第83話 『シャーロックの秘密』

「絵梨香、事件の後の事情聴取では、匂いの記憶はないって言ってたみたいだけど、やっぱり覚えてたのか?」


「ううん……匂いが蘇ったんじゃなくて……頭の中に襲われたシーンが……蘇って……」


絵梨香は下を向いた。


「怖くて……抵抗して……逃げたくて、とにかくその手を振りほどこうとして……」


何かに気付いて、絵梨香はハッと顔を上げた。


「待って! 私が抵抗したのって……誰……」


汗だくになっている零を見る。


「まさか、私……」


零はスッと立ち上がって、ジャケットを肩にかけた。


「ちょっと電話をしてくる」

そう言って部屋を出ていった。


「あ、あの……」


パタンと戸のしまる音がした。


「出ていっちゃった……私、ひょっとして彼に、すごく迷惑かけた……の?」


蒼汰は気が引けたが、エレベーターが開いた瞬間の状況を話して聞かせた。


「暴れた……?!」


絵梨香は、再び座布団に倒れ込んで、その顔を伏せた。


「嘘でしょう!……だから彼、あんなに汗びっしょりだったんだ……」


蒼汰は、絵梨香の顔にかかった髪を見つめながら、さっき零が彼女の首筋や耳に触れながら髪をかき上げたこと思い出して、また変な気持ちになっていた。


伏し目がちに顔を上げた絵梨香は、その座布団のそばのジッパーバッグを発見して、また驚く。


「これ……」


蒼汰は、まだ手に握っていたハンカチを絵梨香に渡した。


「絵梨香もすごい汗だったから、これで拭いてやれって零が。その袋は、西園寺家の蔵でPTSDを起こした時みたいに、絵梨香の呼吸制限に使ったよ」


絵梨香は溜め息をついて言った。


「これ……彼に借りたハンカチなの」


「……だろうな。男物みたいだし」


「ええ、何度返しても、また戻ってきちゃうのよね。それだけ私が何回も迷惑かけてるって事だわ」


そう言って落ち込んだ様子の絵梨香に対して、一体いつ、何度、零とこのハンカチを介して関わりを持ったのか……などという無粋な質問を投げかけることは出来なかった。


「絵梨香、気にする気持ちもわかるけどさ、でも多分、気に病む必要はないと思うよ。アイツはこうした不測の事態には慣れてるんだ」


「慣れてるって?」


「うん。なんかさ、苦しそうに横になってる絵梨香を見てたら……昔のアイツを見てるみたいだった」


「どういう事?」


「……今の絵梨香に言うべきか、正直迷うよ。でも絵梨香、納得しないだろ?」


「うん、それは……」


「わかった、話す。でも覚悟して聞いてくれよ」


「わかった」


蒼汰は絵梨香にミネラルウォーターのボトルを渡し、自分も持っているボトルをあおった。



「零が大学院を卒業してすぐの頃だ、学生時代にいくつか立ちあげた会社の仕事も順調でさ、年商もかなり上げてて、あの頃のアイツは絶好調だった。前も言ったことあるだろ? 零はもともと社交的で、交遊関係も広くてさ、かなりやり手のビジネスパーソンだったんだ」


絵梨香はさっき退室した零の顔を思い浮かべていた。

彼の表に出さない優しさや思いやりには、多少は気付けるようになったけれど、社交的とはかけ離れていると思った。


蒼汰が続ける。

「それで零は……当時付き合ってた彼女と結婚を考えてたんだ」


「結婚!?」


「うん、年齢的には少し若いけど、社会的には充分成り立ってるわけだし、周りも祝福ムードだった。気立てのいい子でさ、もう何年も付き合ってたし、大学院卒業と同時に、そろそろ籍を入れようかなんて話も出ていたその時に……」


絵梨香が蒼汰を見つめた。


蒼汰の顔が曇る。


「事件が……起きたんだ」


「事件って……もしかして彼女に……何かあったの?」


「ああ……」


絵梨香は彼の表情を思い出した。

だから……

だからあんなに凍りついた表情で……


「ある日、彼女が突然消えた。なんの連絡もないまま、行方不明になって」


鼓動が上がった。

思わず自分を抱き締めながら、話を聞く。


「手掛かりがなくて、時間だけが無駄に経過して……それでアイツは捜査に加わった。その時からオレも。アイツが関わってからは、実際捜査はかなり進展した。警察が目星すらつけられなかった犯人を、なんとかあぶり出し、足取りを追うところにまでこぎ着けたんだ。とにかく焦ってた、早く救出しないとって。アイツの頭の中には時間と生存率の計算が出来上がってるからな、もう見ていられないくらいに躍起になって……」


蒼汰が言葉を詰まらせた。

絵梨香は耳を塞ぎたい衝動にられた。

ハッピーエンドの結末なら、きっと今の零は……ここには居ない筈だから……


「でも……間に合わなかった……厳密に言うと、常人であるアイツの計算は、猟奇的な人間とは帳尻が合わなかった。行方不明になった時点で既に……殺されていた」


「そんな……」


ずっと目を見開いて聞いていた絵梨香の目から、涙が溢れ出した。


蒼汰も息を飲み込んで、俯いた2人の間に沈黙が流れた。


「……あれ以来、零は心を失ったように見える。かろうじてオレと一緒にいる時は、人間でいてもらいたくて、オレはそばに居続けた。正直、事件後はアイツ自身が殺人鬼になるんじゃないか、ってオレは内心ヒヤヒヤしてたよ。そりゃそうだろ? 愛する人をなぶり殺しにされたんだ、頭がおかしくなったって不思議じゃないだろう」


絵梨香は胸を押さえた。

声が出ない。


「……犯人……は」


「ああ、数ヶ月後に遺体で。繰り返してた窃盗で、捕まりかけて逃走した挙句の事故でさ。あっけなく死んだ。零は犯人に復讐することすら、出来なくなってしまったんだ。絶望しかなかった。本当に見てられなかった……そこからなんだ、アイツか本格的に警察の捜査に加わり出したのが。アイツの中で唯一見つけた折り合いなのかもしれない。世の中の事件に向き合うようになった。きっと、アイツの頭脳で多くの事件を解決することで、見えない相手に復讐してるんだ。来栖零の名前は一切公表されていないし、警察関係でも知ってるのはごく一部だけど、これまでの大きな事件解決には、かなりの確率で零が関わってる。そうなった理由がこれだ……わかっただろう?」


蒼汰は、突っ伏したまま泣いてしまった絵梨香にティッシュの箱を渡して、頭に手を乗せた。


「な、辛いだろ? 聞かなかった方が良かった?」


絵梨香は首を振った。

「ううん……そんな事が……あったのね。今でも私は彼のことが理解できているとは言えないけど、西園寺家で会った当時の小さな彼と、今の彼が、かけ離れているその理由が解ったから……私も蒼汰みたいに彼の事を信じることが出来ると思う」


「そうか。親友としては、アイツのこと理解してもらえて良かったと思うよ」


そう言いながら、蒼汰も胸を掴んだ。

「ああ、オレもまた胸が痛くなった……でも、オレは時折、故意に思い出すようにしてるんだ。何度思い巡らせても、朽ちることなく胸が痛いけど、それが零の抱えているものなんだって。そう実感するためにね。とはいえ、アイツの思いはこんなもんじゃない、計り知れないってこともわかってるんだけどな……」


一体どんな絶望といきどおりの中をくぐって、ここまで来たんだろうと、思った。

自分だったら……まともに生活すら出来ないかもしれない。


「だから……アイツの中で、今回の事件は特別なものだと思う……あの時とオーバーラップしてるんだろう。オレから見てても、ちょっといつもとは気迫が違うのがよくわかるよ。正直、心配だ。それとさ……」


蒼汰がまた神妙な顔で言った。


「零の彼女が亡くなった時、アイツ自身が酷いPTSDだったんだ」


「彼が……」

絵梨香は目を見開いた。


零がこれまで施してくれた対応と、諭すように話しかけてくれていたことを思い出した。


「だから対処の仕方が……いつも落ち着いて対応してくれるわけね……」


「オレなんて、初めて零の過呼吸の発作を見たときは、救急車呼んじまったもんな。本人よりもパニックって……それ以来、アイツはペーパーバッグ持ち歩くようになってたよ。いきなりハアハアいい出してさ、バタッと倒れて紙袋でスーハーやって……で、何でもない顔で生活するんだ。オレ、心配で零の家に泊まり込んでたもん。アイツが自殺するんじゃないかって……気が気じゃなくてさ、監視してたんだ」


「そんなことが……彼は、その辛さを……今は乗り越えられているのかな……」


「どうかな……犯罪捜査にのり出してるうちは、完全には無理だろうな」


蒼汰は、絵梨香の前にあるティッシュをたくさん取り出して、彼女に手渡した。


「ほら、また泣いてる」

絵梨香はそれを顔に押し当てた。



「絵梨香、一ついい?」


「うん」


「もちろん、零の辛い過去は消せない。同情も正直、するよな? オレだってそうさ。だけどさ、それをずっと周りの人間が引きずった状態で零に接するのは、ダメなんだよ。零も前を向こうとして、もしくはかろうじてフラットであろうとしながら日々、生活してる。それが無意識であったとしても、逆にふと思い出して悲しみの淵に倒れることがあったとしてもだ、普段接してる人間が、本人以上に過敏になることは絶対良くない。だから絵梨香、無責任に悲しんじゃだめだよ。オレの言ってる意味、わかる?」


絵梨香は大きく頷いた。


「彼も……蒼汰みたいな親友がいて、よかったよね」


蒼汰はちょっと照れたように笑った。


「そうか?」


「そうだ……そういえば蒼汰が友達の所に泊まり込んでるって由夏ちゃんから聞いたことがあったな」


「あ! それ、由夏姉ちゃんから聞いたぞ。絵梨香、オレに彼女が出来てそこに転がり込んでると思ってたんだって?」


「今の今まで、思ってたわ」


「なんだよそれ! ひどいなぁ。オレってそういうタイプじゃないだろ?」


「ごめんごめん!」


「まあ許してやるよ」


涙を拭きながら、絵梨香は笑った。


蒼汰がしみじみと言った。


「絵梨香さあ、ここしばらく辛い思いばかりしてるだろ? 頼むからさ、気持ちを穏やかに戻してくれな。オレも辛いよ」


「うん……ありがとう」


これからは蒼汰のためにも、心身ともに健全でいよう、そう思った。

そして、いつも黙って助けてくれる零に、ちゃんとお礼を言おうと。


第83話 『シャーロックの秘密』 ー終ー

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る