第93話 『The 6th Case』      Found a dead body

電車を下りて空を見上げると、いつもよりずっと陽が高い。

抜けるような青空なのに、絵梨香の心にはうっすらともやがかかったままだった。


どうして?


自分に問いかける。

昨夜は久しぶりに日常的な気持ちで

『RUDE BAR』のドアをくぐった筈だ。


蒼汰とも何もなかった時と寸分たがわず、愉快な会話が出来た筈……

では、なかったか……


会話は弾んだ。

けれど……

私は何度となくドアに目をやっていた。

探していた……

蒼汰の肩越しに、別の姿を……



絵梨香はまばらな乗客の波から外れ、改札口に向かってゆっくりと歩き出した。



今日は打ち合わせが一件入っていたが、そこから直帰を言い渡されていた。


昨夜『RUDE BAR』から帰って、髪も乾かさずに寝落ちしてしまった。

久しぶりにお酒を飲んだせいかもしれないが、由夏や蒼汰、波瑠までも電話をくれていたの に、気付かずに眠りこけていた。


それで今朝になって、心配した由夏が出張先から電話をかけてきて、早く帰宅するよう命じられたのだった。

確かにちょっと風邪をひいたのか、あまり気分は優れない。



渚駅から桜通りを北上し、『ジョイフルベア』の並ぶショーウィンドウを横目に、絵梨香はいつも自分がそうしているルートで西へ歩きだした。

上の大通りまで来て、今日はコンビニで買い物をしようと、北側へ渡った。

さすがにこの時間は『RUDE BAR』もまだオープンしていないし、買い物をしたらおとなしく帰宅しようと思いながら、東へ足を進める。




零もいつものごとく、黙ってその数十メートル後方を歩いていた。


いつもの退社連絡に加え、由夏からは、絵梨香が昨夜誰の電話にも出ないくらい寝入っていたことと、風邪を引いたかもしれないという報告もあった。


なるほど、早い退社な訳だ。


零は夕方から佐川刑事と、昨夜依頼した件についての報告を受ける約束していたが、夜に回してもらった。

彼女の体調が芳しくないのであれば、今夜彼女が『RUDE BAR』に来ることはないだろう。

そこで落ち合うことにした。


数日前に、零が現場検証した路地を通り過ぎた辺りを歩いていたところで、大通りを東向きにけたたましいサイレンを鳴らしながらパトカーが2台通りすぎた。


波瑠のセカンドハウスがある、川沿いの道に左折して北へ上がっていく。


後から来た黒い車が、零の横を通り過ぎた所で急ブレーキをかけた。


車から降りてきたのは高倉刑事だった。

「零くん、ずっと電話していたんだぞ。連絡がつかないから……」

車のドアを荒々しく開けた高倉がそう言いながら、近づいてくるその肩越しに、前を歩いていた絵梨香が振り向いた。


零と目を合わせた彼女は、信じられないものでも見たような驚いた表情で、こちらを見つめながら零と高倉の元に近づいてきた。


零は遮るように言った。

「何があったんです?」


高倉警部は零の視線に気が付いて、背後に目を向けた。

絵梨香をちらっと見てから、また零をじっと見つめ、少し押さえるように言った。


「実は……死体が出た」


高倉のすぐ後ろで、絵梨香が口許くちもとを押さえ息を呑んだ。

その様子を見ながら、零は少し苦い顔をする。


「零くん、とにかく車に乗ってくれ!」


その場に立ちすくむ絵梨香に、高倉刑事は言った。


「あの……相澤さん、君も……」


「え? 私もですか!?」


思わず立ちはだかるように近付いた零に、高倉は静かに言った。


「死体は……彼女を襲ったホシである可能性が高いんだ」


零も絵梨香も、言葉を失った。



佐川刑事が運転する車で、川沿いの道を上がっていく。

後部座席に並んで座った零と絵梨香は、何も話さず、ただ黙って前を向いて座っていた。


零は彼女の横顔を注意深く見た。

こめかみからアゴにかけて汗が光っている。 極度の緊張状態に見えた。


零の手が絵梨香の手に重なった。

絵梨香はその驚きに、思わず声が洩れそうになって、パッと零の顔を仰いだ。


零は絵梨香の手首を掴んだまま、左手の自分の腕時計に目を据えていた。


なんだ……脈を……?


その淡々とした行動を、ぎこちなくただ見つめるしかなかった。


「少し早いな。あまり体調が良くないのか」


今日会って初めての会話がそれということもあり、絵梨香はぶっきらぼうに返した。


「別に。まるでお医者さんみたい」


そんな風に急に手を掴まれたら、脈だって上がるわよ……

よっぽどそう言ってやろうかとも思った。


手首を離した手が、今度は絵梨香の頬に触れた。


「汗がすごいが、今熱いと感じるか?」


「……いいえ、エアコンも効いてるきし、そうでもないけど……」


「わかった」


彼は発熱を確かめるように、もう一度、首に近い頬の別の箇所に手の甲を当ててからその手を下した。


もう! なんなのよ!


そう思いながら、彼から顔を背けるように窓の外に視線を向けた。


「昨日、飲み過ぎたのか」


さして抑揚のないトーンでそう言った零に、絵梨香はパッと顔を向けた。


「ねぇ! 私が昨日飲みに行ったって、なぜ知ってるの?」


零は一瞬、ミラー越しに高倉と目を合わせた。


「蒼汰から聞いた」


「そう。あのさ、さっきはどうして? 私が前に歩いてるの、気付かなかった?」


「ああ、気付かなかった」


眉を上げた高倉は、静かに溜め息をついて、助手席から助け舟を出す。


「相澤さん、ごめんね。なんか付き合わせちゃって。多分……不安に思ってるんだろうけど、ちょっと話聞かせてもらうだけで、その……相澤さんが心配してるようなことは……絶対ないから! ね、安心して!」


「あ……はい」



北に行くにつれて、絵梨香の家の辺りとはまったく違った景色になった。


木が生い茂る、川の中流の大きなカーブを越えた先に、いきなりこれまでの静かな雰囲気とはミスマッチな、物々しい情景があった。


広くなった河原に、ブルーシートの壁がそびえていた。


無線が鳴ったので、皆しばらく耳を潜める。

「警視庁より、殺傷事案。16時3分、桜川上流の河原にて遺体に刃物が突き刺さった状態で仰向けに倒れている遺体を発見。黒のズボン、黒の靴、黒のパーカーを着用」


絵梨香は目を見開き、その表情はこわばっていた。


「続報入電。マル害の身元が判明。所持していた運転免許証と照合し、田中紀洋47歳と判明」


後部座席の2人がバッと顔を上げ、高倉は無線機を取った。


「マル害は失踪中の、『想命館』勤務、西園寺章蔵氏殺害事件の関係者です」


「了解」


しばしの沈黙があり、零が切り出した。


「高倉さん、マル害が彼女を襲ったホシである証拠は出たんですか?」


「ああ、幾つか所持品がある」


絵梨香の吐く息が、幾分震えているように感じた。



ブルーシートの近くの車道に、パトカーが2台、鑑識車とおぼしきバンが2台、救急車が1台停まっていた。


それらを追い越して、車を停める。


高倉は少し申し訳なさそうな顔をしながら、絵梨香の方を覗いた。


「相澤さんはちょっと車の中で待ってて、ごめんね」


高倉刑事はそう言うと、零と共に車から出て行った。


車を離れ、足早に土手を下る。

草地から川原に切り替わった所で、ようやく零が口を開いた。


「高倉さん、彼女に身元確認は無理です」


「まあ……そうだとは思ったんだけど、念のため来てもらおうと思って……さすがに死体は直接は見せられないが、彼女が実際に被害にあった犯人であるかどうかの確認のために、写真で顔は見てもらわないと……」


零は悩ましげな顔をして溜め息をついた。


「先ほどの所持品の話ですが……」


「ああ、ホトケの衣服から、彼女の写真と、半年ほど前の消印のついた郵便物が出てきたんだ」


「半年前? その頃から彼女に目をつけていた、と?」


「そう考えるのが妥当だろう。写真は隠し撮りだ」


「隠し撮り? どこでですか」


「ああ、俺もまだ見てないが、その写真は彼女のマンションのエントランスで撮られたものじゃないかって話だ。あと本人に確認して、どの時期に撮影されたものか断定しないとな。マンションに訪れたのも一度や二度じゃないだろうから、あの黒い紙の差出人も、コイツである可能性が出てきたぞ」


「他には?」


「あと……遺書らしきものも出てきたんだが、自殺と断定できない。なんとなく、不自然なんだ」


「不自然とは? 文面……それとも活字なんですか?」


「いや、筆跡鑑定しなきゃわからないが直筆ではある。これから分析するんだけどね。君の望み通り家宅捜索は存分に出来そうだが……被疑者死亡となると……」


高倉は零の心情を心配した。

零にこの事実を告げるのは、自分にとっても辛いトラウマが顔を出す。


「それから……、こいつが相澤さんを襲った犯人だったとして、かつ他殺だと断定したら、そうなった場合は……言いにくいんだが……」


「一応彼女も容疑者の一人、ということになるんですね」


高倉はバツが悪そうに頷いた。

 

「では、死亡推定時刻も昨夜から本日未明ってところなんでしょう?」


「まあ、まだ鑑識の初見だけどな……」


「相澤絵梨香はアリバイもなく、そして昨夜は電話にも出なかった。蒼汰にでも聞いたんですか。それとも波瑠さんかな?」


「全てお見通しだな……昨夜、江藤くんが連絡つかないって、嘆いててね」


「事件が発覚してからも、もう一度蒼汰に聞いたんでしょう。それで? 高倉さん、刺殺体が出たことは蒼汰に言いましたか?」


「うん、一応言ったよ」


「相澤絵梨香が“容疑者だ”ということは?」


「江藤くんにか? 言ってないよ! まいったな……零くん、俺に尋問するのやめてよ」


零は黙ってうつむいた。


「なに? なんだよ!……そう言えば、君を“ドS司令官”って言ったことがあったなぁ……思い出したよ」


零はさして気にする様子もなく、前を向いたままブルーシートに向かって、大きなストライドで歩いて行った。


高倉はが悪そうにスーツの襟を直しながら、その零の歩幅について行く。



多くの鑑識や捜査員が、しゃがみこんで調査している真ん中を突っ切るように、零と高倉警部が歩いていく。



絵梨香は一人、車の後部座席からそれを見ていた。

ブルーシートを彼らがめくって入るときは、思わず視線を落とした。


 あのシートの向こうには、

 あの夜、私を襲ったあの男が……

 “死体”となって転がっている……


そう思うと、だんだん気分が悪くなってきた。


 考えるな! 戻ってこい……


あの日、彼が手を握りしめてそう言った。


 そうだ、考えちゃダメ……

 あの夜の事は、思い出しちゃダメ……


瞬きの度に、フラッシュバックする光景……


闇の中、雑草と地面が擦れるような音

乱暴に塞がれた口

押さえつけられた冷たさ

ぶたれた痛み

あの匂いが

そして、大きく丸い……月が……


眉根をよせ、喘ぐようなカラの息をしながら、絵梨香は首もとを押さえ、後部座席に倒れ込んだ。


第93話 『The 6th Case』       Found a dead body   ー終ー

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