第71話 『心の鍵』

「今、絵梨香ちゃんが心に抱いているのは、恋心なの?」


波瑠からのその問いに、絵梨香は少し俯いた。


「それが……よくわからないの。わからないなんて感情が、自分の中にあると思ってなかったから、正直戸惑ってる。心が不安定になる事って、なるべく心の中から排除しようって、昔はそう思ってたの。だから、このわからない感情がいつまでも心に引っ掛かったままとどまっていることが、なんだか辛くて……今までそんなことは本当になかったのに……今はずっと、胸が詰まったような、変な気持ちが続いてる」


「そっか。でもさ、心の中に誰かがいるって、それが仮に恋愛じゃなくて友情でもだけど、いいことだよね? 誰かを想って、誰かのために何かしてあげたいっていう思いには、何か特別な温度があるって言うか。自分の方が幸せをもらってるような、そんな気持ちになる時がある。それは男女も関係ないんだ、大切な人 をいつも心に留めてさ、一人じゃないことを実感して、対話してる感じなんだよね。なにかの形にはならなくても、いてくれるだけでいい、みたいな……」


絵梨香は波瑠の顔をじっと見た。


「どうしたの? 何? じっと見て」


「私、波瑠さんのこと、“お兄さん”って呼びたくなった」


「ちょ、ちょっと、何言ってんのかな、絵梨香ちゃん……」


「あー動揺してる!」


「べ、別に……動揺なんてしてないよ。あんまり大人をからかわないでよね!」


「そんなに歳、変わらなくない? 波瑠さんと私って」


「そうだけど……」


「あ! 分かった! 由夏ちゃんが年上だから、それで妙な距離って言うか……壁があるんだ! そうねぇ……波瑠さん、由夏ちゃんに敬語やめたらいいんじゃない? 年下っていうのを忘れさせるような、こう……男らしい感じで接するとか?」


「ちょっと待って……絵梨香ちゃんさ、さっきから何の前提で話ししてるのか……」


「もういいじゃない! 波瑠さん、この際、解禁しちゃおうよ。私、全力で応援するからさ」


「う……絵梨香ちゃん、今日はなかなか強引だよね? 蒼汰を超えてるな」


「蒼汰も応援してるんだから!」


「え、なに? 君ら2人でそんな話することあるの?」


「そらあるわよ。今や私と蒼汰の間では、波瑠さんと由夏ちゃんの話はマストよ!」


「……まいったな、こんな展開になるとは……」


その時、ガチャっと玄関の鍵が開いた音がした。

「ただいま!」


「うわー! 由夏さん帰ってきた!」


リビングのドアに現れた由夏は、ふたりに目をやると、ショッピングバッグをキッチンに置いて、つかつかと近寄ってきた。


「あら? 波瑠くん、なんか私が帰ってきちゃマズいことでも、あった?」


「ま、まさか! そんなことがあるわけないじゃないですか! おかえりなさい、いい買い物できました?」


「……なんか怪しいなぁ。絵梨香、どうしたの」


「ん? なんでもないけど?」


「こうやって絵梨香が白々しい時は、絶対何かあるのよね」


由夏は2人を交互に眺める。


「あ……でも今日はどっちかって言うと、波瑠くんの方がおかしいかな……ねぇ、自白する気はないの?」


「今日のところは勘弁してもらえませんかね……僕たちも秘密ぐらいあってもいいよね、絵梨香ちゃん?」


「そうそう!」


絵梨香は目をそらした。


「まあいいわ。ねぇ波瑠くん、これから一緒に 食事でもどう? それに、よかったら彼……」


「あ……あの、由夏さん。僕もちょっと……」 


波瑠は由夏の言葉を遮った。


「僕も買い出しに行かなきゃならなくて……結構早めに閉まっちゃう食材屋さんなんで、これからちょっと行こうかなと思ってて」


「あら、そう……」


そう言って由夏は波瑠の目をじっと見た。


波瑠は絵梨香に気付かれない程度に、細かに首を振った。


「じゃあしょうがないかぁ……あ、でも波瑠くん、お店開ける前の夕方だったらどう?」


「あ、夕方だったらすっごく空いてます!」


「すごく空いてるって? どういう意味?」


絵梨香が怪しい物でも見るような、変な顔をした。


「あ……いやその頃には支度も済んでるから……時間を持て余してるなーって思って……」 


「じゃあ、早めの夕食を3人でとらない? 久しぶりに行きたいお店もあるし」


「あーいいですね! お邪魔しちゃっていいかな、絵梨香ちゃん?」


「それは、こっちのセリフかな?」


「……絵梨香ちゃん!」


絵梨香が由夏に見えないように舌をだした。


「絵梨香? どうかした?」


「いやいや何でもない、是非3人でディナーしましょう!」


「そうね。あ! 蒼汰も呼ぼうか」


「そうしよう! 私、連絡入れてみる」




「じゃあ、一旦僕は帰りますね」


「波瑠くん、今日はありがとう。付き添ってくれて」

絵梨香も横で頭を下げた。


「そんな他人行儀なこと言わずに。じゃあ後ほど! 何時に迎えに来たらいいかは連絡くださいね」


「ええ、じゃあ、またあとで」




『カサブランカ・レジデンス』から出ると、波瑠は足早に『RUDE BAR』に向かった。


“Closed” のプレートがかかった扉を開けて中に入る。


階段を掛け下りると、カウンターの中に零はいた。


落ち着いた様子で、グラスを丁寧に磨いている。


そのカウンターにはタオルが広げられ、その上にはグラスがきれいに並べられてあった。


「……やっぱり」


そう言う波瑠に、零は顔を上げた。


「いらっしゃいませ」


そう言いながら、零はまた一つグラスを取り上げて、手元のクロスでなぞる。


「お前なぁ、妙に板に着いた感じ、やめろよな! この店、乗っ取る気か?」


「それもいいですね。由夏さんにも、バーテンやったら流行るって、言われましたし」


零の顔とそのトーンが、思いのほか明るかったので、波瑠はほっとした。


「……ちゃんと話せたみたいだな」


「ありがとうございました」


「零、これからどうするか、聞いていいか?」


「ええ、もちろん何も変わりません。今まで通りです。ただ、さっきも言ったように、少し本人とは距離を置こうかってところです」


絵梨香の複雑で、淋しげな表情がフッとよぎる。


「それはお前が決めるのか? それは絵梨香ちゃん自身にも決定権はあるだろ? 譲ったらどうだ?」


「あ……まあ確かに。ただきっと無理をするでしょうから」


「なんでもお見通しだな。俺だってそう思うよ、だけど、彼女が腹くくって前向きにしようとしてる行動を、お前が “ただ守る事だけに固執した一方的な方針” のために阻止するっていうのは、どうだろう? 絵梨香ちゃんは戦う気かもしれないだろ」


「戦う……ですか。そんな感じだったですか?  今一緒だったんでしょ?」


「いや、今は今でけっこう無理してた。精一杯明るく努めて、全く関係ない話をして、面白おかしく俺の事をいじったりしてさ。わかるよ、彼女の無理も、いじらしいところも。でもそれも、彼女がそうしたくて選んでやってることさ。もうちょっと絵梨香ちゃんのことを、信じてもいいんじゃないかな?」


「……そうですね」

零はグラスにかけた手を緩めながら、そう呟いた。


波瑠は零の手元を見つめながら考えていた。

さっき彼女が吐露した複雑な気持ちのことを。

今それを、ヤツに聞かせるのは、酷なことだと思った。


相手を思いやる気持ちが高いからこそ、さらに関係を複雑にしてしまうことがある。


全くもって、ここにいるコイツがそうだ。


自分自身にこと関しては、保守的とは無縁の人種であるはずの零。


コイツ自身はいつも傷だらけになりながら戦っている。

それをいとわない強さも、精神力もある。

そう、自分自身にこと関しては……


傷付き過ぎて、傷付ける怖さを知ってしまった零は、相手のことに関しては、どんどん保守的に傾いていく。


何かの因縁や障害があれば尚更、いくら相手を思い守ろうとしようとも、それが他律的に行動を制することなら、今度は誤解やそれによって生じる絶望を生み、新たな感情に気付く前に、思いを棄却してしまうこともあるだろう。

零はそこを解っていない。

いや、解っていてもそうしてしまうだろう。


ただそこに第三者が手を差しのべて良い結果が生まれるのだろうか?


わからない。


ただの老婆心が、彼らが紐解こうとしている関係性を乱すかもしれない。

いくら情熱的に力任せに強く引いても、間違えれば、ほどけなくなった結び目のように固く心も閉ざしてしまうだろう。


俺にはなにが出来るんだ?

零……


そう思いながら、ぼんやりと零を見つめていた。


「波瑠さん」


「……ああ、なんだ?」


「俺はそろそろ一旦帰宅します。資料をもって、高倉さんが来る前に整理したいのですが」


「ああ、鍵はお前に預けておくよ。好きに使っていい。俺は彼女らと夕食に出掛けるから、開店時間には少し遅れるかもしれないが」


「わかりました。じゃあこの店を乗っ取って、接客でもしておきますよ」


波瑠はフッと笑った。

「客の心ごと乗っ取られるかもな」


零は少し首をかしげただけで、無関心な表情のまま、作業を終わらせてカウンターのタオルを片付けた。


「波瑠さん。彼女には何も話さないでください。ここでの話も、ここに俺が居たことも。おそらく、由夏さんも、話さないはずです」


ほらみろ、付け入る隙も与えられない……


「わかったよ」


なあ、零……

無責任に好きだとか愛だとか、言えたらどんなに楽なことか。

お前はそんなことを思ったりしないのか?


電話が鳴った。


「蒼汰だ」


そうか、コイツも居た。

そりゃ、無責任には何も言えないだろう。

前言撤回だ。


「波瑠さん、蒼汰にも」

零は唇の前に人差し指を立てた。

「わかったよ!」


「もしもし蒼汰。ああ、俺が2人を迎えに行ったよ。大丈夫だ、ちゃんと普通に話せるよ。あとでゆっくり話そう。わかった、先に行ってるな。じゃあ現地でな」


そう手短に話し終わって視線をあげると、零と目が合った。


「蒼汰には後からここに居たことも由夏さんと話したことも言います。今からヤツも食事に同行するんですよね?」


「零、まさか、それで今一時的に蒼汰には内緒にしたって訳か? 絵梨香ちゃん相手にボロが出ないように?」


零は無言のまま、波瑠に目を向ける。


「……全く、お前の抜かりのないところは、時に唖然とさせられるよ」


「蒼汰と一緒に戻って来ますよね」


「お前の言いたいことを当ててやろう。うまく女性陣をいて来い……そんなところか?」


零は下を向きながら、今度はほんの少し笑って見せた。


「なあ、お前もいっそのこと一緒に……」

「まさか」

「……だよな」


波瑠は店を出るために階段に足をかける。

この事件がきっかけで知った、零の行動。

どんな気持ちで何ヵ月も彼女を見守ってきたのか……

思いの深さは痛いほど伝わるのに、その心の真髄だけが一向に見えない。


思えばこの短期間に、色々ありすぎた。


西園寺家での事も、親族会議での事も、話を聞いてやる時間すら与えられず、新たな事件が起こってしまった。


みんながみんな心を裂かれるような、劣悪な事件……


そしてみんなが寄り添う。

そのそれぞれのもろい心が、崩れていかないように。

お互いを補うように。


零、どうしてお前は一人で戦おうとするんだ?


お前の心も、もう崩れかけてるんじゃないのか?


「いってらっしゃい」


零がカウンターから投げ掛けた。


「……ああ」



ドアの外は風が強くなりかけていた。

不穏な天気、雨が降るかもしれない。


でも、この天気がもし昨日だったら……

事件は起きなかったのかもしれない。

そう思うと、胸が締め付けられる。

自分の心も脆く崩れかけていることを、波瑠は自覚した。



第71話 『心の鍵』 ー終ー

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