第69話 『Dr.Amami's opinion』

後ろから病室の扉が開く音がした。


「絵梨香、支度はできた?」


ベッドの上に置いたボストンバッグに荷物を詰めながら、由夏のその声に振り向く。


「あ、天海先生!」


由夏の隣には、天海病院の若き医院長、天海宗一郎が爽やかな笑顔で立っていた。


「よく眠れたかな?」

心地よいバリトンボイスで優しく問いかける。


「はい、ぐっすり!」


「そう!」

天海はにこやかに絵梨香に近寄ってきて、その手を取った。

脈を測り、首の下に手を当てて熱を確かめる。


ふっと “彼” を思い出す。

これまでに何度となく、彼が私にこうしたという記憶……


「絵梨香ちゃん? 朝ごはんもしっかり食べられたかな?」


「え? ああ……ええ。バッチリです」


「それはよかった。天海病院では “美味しい病院食” を目指して、日々研究してるからね!」


「ああ! それで食後のデザートにアンケート用紙が付いてたんですね! 天海先生、なかなかヤリ手ですよね」


「せっかく誉めてもらったのに残念だけど、これはここにいる君の姉さんのアイデアだ。さすが『ファビュラス JAPAN』のブレインだよね」


天海と由夏が目を合わせて微笑んでいる。


「絵梨香ちゃん、傷の消毒には来てね。後は普通に過ごして大丈夫! ただし、何かちょっと でも気になることがあったら、すぐに連絡して」


「分かりました、ありがとうございます」


「じゃあ絵梨香、先に1階の待ち合いに降りといてね」


「うん」


2人が出ていくのを見送る。

「へぇ、なんかいい感じ?」


そう呟きながら、ボストンバッグを持ち上げた。

「痛っ!」


両手に貼られた、大きな絆創膏を眺める。

さっきのさっきまで、忘れられてたのに……

その痛みに呼び起こされた昨日の闇が、また頭に蘇ってきそうになって、慌てて頭を振った。


本当はぐっすり眠ってなんかいない。


目を閉じると、そのまま闇の中の記憶に引きずり込まれ、それこそ “あの悪夢” の続きを見せられる気がした。

だから、病室に泊まり込んだ由夏に背を向け、起きているしかなかった。


長い長い夜だった。


けがされたこの身体、記憶、唇……


思考の逃げ場は唯一、来栖零の存在だった。


あの場所で、彼の腕の中にいる間だけ、私が “獲物” から、相澤絵梨香に戻ることができた。



彼の指の動き一つ一つでさえ、覚えている。


手を取って、強く握ったままその胸に当てた……


彼から伝わる鼓動は、私と連動するかのように、強く、速く……


私の涙を拭いながら、その唇が動く。


でも、何故か……言葉が聞こえない……


必死で読み取ろうとするも、溢れる涙でぼやけて見えない……


ただ、ただそこに居るのが “彼” だということだけを確信したくて、目を開き続けた……


やがて、身体の血液が沸き立つほどの苦しさが、更に襲いかかってくる。


もうこのまま死んでしまえばいいとさえ思うほどの、絶望の渦中にいた。


強く抱かれたその胸に顔を埋めると、そこを伝って初めて彼の声が聞こえた……


救われるのだと……思った。


でも……


切れた唇を親指でなぞるその目は、彼のものとは違って見えた。


ピリッとした痛みに一瞬目を閉じる。


再び目を開けると、月が見えなくなっていた。


冷たい感覚……


彼は私に口付けをした……


激しく、強く、さらうような……


でも……


あれは、“彼” だったのか……


その手も、その唇も、その声も……


まるで全くの別人に抱かれているような感覚……



バサッと大きな音がした。

ベッドからボストンバッグが落ちている。

そして自分も、床に座り込んでいた。


思い出せば思い出すほど、鼓動が高まり、息がきれるような胸の圧迫感が、肩を大きく揺らせた。




「天海先生、色々ありがとうございます。なんか、警察の出入りも凄かったみたいで……ご迷惑おかけして……」


「そんな水臭いこと……言わないで。心配だったでしょ。由夏さんも遠方から飛んできたんだよね。夜もあんまり寝てなさそうだったって、ナースが言ってたよ。由夏さんこそ、無理しないようにね」


「はい……」


「絵梨香ちゃんの検査結果は警察にも提出しなきゃいけないんだけど……構わないかな?」


「ええ、もちろん。警察には早く犯人を捕まえて欲しいですから」

由夏は少し俯いた。


「そうだよね……」

天海は彼女の肩に手を添えた。



由夏が顔を上げて天海を仰いだ。

「天海先生、もっと早く相談すれば良かったかもしれないんですけど……絵梨香が慕っていたご老人が、数週間前なんですけど、亡くなったんです。それが……」

 

「うん、どうしたの?」 


「亡くなったって言うか……殺されて」


「え……」


「絵梨香、その現場に居たんです。ご遺体も見てしまって……」


「それは……大変なことがあったね」


「それで……私は見たことがないんですが、PTSDの症状が出たって……絵梨香が過呼吸起こしたのを見た人が “心療内科を受診した方がいいかも” って……つい最近言われたんです」


「そう……それは誰に? 専門家?」


「じゃなくて……あ、昨日もここに来てますよ。先生も話してませんでした? 来栖零くん」


「……彼か。彼が言うなら、受診した方がいいと思う」


「え? 元々知り合いなんですか? それってもしかして……彼は天海先生の患者だったことがあるとか?」


「僕は医者だから守秘義務があって話せないけど、由夏さんは彼の身に起こったことを、知ってるの?」


「実は昨日聞いたばかりで……私の甥の蒼汰、ご存じでしょう? 彼の親友なんです」


「そうだったんだ……彼、警察の仕事手伝ってるんだってね。彼にとったら、昨日の絵梨香ちゃんの事件は……」


「そうですね……彼の事も心配です」


「今、せっかく退院しようとしている絵梨香ちゃんを引き止めてカウンセリングするのは、 あまり良くないと思うから、そうだな……検査の結果いかんでは、本来警察と話すべきだけど、昨日の感じだと彼とも話をする機会がありそうだから、まずは彼から絵梨香ちゃんの状態を聞いてみるよ。それで受診する時期を決定しよう」


「よろしくお願いします」


「由夏さんも最近忙しいんだってね。絵梨香ちゃんから聞いたよ。出張ばっかりでほとんど家にいないし、後はお酒ばっかり飲んでるって」


「え! もう……絵梨香ったら、余計なことを!」 


「あはは。ねぇ由夏さん、明るくどんと構えててあげてね。あと、由夏さんも絶対無理しないように! 思ったことがあったら、いつでも僕に話して」


「ありがとうございます」




平日の1階の待合は、大人も子供も大勢の人が行き交い、そこにいる人たちに混じれば、私も普通のちょっとした風邪程度の患者のような顔を装うことができる。


……強姦未遂の被害者ではなく……


その時入り口の自動ドアが開いて、大きな声でなまえを呼ばれた。


「絵梨香ちゃん!」


「あれ? 波瑠さん! わざわざ迎えに来てくれたんですか?」 


波瑠が駆け寄ってきて、絵梨香の肩を掴んだ。


「心配したよ、絵梨香ちゃん!」


「ごめんなさい、でももう大丈夫だから」


「謝ることなんてないよ。すぐ退院できるって聞いて……昨日お見舞いに来れなかったからさ、心配したよ……早く絵梨香ちゃんの顔見たくて。大丈夫なんだよね?」


「ありがとう波瑠さん。大丈夫、すごく元気。朝からご飯もいっぱい食べたし」


「そうか……よかった! 由夏さんは?」


「あ、さっき天海先生と一緒に話をしてて……」


「……天海先生か」


「あ……」


「何? 絵梨香ちゃん」


「いや、何でもない。多分、私の検査のことで話をしてたんだと思うから、もう来ると……

あ! ほら、来た来た! あ……天海先生も一緒だ……」

絵梨香はちらっと横目で波瑠を見た。


天海先生が右手を上げて、波瑠に挨拶した。


「波瑠くん、お久しぶり」


「お久しぶりです、天海先生。最近はお忙しいのか、なかなか店にも来てくれませんね」


「ごめんごめん、いや本当に近いうちに行こうと思ってたんだよ。波瑠くんとゆっくり話したいなって思ってたしね」


「本当ですか? 本気にして待ってますからね! じゃあ、由夏さん、行きましょう。絵梨香ちゃん、その荷物、貸して」


「いいよ、波瑠さん。そんな大した荷物じゃないし」


「いいから」


「では天海先生、これからもよろしくお願いします」


「あ、さっきの件は、またどうするか連絡するね」


「はい。ありがとうございました」


絵梨香もお礼を言って3人は天海病院を後にし、タクシーに乗ってマンションへ帰った。


途中、波瑠が大通り沿いのパティスリーで予約しているからと、タクシーを待たせて受け取りに行った。

絵梨香は、その “回り道” が、タクシーで事件現場を通らないようにする為の口実だと、わかっていた。

波瑠の心遣いが、胸に染みた。


「波瑠くん、上がって!」


「いいんですか、上がり込んじゃって……絵梨香ちゃん、静かに休みたいんじゃ?」


「いいのいいの、どうぞ!」

波瑠をソファーに座らせて、由夏は言った。


「私、ちょっと買い物に出かけてもいいかな?」


「え? どこに行くの?」


「だって、ろくに食べるものもないからさ、ちょっと調達してこようかなって」


「そっか」


「波瑠くん申し訳ないんだけど、しばらくの間、絵梨香の相手しといてもらってもいいかな?」


「もちろん! 絵梨香ちゃんが僕で退屈じゃなければね」


「そんな! 退屈なわけないよ」


「そう? よかった! じゃあ僕たちここでくつろがせていただくんで、由夏さんはごゆっくり。この辺で買い物すること自体、久しぶりなんじゃないですか? ずっと出張続きだったんでしょ?」


「そうなのよ。じゃあ、お言葉に甘えて行ってきます」


2人は手を振って、由夏を見送った。

「いってらっしゃい」


由夏は玄関を出て、エレベーターを待つ間、先ほど波瑠が天海病院に入る寸前に、自分宛てに送ってきた2つのメッセージのうちの1つ目を、もう一度読み返した。


「零が由夏さんにお話があると言っています。 『RUDE BAR』に1人で居らせますので、行けそうなら行って、話を聞いてやってもらえませんか?」


由夏はスマホをしまって『RUDE BAR』に足を向けた。



第69話 『Dr.Amami's opinion』ー終ー

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る