第82話 『想命館の罠 ~PTSD~』

蒼汰が佳乃とコーヒーラウンジに行っている間、ロビーで零と2人になった絵梨香は、蒼汰と共に聞き込みした内容を零に伝えた。


メモの束を渡し、ざっと説明する。

いくつかの項目に対して、零も関心をしめした。


「もちろんこちらで把握していた事もなかにはあるが……なかなか有用な情報も多いな。ご苦労様」


「あの……」


「なに?」


メモから顔を上げた零のその表情は、意外にも無防備に見えた。


「これ……」


絵梨香はカバンの中から、小さなジッパーバッグを取り出した。

カラフルな幾何学模様がプリントされている透明な袋の中に、零のハンカチがプレスされて入っている。


「ああ……これな」


「返しそびれちゃってて……」


2人の中に同じ光景が流れた。


今見てきた、階上のあの屋外庭園……

零が手渡し、絵梨香が思いと共に受け取った。

そして西園寺家に到着したときにも、流れ出た思いを塞き止めてくれたのは、やはりこれだった。


零の手に渡ったそれを見つめていた2人は同時に顔を上げた。

視線が絡み、目が離せなくなった。


息が止まりそうになったとき、零が腰を上げた。


「……電話をかけてくる。ちょっと待っててくれ」


そう言って零は、それをジャケットのポケットに突っ込んで席をはずした。


先ほどの有用だと言った情報を早速佐川刑事に報告しに行ったのだろうが、少し取り繕ったようにも見える。


なるほど、ようやく息が出来るような自分もいた。


戻ってきた零が、絵梨香を促す。


「冷凍庫を見に行こうと思う。来るか?」


絵梨香は立ち上がった。


「ええ。地下に下りるのよね? さっきあそこのカウンターの人に聞いたんだけど、別のところに特大のエレベーターがあるらしいの、もう調べた?」


「あるのは知ってる。鑑識は指紋採取に入ってるはずだか、俺は見ていない」


「じゃあそれに乗って地下に行ってみましょう」


2人はフロントに立ち寄り、そのエレベーターの場所を聞いて、コーヒーラウンジからもうすぐ出てくるであろう男性にも、“地下に来るように”と伝えてほしいとの伝言を頼んだ。



フロントカウンターからエレベーターホールに向かい、更にそこにある階段の裏側に、その巨大エレベーターはあった。

業務用というよりは、故人の搬送用のエレベーターらしい。



「あの……聞いていい?」


「なんだ?」


「あなたの中ではもう、犯人は特定されているの? それともまだピースを集めているところ?」


「残念ながら、後者だな。どうしても結び付かない溝のような……手掛かりは絶対あるはずだ」


まるで、独り言のように虚ろな面持ちで言う零の横顔をじっと見つめるも、絵梨香にはその話の意図がわからなかった。

何と何を結びつけようとしているのかさえも。


「あのさぁ……お医者さんになるって、言ってなかった?」


「は?」


「急にごめんなさい、ふと思い出しちゃって」


「医者ねぇ……覚えてないな」


「なんかね、科学者っていってたけど、おばあちゃんが亡くなったときに悲しんでいるおじいちゃんを見て、かわいそうだったから……って言ってたような……」


「そんな子供ガキの頃の事なんて、覚えていない」


そう言いながら、零は思い出していた。


“お医者さんになっておじいちゃんみたいに悲しんでいる世の中の人を減らしたい”と、そう話した記憶と共に、その話を熱心にそばで聞いていた、あの頃の幼いエリの風貌が、脳裏に蘇った。


「じゃあ、警察官には?」


零は首を振った。

「そっちは兄貴に任せてる。俺は心理解析は苦手だからな」


まるで、兄の領域は犯せないと言っているかのように聞こえた。


「不思議ね、ここに居ると、西園寺家にいるみたいに、あの頃の思い出が目に浮かぶの。あなたもおじいさんが大好きだったでしょ? あの時、私たちは小学生だったよのよね。信じられない。あの夏は私が帰ったあとも、あなたは夏休み中ずっとあそこで過ごしたんでしょ? 思い出もいっぱいあるはずよね。確か……」


エレベーターが開いた。


「さあ、乗るぞ」


その中は、普通のエレベータの何倍も奥行きがあった。


「棺を運搬するためのエレベータだな。ん?……この、匂いは……」


せ返るシャボンのような匂いが一面に充満していて、思わず顔が歪む。


そう思った瞬間、となりの絵梨香がガクッと膝を折った。


「どうした!」


慌てて彼女の肩を抱き、うつ向きになった顔を上に向かせた。


息が荒く、目が虚ろになっている。

「おい! どうしたんだ! しっかりしろ!」

そう声をかける零に、彼女の焦点は合わない。


エレベーターが閉まった。

行き先を押していないために、ドアだけ閉まってエレベーター自体は停まったままだった。


この匂いは……

彼女が襲われた日に犯人から漂ってきた……

間違いない。


絵梨香は突然叫び始めた。

「いやぁ! やめて! 離して!」


ますます過呼吸がひどくなり、その手を振り払おうと暴れる絵梨香を、落ち着かせるために、零は力一杯抱き締めた。


エレベーターのドアを開こうにも、絵梨香を拘束している体勢では、ボタンに手が届かない。


「おい!俺だ!来栖零だ!わかるだろ!しっかりしろ!」


とにかく呼吸を制限しないと、そう思って周りを見回す。


当然ながら、なにも見つからない。


そこに転がった絵梨香のバッグも然り。


さっきポケットに入れたハンカチの袋を思い付いたが、絵梨香の体の下で取り出せない。

現に零の両手も塞がっていた。


呼吸を制限……


そう思った時、無意識に唇を寄せて塞ごうとした自分に驚いた。


そしてその瞬間、あの事件の夜の光景が零の目のなかに浮かんだ。


流血した彼女にその唇を重ねた記憶、そしてその時の血の味が、蘇ってきた。


零はハッとしながらも、姿勢を落として絵梨香を膝に抱き抱えるようにして、彼女の口をその大きな手で塞いで、なんとか呼吸を制限しようとした。


抱き締めた左手で背中をさすりながら声をかける。


突然エレベーターが動きだした。


「大丈夫だ。もう何も心配はいらない。俺が付いてる」


口を塞がれた絵梨香の、眉値を寄せて苦しむ姿を、ジリジリした思いで見つめる。


「今は苦しいが、すぐに良くなる。わかるな? なにも心配しなくていい。目を開けろ。俺が見えるか?」


絵梨香はうっすらと目を開けて頷いた。

零は階数表示を見ながら言った。


「よし、もうすぐ着く」


エレベーターのドアが開いた。


そこには蒼汰と、案内に付いてきたフロントの女性が立っていた。


「絵梨香?! どうしたんだ……零、これはどういう……」


うろたえている蒼汰に、零は絵梨香を抱きかかえながら言った。


「またPTSDだ。蒼汰、お前も中に入ってみろ」


「うっ! この匂いは……」


「そうだ、俺たちが嗅いだのもこれだ」


フロントの女性の案内で、上階の和室に向かうことになった。

絵梨香を抱き上げて地下のエレベーターホールから通常のエレベーターに向かった。


「蒼汰、俺のジャケットのポケットを」


蒼汰が歩幅を合わせながら、零のポケットに手を突っ込んだ。


「中身を出して袋を口に」


「これは……」


蒼汰は目を見張った。

数日前に絵梨香のカバンの中で見た、ハンカチ……

西園寺家のテラスで、届けた忘れ物の袋にも入っていたあのハンカチだった。


「蒼汰! 早く! 中身を取り出せ!」


「ああ……わかった」


蒼汰は言われた通りに、そのジッパーバッグで絵梨香の口をそっと覆った。


エレベーターを乗り継ぎ、和室のある上階の控え室に向かった。


零に抱き抱えられている絵梨香は、意識は薄いものの、呼吸回数は落ち着いてきていた。


「でも、絵梨香は匂いについては覚えていないって……」


「ショックが大きすぎて記憶から消していたんだろう。匂いのせいで一気にあの時の事が甦ったみたいだった。暴れて大変だった」


零が絵梨香を畳の上にそっと寝かせる。

そして耳の後ろに手を差し込んで、髪を全部かき上げ、蒼汰が持ってきた座布団に絵梨香の頭をのせた。


蒼汰の手にある、さっきのハンカチをサッと取った零は、絵梨香の首もとを少し開き、その汗を拭いた。


じっとそれを見つめている蒼汰に気付いた零は、そのハンカチを差し出した。


「あ……冷房が効いてるから、このまま汗を放置すると低体温になる。拭いてやれ」


そう言って零は、脱いだジャケットを、その足元にかけ、立ち上がった。


大きく息を吸い込み、大量にかいた額や首筋のの汗をぬぐう零に、蒼汰が言った。


「零、お前はさ、何が起きても、そうやってすぐ対処できるよな……ホントすごいよ。……なのにオレはただびっくりするだけで、何の役にもたたない……」


「そんなことないだろ」

零はそう言って、疲労感を漂わせながらそこに座り込む。


今度は絵梨香のこめかみの汗を拭いてやりながら蒼汰が言った。

「いや、エレベーターのドアが開いたところにさ、倒れてる絵梨香を抱いて、その口を塞いでるお前を見て……オレ、咄嗟に良からぬ事を考えちまって……すまん」


零はまたひとつ大きく呼吸してから言った。


「気にすんな。人はパニックになると、理性から解放されたくなるんだ。こいつもお前も、非常事態に遭遇したという意味では、同じだろ?」


「零……バカだなオレ。零が絵梨香に、何かするわけがないのに……」


蒼汰のその言葉に、零は痛みを感じて目を伏せた。


事件の夜、絵梨香を救出した時に取った行動が、今はリアルに脳裏に焼き付いている。

一体、なぜ俺はあんなことを……



「……蒼汰……」


「あ、絵梨香! 気が付いたか!?」


「あ、うん……」


「あ! ごめん、大きな声出して……」


「いいの……また心配かけちゃったね。私のほうこそ、ごめんね」


「何言ってんだ!」


絵梨香はそっと半身を起こした。

蒼汰が支える。


足元にかけてくれていたジャケットを持って、零の方を向く。


「また助けてくれたのね。ありがとう。私、ホントに迷惑ばっかりかけて……ごめんなさい」


「そんなこと。気にしなくていい」

零はそう言うと、目を合わさないままジャケットを受け取った。


「絵梨香、もう苦しくないか? 大丈夫?」

蒼汰が心配そうに覗き込む。


「うん、落ち着いてきた」


「絵梨香、どういう状況だったかちょっと聞いてもいい? 無理ならいいんだけど」


「ううん、大丈夫。話せるわ」


零がちらっと絵梨香の方を向いた。

「気分が悪くなったりしたら言うんだ。でないとまた過呼吸が起きるかもしれない」


「……わかった」

絵梨香は姿勢を正した。



第82話 『想命館の罠 ~PTSD~』ー終ー

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る