第70話 『その問いの答え』

零は、昨夜慌てて迎えに来てくれた波瑠に感謝しながら、シャツの袖をまくり上げて、グラスを綺麗に洗ってカウンターに並べ、ボトルも記憶を頼りに元の位置に戻した。


いつものドアチャイムの音がして、顔を上げると、そこには由夏の姿があった。




「わざわざ来て頂いて、ありがとうございます」


そう言う零に、由夏は首を振りながら近付いて来る。


「何言ってんの! お礼を言うのはこっちの方よ!」


カウンターの前に、由夏がたどり着いた。


「零くん、絵梨香を……助けてくれて、本当にありがとう」


由夏はカウンターのタオルの上に並んだグラスたちを眺めた。


「あ……ちょっと来るのが遅かったみたいね」


そう言って由夏は零の顔を見る。


「波瑠くんからメッセージもらっててね…… “もしも零が片付けをしようとしていたら、そんな事しなくていいからって言って、止めてほしい” って」


由夏は少し笑ってみせる。


「波瑠くんって、あなたの事、よくわかってるのね」

  

しかし、零は由夏のその言葉にも、深刻な表情を崩さなかった。


「由夏さん……」


由夏はまた更に声のトーンを上げて、まくし立てるように言った。


「零くん! そうそう、更に波瑠くんから! 美味しいグァバジュースが冷蔵庫にあるから、零に飲ませてもらって、って!」


「はい」


零は棚から乾いたグラスを取って、グァバジュースに氷を2つ入れて出した。


「零くんのバーテンダー姿もいいわね! 波瑠くんもファンが多いけど、零くんがバーテンだったら更に流行って、女の子のお客さんでいっぱいになりそう! そりゃそうよね! なんてったって零くんは、レイラをも唸らせる『ファビュラス』の看板モデルなんだもん! 当然よね?」


そう言ってグラスをあおる。


「波瑠くんの言う通り! 美味しいこれ! ねぇ、零くんも」


「……由夏さん」


由夏はグラスを下ろして、俯いた。


「……ごめん、わかってる……」


零はカウンターから出て、由夏の隣へ座った。


「彼女の様子は……どうですか」


「大丈夫。今朝はもう、だいぶん落ち着いてきてたから」


「そうですか……」


零は思い詰めた顔をしながら、グッと頭を下げた。


「由夏さん、すみませんでした……俺が昨日、ちゃんと見ていれば……」


由夏は驚いたように目線を上げて、改めて零に向き直した。


「零くん、何を言うの! あなたが現場に駆けつけてくれたから、絵梨香は助かったの! 感謝してるのよ」


「いや、でも……」


「昨日はあなた、ご親族と一緒で遠方にいたのよ? それに、絵梨香の行動を把握しきれてなかったのは私の方よ……あの子が、家の近くの知り合いと食事するから帰りも一人にはならないナンテ言うのを、ちゃんと確認もせずに真に受けちゃって……だから、“私が” あなたにウォッチングは不要だって言ったのよ。あなたが責任を感じる事なんて1ミリもないわ」


由夏はそう興奮ぎみに言った後、スッと組んだ指に視線を落とした。


「由夏さん……」


「……うん。あなたも私と同じ気持ちよね、解るわ。すごく悔しいもの」


零も目を閉じて俯いた。


「でもね、絵梨香は無事だった。犯人だってこうなった以上、もう簡単に手出しが出来ない事も、わかってるはずよ」


「俺が、今まで以上にちゃんと監視します」


由夏は再び視線を上げる。


「零くん……それはダメよ、申し訳ないわ。そりゃ私が偶然マンション前で零くんを見つけたあの日から、冗談半分であなたに脅しをかけたりして、絵梨香の帰路の護衛をお願いしたりしたけれど、あれからもう何ヵ月? あなたは、誰にも言わないで毎日絵梨香を見守って来てくれたのよ! もうこれ以上、あなたに負担も責任もかけたくないわ。……それに」


由夏の組んだ手が、震えているのがわかった。


「聞いたわ……蒼汰から……零くんがどうして、こんなにも本格的に犯罪捜査に関わるようになったのか……その理由を……」


由夏は下を向いて、痛恨の表情を浮かべた。


「ごめんなさいね。私、勝手に勘違いして、あなたが単に絵梨香の事を好きなんだって、思い込んでて……私がお願いしたことは、あなたに辛い過去を常に思い出させるような毎日を過ごさせたってことなのよね。だから、もう今こういう状況にまでなって来て、零くん、あなたにこれ以上絵梨香のことを頼むなんて……出来ないわ。警察か、それか蒼汰に……」


零はその言葉を遮った。


「いえ、由夏さん。俺が責任を持って見守ります」


「零くん……どうして?」


「この事件の捜査は俺が指揮をります。彼女の護衛をしながら彼女の身辺にも目を光らせて、必ず犯人を逮捕しますので」


零のその表情には、強い決意が見られた。


「でも……」


「代わりに、お願いが……」


「……なに?」


「この事は、今まで通り、本人には伏せておいてください」


「え、なぜ? いっそ言っちゃった方が、あなたも行動しやすいんじゃないの?」


「いえ、捜査内容もあまり細かくは本人に話せないですし、これまでも監視されていたと知れば、本人は不快な思いもするでしょうし。何より、これからは今回の事件から切り離した生活を送る方が、彼女の為かと……」


由夏はまじまじと零を見つめた。


「ホント、あなたって……なんて人なんだろうね。親友とはいえ、蒼汰があなたに一目置いているのも納得がいくわ」


由夏はカウンターの上の手を膝に下ろして、頭を下げた。


「わかったわ、これからも絵梨香の事をよろしくお願いします。今まで通り、あの子の退社時間を毎日知らせるわ」


「はい。そうしていただければ」





唐突に由夏が出て行ったことに、絵梨香は納得のいかない表情をしていた。


「変なの、由夏ちゃん。突然、買い物に行くだなんて。さっきまでそんなこと言ってなかったのに……」


「家に帰ってから急に何もないって気が付いたんじゃないの?  俺もそういうの、よくあるよ」

波瑠は、なだめるように言った。


「そっか……確かに、私も冷蔵庫の中すっからかんにしちゃってたから」


「しっかし……“カサブランカ・レジデンス” についに“上陸”かぁ……」


波瑠は感慨深い顔で部屋を見回しながら、無意識に呟いた。


「ねぇ波瑠さん、私すごいこと知ってるんだ!」


絵梨香はコーヒーを淹れながら、挑発的な顔で言った。


「なになに? なんか怖いな……」


「波瑠さんって、ここに前に住んでた人のこと……好きだったでしょ?」


波瑠は一瞬、言葉を失う。


「な、何言ってるの!  ここに前住んでたって、おたくの会社の社長だよ? 俺の恩師の 嫁さんなんだよ!」


そう言いながらも、反射的に立ち上がっている自分を、ばつの悪い顔で見回した。


「知ってる! 由夏ちゃんが前に、ベロベロに酔っ払った時にさ、言っちゃったんだ、私に。由夏ちゃん、きっと覚えてないだろうけどね」


波瑠は観念したように、ソファーに腰を下ろして、手で顔を伏せた。


「まいった……まして由夏さんからだなんて……」


波瑠は更に、頭に手を置いて溜め息をついた。


「やだ、波瑠さん! そんなに落胆しないでよ。昔の話でしょ?」 


「そうだよ! もう5年も6年も前の話だよ! だけど……やばい……なんか、力抜けちゃった……」


「あはは、いつも完璧な波瑠さんでも、そんな感じになるんだ?」   


「絵梨香ちゃん、今日はなかなかの意地悪ぶりだね……元気そうでいいんじゃない?」


「波瑠さん、そんな皮肉、負け惜しみにしか聞こえないよ? じゃあ、もう一つ! 言っちゃおうかな?」


「ああ、もうすでに怖いんだけど! 聞かないほうがいいかな、俺」


「むしろ、私が聞きたいことかもしれない」


波瑠は顔を上げた。


「ん? どういう事?」


「波瑠さん、由夏ちゃんのこと、どうするの?」


また言葉を失う。


「由夏ちゃんてね、モテるよ。知ってるよね? まぁ最近は出張ばかりで忙しいから、波瑠さんもゆっくり話も出来てないと思うけど、会社に行ったらそういう話、よく耳に入ってくるの。クライアント側からね。お誘いも結構あるみたいだし、それにお見合いの話もちょいちょいあったりするんだ」


「え! お見合い?」


「波瑠さんったら、いい反応」


「参ったなあ……絵梨香ちゃん、これは何? 俺は絵梨香ちゃんに相談したらいいわけ?」


「あはは、ごめんなさい。波瑠さんが本気で相談に乗ってって言うんなら、私全力で応援するよ! そりゃ天海先生もいい人だけど、私はやっぱり波瑠さんの味方かな?」


「……ちょっと待って、今なんか、ぶっ込んで来たよね?」


「あら、私、何か余計なこと言いました?」


「天海先生……またあの人か……」


「私、それも知ってる!」


「何だって? うゎ……無防備に呟いてもマズいのか……」


波瑠は大きく首を振りながら天を仰ぐ。


「波瑠さん! 作戦会議でも、する?」


「何気に絵梨香ちゃん、手強いね……」


「ウソ、一番手強いのは由夏ちゃんでしょ?」


「ああ……まあ、そうなんだけど」


波瑠は観念したかのように、こじんまり座って、出されたコーヒーを飲んだ。


美味うまいね、上手に淹れてる」


「ホント! これ、波瑠さんにもらった豆。ちゃんと言われた通りの淹れ方したのよ」

絵梨香は嬉しそうに言った。


しばしコーヒーを堪能して一息つく。



「人の気持ちって、わからないもんだね」


絵梨香がクッションを抱いたまま、遠くを見つめて言った。


「うん? どうして?」


「とりあえず、“とっかかり”って、その人の 言動とか行動を見て、その気持ちを図るしかないわけでしょ? でもそれが、その時々でまちまちだったりすると、何か一つ、心に響くものがあっても、それがその人にしてみたら、その時の “気まぐれ” だったり、たまたま出た “偶然” だったり、そしてまたはそれを目の当たりにした方からの ただの “思い込み” だったりってことも、あるじゃない? それが怖いから、次に踏み出せないって……あると思うんだ」


「絵梨香ちゃん……」


「どうして素直になるってすごく難しいんだろう」


「うん……なんか、“素直になったもん負け”みたいに思うのってさ、もうその時点で、相手のことが自分の中心になってるってことだよね? それを簡単に認められないのってさ、大人になっても、何歳になっても、やっぱり変わんないなと思うよ」


「そうなんだ? じゃあこの先もずっと?」


「ああ、この先もずっと逃れられないし、そういう事で人って悩むんだよ。みんなそうじゃない?」


「私はそうだけど、みんながみんなそうなのかな?」


「じゃあ逆に、その素直になるデメリットって何か考えたりする?」


「そうだなあ、一つは恥をかくこと。思い上がりとか批判されるのが怖いってことかな」


「うん」


「もう一つは、相手に迷惑をかける。気を遣わせたり負担をかけちゃう」


「そうだね」


「それにもう一つ。せっかく築き上げた相手との関係性が変わっちゃうことかな」


「全くもってそう、いたく共感はするけどさ、今絵梨香ちゃんが挙げた3つは全て、相手と気持ちが繋がらなかったら、っていう仮定をもとに羅列されたものだろ?」


「ホントだ!」


「じゃあ、もし気持ちが繋がるっていう保障があったら?」


「多分、思いきって……かな?」


「そうだろ? 歳が違っても、性別が違ってもやっぱ一緒なんだね。関係性をそこまで上げられるかどうかの方が、近道なのかもしれない。その為にみんな、相手の心を知ろうと躍起になる。でも相手も探りたいと思ってたら?……相手の立場に立ってみて、気持ちをひた隠しにしていたら、相手の方が諦めてチャンスも去っていってしまうかもよ?」


絵梨香はクッションを更に強く抱いてくうを見据えた。


「絵梨香ちゃん」


「何?」


「今、絵梨香ちゃんが心に抱いているのは、人として繋がりたいとか理解したい相手が居るから? それとも…… 誰かに対する、恋心なの?」


絵梨香はしばらく波瑠と目線を合わせてから、そっと俯いた。


第70話 『その問いの答え』ー終ー

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