第94話 『You Kissed My Soul』

零と高倉がシートの中に入ると、捜査官が一通り説明を始めた。


「遺体は川原に遊びに来た小学生が発見。死後約15時間前後は経っていると思われ、夜のうちに殺されたと見られます。川原の背の高い雑草が死角となって、東側の住宅地から見えなくなっていたため発見が遅れたものと。加えてこの辺りは毎年鉄砲水の被害があるので、立ち入り禁止区域となっているため、あまり人は立ち入りません。今川沿いを車で北上して来ると、なかなかここに辿り着くのには大変なように思えますが、この東側の住宅地からなら徒歩でも侵入することは可能です。よっておそらく、ガイシャも犯人もこちら側の住宅地からここに降り立ったと予測されます。川原に入れば周辺は街灯もなく、事件当時の目撃情報はなし。その他の付近に遺留品も、今のところは見つかっていません」


鑑識官が袋を差し出した。


「上着のポケットに遺書らしきメモがあり、それに本人のものと思われる新しい血痕がついています。こちらです」


証拠品袋には、皺くちゃになっていたであろう紙をのばした状態で葉書サイズ程度の紙が入っていた。

裏側には何ヵ所もの血痕があり、表面には乱雑な比較的大きな字で「つかれた。もうおわり、もうしわけありません」と書かれていた。


鑑識官が説明を続ける。

「ポケットには睡眠薬のシートが2シート、薬はすべて取り出されています。どのくらい服用したのかは後ほど司法解剖で調べる事になります」


零は遺体をじっくり見て周った。


胸に深く突き刺さった凶器から流れ出ている血は、マグマのように黒地のパーカーを赤く染め、川原の石にまで大量に流れ出ている。

包丁の柄や手のひら、その袖口やポケット周辺も注意深く観察した。


「死因は胸部刺傷による出血性ショックってところか……この刺創は……」


それまで一人でブツブツ言っていた零が顔を上げた。


「高倉さん、この刺創をみてください」


携帯で署と連絡を取っていた高倉が、零のもとに駆けつける。


「零くん、なにかわかったか?」


「その前に、今の電話は?」


「ああ、田中紀洋の前科だ。若い時に窃盗と、女性絡みの傷害事件で何度か引っ張られてる」


零は暫しうつむいた。


「零くん、君の見解を話して」


「わかりました」

零は膝をはたいて立ち上がった。


「まず、自殺を前提とした矛盾点から。左胸に突き立てた刃の角度ですが、肋骨に沿って横向きであること、これは不自然です。まず普通、この手の刃物を構えて持つ時は、柄の平たい面が体のサイドに、つまり、刃は縦に、刺創も縦長に付くはずですが、この遺体には刃先が肋骨の間に入るように故意に横向きに刺してあり、それによって心臓に到達しているわけです。それが狙いであったとしても、迷いなく突き立てられるとしたら……そうですね、念のため医療従事者だった過去はないか、調べてください」


「わかった、他には?」


「はい。今は垂直に刃物が入っていますが、もしも右手で自分の胸を突いた場合はもう少し傾斜する可能性があり、両手なら勢いは付けられず、ここまで深く刺し込むとなると、かなりな意思の強さを要するでしょう。仮に直立した状態では、刺しやすいかもしれませんが、前のめりに倒れる可能性が高い。ポタポタと流血したり、よろめいて歩いたような形跡が周囲にないのであれば、最初から仰向けになって刺したことになる。多量の睡眠薬を麻酔代わりに使ったとしたら、朦朧としてここまで深く突き立てられないでしょう。血の流れ方を見ても、もがき苦しんで暴れた跡も殆ど見受けられない」


「つまり?」


「俺の結論としては、これは他殺だと」


零は側にいた検視官と鑑識官の方を向く。


「すみませんが、頭部や首、後頭部、背部に打撲痕がないか、確認してください。この、刃の部分ですが、奥まで刺した後に、少し外向きに引っ張ったような跡が見えるのですが、柄にそういう力が掛かっていたかどうかを、指紋の形状で検証してもらえますか。後は刺創痕に角度修正やブレがないか。血液の飛び散った範囲も……お願いします」


高倉が鑑識官に問いかけた。

「今わかっている事は?」


鑑識官はメモに目を落とす。

「この黒のパーカーのポケット部分、そしてズボンのポケット部分に、比較的古い血痕が確認されました。我々鑑識が持ち帰って調べます」


高倉はしばし考えてから、零を見た。

「誰のものだと思う?」


「もしも彼女が襲われた時に犯人が着用していたものとするならば、その血痕は、被害者である彼女と、俺が殴った時の俺の血と犯人の血。それ以外にもしあるとすれば、他にも被害者がいるということになるでしょうね」


「このホトケから君の血液が出たとしたら、間違いなく相澤さんの強姦未遂事件の犯人となるわけだな」


「加えて、俺も容疑者の一人ですね」


高倉は苦笑いする。


「零くんが救出した時に、相澤さんは流血するくらい怪我してたのか?」


「あ……いや、唇から少し出血してて……」


「そうか……殴られてたんだったな。女の子相手にひどいな……で、君ははどのくらい殴ったんだ?」


「あまり覚えてないんですが……でもこっちも拳から流血してたので、打撲痕がないかも確認してください。すぐに逃げられたんですが」


零がもう一度膝をついて遺体に近付いた。


「零くん、どうした?」


「いや、あの時の“サボン”の匂いが残ってるかと……」


零は立ち上がって、再び膝をはたいた。

「さすがに今は確認出来ませんでした」


「分かった。申し訳ないが、君と相澤さんにはDNAの採取を要請するが……構わないか?」


「わかりました。彼女には俺から話します。蒼汰が後を追ったんですが取り逃がしたんで、蒼汰は接触はしていないはずです」





高倉刑事を残して、零は1人ブルーシートから出ると、土手の上に停めてある車を見上げた。



後部座席に目をやるも、絵梨香の姿が確認できない。


不審に思った零は、車まで全力で駆け上がった。


車に着くなり、後部座席のドアを荒々しく開ける。


絵梨香は後部座席に身を低くして、うずくまっていた。


「おい! どうした! おい!」


零は絵梨香を抱きかかえ、顔にかかった髪をかき上げた。

苦しそうな表情、呼吸が荒く、額にはびっしり汗をかいていた。


零は左胸に絵梨香を抱き留めて、右手で脈をはかる。


零は舌打ちをした。

「くそっ! 過呼吸か……」


ポケットからハンカチを出して絵梨香の額の汗を拭った。

苦しそうに眉根をよせる絵梨香に、零は自分も一息ついて、静かに話しかける。


「相澤絵梨香、どうした。目を開けよう」


絵梨香の目が開いた。


「何度かかっても慣れないよな? 大丈夫だ、苦しく感じるだろうが、死なない。さあ、一度息を止めてみろ」


絵梨香は首を振った。


声にならない言葉を発している。

零はその唇を読もうと、顔を近づけた。


「あの……死んだ……の……私を……襲っ……」


また呼吸が激しくなり、絵梨香はぎゅっと目をつぶった。


「ダメだ! 考えるな! 落ち着くんだ、そんなに大きく吸い込むんじゃない!」


零は絵梨香の頬を両手で挟み、真正面から声をかけ続ける。


「目を開けるんだ! なにも考えるな!」

まるで説得するかのように、零は声を上げた。


「そっちに行ったら……ダメなんだ! おい! 帰ってこい……なぁ! 頼むから……」


「く、る……し……」


零は、息で作られたその声を、

阻止したかった。

もう何も……失いたくなくて……


零はその声を止めようとした。


仰向けに強く、彼女の肩を抱き、

身体を覆い被せる。

救い上げるように引き寄せた

小さなそのアゴに指を添え、

塞ぐように……そっと

唇を重ねた。


絵梨香は一瞬、目を見開いて大きく息を吸ったが、やがて静かに目を閉じて、息を止めた。


彼が私に……

その少し冷たい唇が私を捕らえる。


底深い沼の閉鎖された空間に、一筋の光が差し込んでくるような感覚だった。


その救いのキスは、

私に向けられたもの……

誰かの代わりではなく……


そう実感したとき、今まで感じたことのない

感覚が、胸の奥で疼いた。 

心の闇を照らし始め、払拭する。

なにかが走り出すような……

そんな思いが騒ぎ出した。


唇がそっと離され、

頬を這った手が

絵梨香の頭を包み込むように支え

零のその胸の中へと導いた。


彼の鼓動が、聞こえる……

その音に安らぎを感じた。



「少し、外に出よう。いいな?」


零は絵梨香を、シートからそっと抱き起こした。

目を合わせられなくて、うつむく絵梨香の髪をサッと直して、零は反対側のドアを開け、絵梨香を抱き上げると、持ち上げたまま立ち上がって、ゆっくりと外に歩き出した。


外の眩しさに、彼に身を寄せ、思わず目を閉じる。


少し道から外れた木陰に入り、大きな岩の前に来ると、彼女をそっと降ろして、そこに座らせた。



しばらく黙ったまま、彼は突っ立っていた。


「どうだ。良くなって来たか?」


立ったままそう言う、彼の顔を絵梨香はまだ見上げることが出来なかった。


「うん」


眩しかったのは、陽射しだけではなかった。


零は、絵梨香の側にひざまずいて様子を窺った。

また眩しい光が、グッと目の奥を刺激する。


彼がしゃがんだ事で、彼が今まで自分の身体で日陰を作ってくれていたことに、初めて気が付いた。

その彼の優しさに、心の中の色彩が、どんどん鮮やかになっていくのを感じた。


零は絵梨香のすぐ側で、時折表情をうかがうように、瞳を覗き込んだ。


「もう、大丈夫だ。必死で呼吸しなくても、ここには大気は無限にある」


「私……また……」


零はその言葉をさえぎるように、そっと肩に手を置いた。

「何も考えずに、山の景色でも見てろ」


しばらく静かに時間が流れた。

傍らには零がいて、生命力溢れる緑の息吹いぶきを、一緒に眺めている。


風がさぁっと吹いた。

汗が引くような、心地よい清爽感が彼女を包んだ。


零が着ていたジャケットを脱いで絵梨香の膝に掛けた。

足元で視線が止まる。


「あ……」


「……悪い、靴履かせないまま担いで来ちまった」


後部座席にうずくまったとき、パンプスが脱げたままだった。


絵梨香は自分の裸足の足を見て、少し笑った。


「……ありがとう」


そう言ったときに、手の甲に何かがポタポタと落ちてきた。

自分の涙だった。


「お前……」


零が直ぐ前に回り込んで、涙に濡れたその手をしっかりと握った。

ひっきりなしに流れ落ちる涙を拭いもせず、絵梨香は目の前にある零の胸に、そっと頭を寄せる。

零はなにも言わず、その髪を撫でた。


風が少し冷気を含んだのを感じて、零は絵梨香の膝にかけているジャケットを、彼女の肩にふわっとかけた。

彼女が顔を上げて、零を仰ぐ。

涙は乾き、その表情は落ち着きを取り戻していた。


「そろそろ車に戻ろう」


絵梨香は頷いた。


「大丈夫か?」


その優しいトーンに、また胸の奥でコトンと音がする。


「うん。もう、大丈夫」

努めて気丈な声を発した。


零はそのまま、絵梨香を抱き上げた。


「うゎ……高い……」


零の表情は柔らかだった。


「あなたの視界ってこんな感じなのね」


「ああ、まあ……」


「身長って?」


「189」


「すごい、いいなぁ見晴らしが良くて」


「そうか? 不便だぞ、よく頭ぶつけるし」


西園寺家の蔵で、背後で聞いたゴンという音を思い出して、絵梨香は笑った。


「そう、ぶつけてたね。子供の頃はジャンプしても届かなかったのに」


「ああ……そうだな」


「今は……空に近づいた感じがする」


「空に近づいた感じか……」


二人は雲を見上げた。



その時、肩を支えている零の腕が、不意に彼女の頭をぎゅっと押さえ込んだ。

零の首元に顔をうずめる形になって、絵梨香は少し緊張する。


「しばらく目をつぶってろ」

零の静かな声が、その胸を伝って響いてきた。


きっと川原のブルーシートが見えてきたに違いない。


絵梨香は力を抜いて、零に身を任せた。

また彼の鼓動が聞こえる。

安らぎを与えてくれるそのリズムに身をゆだねながら、心の中に安堵あんどとは違った感情が存在することを、改めて知った。


彼の中には……

どんな思いがあるのだろうか……

そう考えると、なぜか泣きそうな気持ちになって、絵梨香は慌てて感情を整えた。


第94話 『You Kissed My Soul』ー終ー

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