなかった。


絵梨香は彼の事を何も知らない自分に気付く。



駐車場まで来た時、絵梨香の目の前の、見慣れない車のハザードランプがついた。

それを見てまたよけいに、零の日常が見えなくなるような気がした。


「なんかまた……すごい車ね」


「まさか警察署に赤い車Jaguarでは来られないからな」


「あ……まあ確かに」


零はドアを開けて絵梨香を助手席に座らせてドアを閉めた。

そして回り込んで運転席に乗り込む。

スマートに体を滑らせるその姿は、グッと大人に見えた。

いつもよりも整えた髪と、そのスーツ姿のせいかもしれない。



零の携帯電話が鳴った。


画面を見ると高倉警部補からだった。


「なるほど、そう来たか……」

零のかすかな呟きに、絵梨香が首をかしげる。


「え? なに? 誰から?」


零は真っ直ぐ前を向いたままスマホを耳に当てた。


「高倉さん、どうしました?」


「ああ、ごめん! 捜査本部の連中に昼飯を奢んなきゃいけなくなってさ……俺も残念なんだけど、二人で行ってきて」


やれやれ……

そう思いながら答える。

「わかりました」


「あ、零くん、その代わりって言ったら何なんだけどさ、半分は仕事っていうのはどうかな?」


「仕事とは? どういうことですか」


「現場検証を兼ねてもらいたい」


「それは……ひょっとして」


「ああ、『LACHICシック』だ。ちょっと無理を言って、席を作ってもらった」


「そうですか」


「相澤さんの事件が起きる前に、彼女が小田原佳乃とついた席を用意してもらった。そこで彼女がなにか思い出すことがあるかもしれないだろ? もしあったら、教えてくれ。ああ、もちろん経費はこっちで持つから! あくまでも 捜査の一環としてだが、折角なんだ、二人で楽しんで来てよ。なかなか予約の取れない人気店なんだぞ! まあ、警察の力でっていうのは反則だがな」

電話の向こうで高倉は豪快に笑った。


「食事が終わったら、彼女を送ってから戻ってきてくれ。じゃあ、頼んだ」


「はい、わかりました」


さっきから不思議そうにこちらを見ている絵梨香に、零が説明をした。


零は我慢ならず、クッと笑い出した。

顎を上げて、声を出して笑い出す零に向かって、絵梨香は戸惑い気味に聞いた。


「どうしたの?」


やるなぁ高倉さんも。

なかなか、悪くないシナリオだ。

気に入った。


「いや、なんでもない。高倉さん、今から数十人分の昼食の面倒をみるそうだ」


「え? 数十人分の!」



彼はエンジンをかけて、スムーズに車を走らせた。


零はいつになく愉快そうな表情をしている。


絵梨香はその美しい横顔を、何度も盗み見た。


彫刻のようなそのシルエットに、今はその頬には色があり、生気せいきを感じた。


当初に比べて、幾分明るくなった彼の表情に、安堵を感じる。

そして自分から溢れる、この穏やかな気持ちに自然に笑みが出た。



LACHICシック』は、鑑識によって、十分に調べも検証もついている。


でも零自身は、実際に足を踏み入れていなかったので、正直興味があった。

高倉さんの戦略なのが幾分悔しいような気もするが、いざ来てみると乗って良かったと思える。


店に足を踏み入れ、絵梨香がにこやかに店主と会話をしている間も、零は店の様子を丁寧に観察しながら、頭の中で鑑識が提出した調書と、照合していた。


彼女は元々自分が座った席に、零は小田原佳乃が座っていた席にかける。


零は後ろを振り向いて、相澤由夏を介して『ファビュラス』から提供を受けた編集前の動画を思い出しながら、当時回していたカメラの位置も確認した。


メニューも全く同じものを注文する。


「ワインも頼んだんじゃないのか?」


「ああ……ワインじゃないけどシャンパンを頂いたわ。でもあなたは今日、車だし……」


零はウェイターを呼んで、その時と同じ銘柄のボトルを見せて欲しいと依頼した。


店主自らがそのシャンパンを手に、テーブルまで持ってきてくれた。


それは全面が鏡張りになった、あまり見かけたことのないボトルだった。 


「これは……随分珍しいボトルですね?」


「ええ、さほど高価なものでもありませんが、酒造メーカーさんの限定もので。あの日は、“撮影映え” もするだろうと思いましたし、『ファビュラス』さんには、いつもお世話になってるので、試飲も兼ねてこれをお出したんです」


「なるほど。ありがとうございます」


店主が去ると、零は少し目をつぶった。


「どうしたの?」


「いや、別に」


このボトルがあった位置は……

零はビデオの映像を思い出す。

そして同じ場所に配置した。


死角になっていて気になっていたシーンが、幾つか頭に浮かんだ。


「面白いわね、見て! あ……って言っても、そっちから見たって、角度が違うもんね。映ってないかな?」


「なんのことだ?」


「あなたの腕時計フランク・ミュラーの文字盤、そのボトルに映ったら、更にもっと歪んで見えて、なんか面白いの。ああ……やっぱりそっちからは見えない?」


そう言われて零はボトルに目をやった。

腕を動かしてみる。

なるほど、時計の文字盤が写って、大きくなったり小さくなったり、距離によって変化する。


零はハッとした。

ガタッと腰を上げる。


「ちょっと電話をかけてくる」


「え? また? 何よ、いつも突然……」


そう言い終わる頃には、零は既に入口付近まで到達していた。


「もしもし、高倉さん」


「ああ……零くん、悪く思うなよ。こうでもしないと、ロクに食事もとってくれないだろう? 俺の老婆心に免じて……」 


その声を遮るように、零が言った。


「至急、鑑識に連絡して、画像解析をお願いします」


「え? どういうことだ?」


「あの日、食事を開始して約1時間から、前後30分の間、動画に映っている相澤絵梨香の右前に置かれている、鏡面のシャンパンボトルに写り込んだ映像を、かなりズームアップした状態で鮮明に解析してもらいたいんです。何台かカメラがありましたよね? あと今からこのシャンパンの銘柄を送るので、このボトルを一本、本部に用意しておいてもらえますか」


「零くん……なにか見つけたんだな。しかし、君はホントに……」


高倉は言葉を失う。


「行ってもらって正解だったわけだな! 分かった、すぐに手配する」


第98話 『心暖まる策略』ー終ー

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