第84話 『ワトソンの思い』

エレベーター内で過呼吸を起こし、零に助けられた絵梨香は、だいぶん落ち着きを取り戻していた。

断片しか記憶はないが、どうも零にはまた随分な迷惑をかけたらしいことと、零の辛い過去について蒼汰が意を決して話してくれたことを聞いた絵梨香は、彼のこれまでの行動に納得しつつ、もっと彼を理解したいと思った。



『想命館』の和室で足を投げ出して、蒼汰と2人、話している。


窓の外に目をやると、すっかり陽も暮れて山も雲も区別がなく、そこには群青色の闇に吸い込まれるような景色があった。



「ねぇ、蒼汰はこれまで何年も、彼といつも一緒に捜査に加わってきたの?」


「まあ、助手的にね。突っ走るアイツの加速をゆるめる役ってところかな?」


「そうだったんだ……知らなかった。まるでシャーロックとワトソンね」


「そうか? 実際はあんなにドラマティックじゃないぞ。痛快なエンディングなんて、まずあり得ない。もっと生々しい世界だ。まあ、警察内部にも秘密にしてるからね。毎回事件の度に駆り出されるわけでもないし、それなりの重大事件でなければ零の出番もないわけだから、日常がそれに支配されることはないけど……でも今回に限っては、日常がこの事件で埋め尽くされつつあるな。『RUDE BAR』を捜査会議場に使うなんて、今まで発想にもなかったし。でなきゃ絵梨香に話すことになったりしないもんな。ホント、まさか打ち明けなきゃならない機会が来るとは思いもしなかったけど……」


蒼汰と零が、どれほどの絆で結ばれているかが、今回の事で解ったような気がした。


「オレの憶測だけじゃなくてさ……」


「うん?」


「実際、零は絵梨香の事を心底守りたいと思ってると思う。親友の大事な身内だっていうのもあるけど、今回のような事件を世の中から払拭したいって、誰よりも思ってるはずだから」


絵梨香は頷いた。

また涙が一筋流れ落ちた。


「脱水状態になったら、また零に怒られるから、追加の飲み物買ってくるよ。待ってて」


「蒼汰!」


「ん?」

  

「色々話してくれてありがとう」


蒼汰はにっこり笑って見せた。

「そんなのはいいから、早く元気出せよ!」

そう言って、部屋を出ていった。



一人になって無音になると、耳鳴りがしていることに気付く。

この部屋もやけに広く感じた。


自分と向き合ってしまうと、心の中に浮上した疑問をかわせなくなる。



あの巨大エレベーターで倒れたのは “あの匂い” のせいだ。

薄れ行く意識のなかで、零もそして蒼汰も、あの匂いを認識していた。


ということは……

西園寺家事件の捜査に『想命館』に来たはずが、ここに自分の事件の犯人に繋がる “あの匂い” という手掛かりがあったという事実に、他ならない。


彼らはそれを分かって……?

聞きたいことは幾つもあるのに、うまく切り出せない。


あ、息が……


呼吸がまた上昇しそうになって、慌てて気を沈める。


いけない、今ここには一人だ。

ここで過呼吸を起こしたら……

そう思うと前に進めなくなった。



「たっだいま!」


「あ……おかえり」


蒼汰が目一杯、明るく戻ってきた。

その声のトーンに救われる。


「はい! これ。飲んで!」


「ありがとう。ん? レモンティー?」


「そう! 花梨エキス入りなんだ。絵梨香知ってる? 花梨にはアミグタリン……だっけ? なんかそんな薬用成分が入っててさ、炎症を抑えるはたらきがあるんだって。咳とかのどの痛みとかに効くらしいから、今の絵梨香の “がらがら声” もマシになるかも」


「がらがら声で悪かったわね!」


蒼汰は悪びれもせずににっこりと笑った。


「疲労回復効果もあるし、ビタミンCも豊富だぞ! 今の絵梨香にはぴったりだろ?」


「っていうか、その知識は一体どこから?」


「……ああ、前に話したろ? 今の担当、女流作家だって。彼女はSNSで美容コラムをやっててさ、そこから出版に至ったんだ。だから、そんな話いっぱいされて、最初はホント困ったけど、訳がわからないながらもまあ、今時女子が興味をもつようなネタには事欠かないって感じかな?」


「へぇ、で、これ?」


「そのレモンティー、彼女もお気に入りなんだ。最近はよく買って行くから」


「ふーん……蒼汰、仕事楽しい?」


「な、なんだよ! 別に普通だ。なんで?」


「なんか、蒼汰から女の子の話を聞くのって、ひょっとして初めてかなって」


テンパっている蒼汰に救われた気がした。

笑みが出ることに心底安堵する。

 

「わ! 美味しいね、これ」


「まあ……ならよかった」


「ありがとう」


「ああ……」


蒼汰がポケットをゴソゴソし出した。

携帯電話を取り出す。


「零からだ」

画面をしばらく見てから、顔を上げて言った。


「絵梨香、もう動ける? 零が帰ろうって」


「ええ、大丈夫」


絵梨香は身支度を始めた。

ジッパーバッグに零のハンカチを入れて、またカバンにしまう。


次にこれを返す時は、なにも起こらず自然体でいられたらいいなと思った。


さっきロビーでこれを差し出した時の、零の少し無防備な表情を思い出す。

2人でそれを見つめた時、お互いの心の中に同じ光景が流れた。

屋外庭園、そして西園寺家でも、流れ出る思いをこれが塞き止めてくれた。

そして同時に上げた視線が絡み、目が離せなくなって……



カバンから顔を上げると、蒼汰と目が合った。

ほんの少し間合いがあった。


「立てる?」


「あ……うん」

そう言って蒼汰に支えられながら立ち上がった。



エレベーターでロビーまで降りると、零と佳乃が向かい合って話していた。


零を見上げる、佳乃の笑みをたたえた口元が、なんだかなまめかしく、2人の距離も幾分近いように見えた。


絵梨香の姿を確認するや否や、佳乃は心配そうに眉根を寄せて絵梨香の方に走り寄ってきた。


「絵梨香さん大丈夫? 聞いたわ、倒れたんだって? あれからまだ体調悪いの?」


「ううん。ごめんなさい。また佳乃さんにご心配かけちゃって……」


「いいのよ。気にしないで」


佳乃は絵梨香に抱きつくように、肩に手を回しながら耳元で囁いた。


「もう薬は渡してあげられないけどね。怒られちゃって」


驚いた顔する絵梨香の前で、ペロッと舌を出すと、佳乃はくるりと背を向けて、蒼汰の方に歩み寄った。


その腕にスッと手を絡ませる。

「江藤さん、お話とっても楽しかったです! またお会いして、お話がしたいわぁ」


蒼汰は苦笑いをした。


「それでは、そろそろ失礼します」


彼女背中に向かって、儀礼的にそう言うと、零は踵を返してさっさとエレベーターホールに向かって歩いて行く。


蒼汰と2人で、慌ててその後をついて行った。


大きなストライドになんとかついて行きながら、絵梨香は彼の後ろから声をかけた。

「あの……今日は、ありがとう。色々迷惑をかけちゃって……ホントに……」


前を歩く零が絵梨香の方を振り返った。

「助手席に乗って。後部座席で寝たりしない方がいい」


「え? あ……わかった。ありがとう……」


シートベルトを締めながら、零の横顔を見る。

あんなにも辛い思いをして、彼はどんな風に心の処理をしたのだろう。

そんな彼が、またおじいちゃんを奪われて……

彼は心の中できっと叫んでいるのだろう。

声にならないような悲痛と激高を……

そう思うと、やりきれない思いになった。


自分も被害者になって、ようやくわかったことがある。

犯罪がいかに人権を無視した、卑劣な行為であるかということが。



蒼汰も、何も言わないで後部座席に乗った。


絢爛豪華な『想命館』を後にする。

サイドミラーでその姿を見ながら、複雑な思いが交錯した。


零が低い声で言った。

「今から2人を送っていく。しばらくの間『RUDE BAR』での会議は無しだ」


「分かった」

蒼汰は短くそう言うと、腕組みをして眠り始める。


「あの……」


「なんだ」


「今日もまた……助けてもらって……ごめんなさい、私……」


「謝る必要はない。なりたくてああなってるわけじゃないだろ。気を遣ったりしなくていい」


「でも私、暴れたり……したんでしょ……あなたにだいぶん迷惑をかけたみたいで……」


「あんなに苦しい思いをしてるんだ。やむを得ないだろ。とにかく早く……あの呪縛じゅばくから抜け出すんだ」


無表情で前を見据えながらそう言う零の横顔を、絵梨香はじっと見た。


あなたは……その“呪縛”からいつ抜け出せるの?


そう心の中で問いかけた。



しばらく沈黙が続いた。


ただゴーという音と共に、目の前を通り過ぎていくヘッドライトと街灯の眩しさで、目の奥に痛みが走る。

泣いたせいもあるだろう。


蒼汰から聞いた話は……

想像を絶するものだった。

彼の愛する人は、あの恐怖に晒された上に、死という極限の絶望を強いられた……

そんなこと……


胸がぎゅっと苦しくなって、絵梨香は首もとを掴んだ。

息が上がるのがわかる。


「おい、大丈夫か?」


彼から言葉が発せられた。


普通に返事を返そうと口を開けても声が出ない。

出るのは荒くなりつつある息遣いだけだった。



シートに置いた絵梨香の左手に、零の右手が重なった。

指先に徐々に力が帯びてくるのがわかる。


「なにも考えるな。戻ってこい」

そう言って零は、絵梨香の手をしっかり握った。


あの日もこの手に救われた。

搬送中の救急車の中でも……


汗がひくように、動悸がひいて来るのを感じた。

胸を詰まらせる渦巻く黒い塊を、緩和させてくれる。

彼の手のぬくもりが、こんなにも心に繋がり、作用することに驚く。


「……やっぱり……ありがとう。あなたが助けてくれなかったら、私……どうなってたか……あの日も……」


それに応えるように、零は更に強く絵梨香の手を握って、シートに2回打ち付けた。


その優しいアクションに “もういい、大丈夫だ” と、言われたような気がした。


「うん」

彼の心の声に応えるように、ただそう言った。

それ以上、なにか話すと涙がこぼれそうだった。

彼ももう、なにも聞かなかった。


しばらくすると、その重なった手に、一度きゅっと力を入れた零の手が、スッと離れていった。


それを埋めるかのように、彼には珍しく、ちょっとした話を切り出してくれた。

自分が日常の中に居ることを思い起こさせてくれるような、フラットな会話を気負うことなく続けた。

話しているうちに、縁を感じるほどの偶然が学生の頃にあったという発見もあって、心にポッと火が灯るように、気持ちが高揚した。

笑顔になれた。


ひょっとしたら、彼にとってはセラピーの一貫だったのかもしれない。

でも、思いやりには変わらない。

またひとつ、彼の人間味に触れることができたように思えて、心が温まっていった。



絵梨香のマンションに着くと、零は蒼汰に声をかけた。


「蒼汰、玄関まで送ってやれ」


「ああ。行こう、絵梨香」


寝ていたはずの蒼汰は、さっと降りて助手席のドアを開けた。


「ありがとう。じゃあ、おやすみなさい」


零は軽く頷いた。


心に灯った小さな火が消えていないか確かめるように、エントランスに入る瞬間、彼の方を振り返った。

またいつもの、電話をしている姿だ。


彼の収集したピース、それらを余すことなく完成に繋げようとする情熱の先には、一体何があるのだろう。

悲しみ、復讐、憎悪、救い……

いや、終わりのない旅に、彼はその身を置いているのかもしれない。




第84話 『ワトソンの思い』ー終ー

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