第78話 『捜査始動~想命館ハートフルライフ~』
ブルートパーズのような薄碧色の空一面に、雲が描いた大胆な真一文字が、ゆっくり西から東へとたなびいている。
ビル群の向こうの山に降り注ぐ、夏の存命を告げるような晴れ間を、絵梨香は『ファビュラスJAPAN』のある『
「ここのところ雨降ってないよね? 今年はこの時期に台風も来なかったし、ひょっとしたら 秋に嵐が来るかもね」
こんなところで、自分を相手に天気の話をするなんて、絵梨香はやはり『想命館』に行くことに緊張を感じているに違いないと、蒼汰は思った。
当然だろう。
この短期間にあまりにも色々な事があり過ぎた。
生前葬では身内に等しい人を自分の目の前で亡くし、その遺体も見ている。
絵梨香はあの会場で前後不覚になりながら泣き崩れていた。
だからその深夜に、眠れず不調をきたして、小田原佳乃にあの薬を渡されたのか……
オレにはなんにも言わないで……
もっと目を光らせておくべきだったと、反省する。
昨夜、絵梨香の家から出て、零と2人、川沿いの道を下りながら、零は確かに言った。
“2つの事件が”と。
西園寺章蔵の殺人事件と、絵梨香の強姦未遂事件、この2つの、一見全く関係ない事件が、まるでつながっているかのような、口ぶりだった。
確かに西園寺の事件を皮切りに、絵梨香のポストに黒い紙が投函され、そしてその予告に沿ったかのような、あの公園での事件が起きて……
でも、なぜ?
さっぱり分からない。
しかし零の頭の中には、ジグソーパズルのような謎が、少しずつ形付いて来ているのだろう。
キーワードは“小田原佳乃”であることは、間違いない。
絵梨香の横顔を見る。
空を眩しげな表情で見上げているその様子は、不安を隠し、必要以上に気丈を装っている。
そんな絵梨香を本当に『想命館』に連れて行っていいものか……
西園寺家の “蔵” で見た、今にも果てそうな絵梨香の苦しい表情を思い出す。
また章蔵のことを思い出し、悲しんだり調子が悪くなったりするのではないかと、不安に感じた。
「蒼汰?」
「あ? ああ」
声をかけられてビクッとしてしまった。
「やだ蒼汰、考え事?」
「なんだよ、そりゃ……オレだって考え事ぐらいするよ! 新しく担当する作家さんが、なかなか筆が進まなくてさ」
「じゃあ前みたいに、作家さんの家に泊まり込んで、色々お世話してあげてたらいいんじゃないの?」
「そ、それは無理だよ!」
「なんで?」
「ああ、今度は女の人なんだよ」
「今まで女の人の担当ってしたことなかったの?」
「そうなんだ。女流作家となると、どうしたらいいのか余計わからない……文学小説より逆に難しいな……本の内容もそうだけど、まずどうやったら彼女が書けるようになるかなって……」
「そっか。大変だね」
「どんなことでも、仕事は大変だってことだな。絵梨香も “モデルスカウト” には随分手こずったみたいだしな?」
「もう! その話はやめて! 恥ずかしくて消したい過去だわ!」
「あれが零との、再会だったんだな」
「初対面だと思ってたけどね。どっちにしろ 散々だわ」
「ははは、確かにな。高級フレンチを棒に振った感じだな」
「そんなことないよ! せっかく蒼汰が私の就職祝にご馳走してくれたんだもん。ちゃんと味わって食べたよ。すっごく美味しかったんだから」
「そっか、なら良かった! また行こうな」
「うん! なんか、お祝い事を探しとかなきゃね!」
絵梨香の顔が幾分を明るくなったような気がした。
このまま彼女の緊張が少しでもほぐれ、『想命館』に行っても、心穏やかにいられるように と、祈るような気持ちだった。
約束の時間の約5分前に、赤い車が横付けされる。
絵梨香の表情に、少しの緊張感が見えた。
「よぉ零、おつかれさん!」
蒼汰が明るく手をあげた。
「この車に乗るの、なんだか久しぶりな感じがするよな!」
そう言いながら『Jaguar E-PACE』の後部座席に絵梨香を座らせて、自分も助手席に意気揚々と乗り込む。
後ろの絵梨香も、薄いサングラスをかけた零に軽い挨拶をした。
「何度乗ってもいい車だなあ!」
蒼汰はいつになく、楽しげにシートの調節をしている。
「何度も言うが、俺はコイツを “街乗り” にはしたくない」
無表情のまま、零は皮肉っぽく言った。
蒼汰が笑う。
「まあそう言うなよ零、オレがこの車に会いたかったんだから!」
絵梨香がフッと微笑んだのをミラーで確認した。
昨夜『カサブランカ・レジデンス』を出て、 川沿いの道を下りながら聞いた零の話は、思いもよらない内容だった。
零の口調はいたって冷静ではあったが、そこには苦悩が見えた。
その推理に行き着くまで、一体いくつの落胆や絶望があったのだろう……
胸を
想像するだけで苦しくなった。
いつも零は、あんな思いを胸に抱えながら、頭の中では、どんな残酷なことであろうともあらゆる可能性を手繰り寄せ、パズルを完成させようとしているのだ。
時に、そこに存在する感情が邪魔をすることもあるだろう。
それを制するために、自分の感情をも、殺す。
それが零だ。
わかっている。
しかしそんな
いつかは大きな音とともに崩れていく……
そんな恐怖と戦いながら、零は犯罪という名の闇と戦う。
その闇の中に、自らの思いを
そんな零を支えたいと思った。
できることなら助けたいと思った。
どんな冷淡の言葉を並べようとも、零は絵梨香を守るだろう。
その思いは自分も一緒だから……
零が犯罪を憎む気持ちに支配され、闇一色に 陥らないように……
蒼汰は自分に出来ることを果たすと決めた。
絵梨香は後部座席から、あの時のように空を見ていた。
この車に乗って西園寺家に行ったのは、ついこの間の事なのに、随分昔のような気がした。
あの2日間は、過去の思い出が一気に吹き出したというのもあるけれど、色々な事がありすぎて、消化しきれないまま今に至る。
事件がなければ、もっと零とゆっくり話をして、昔の事も分かち合えたし、章蔵との思い出話も出来たのに……
今から向かう『想命館』……
あそこへ行くのは……あまりにも気が重い。
自ら言い出したものの、あの場所で普通に居られるかは、自信がなかった。
「絵梨香、どうかした?」
蒼汰が振り向いて、そう聞いてきた。
「いえ……でもあそこに行ったら、あの日の辛い気持ちがよみがえりそうで……少し怖いわ」
「絵梨香……」
蒼汰が後ろを向いて真っ直ぐに絵梨香を見据えた。
優しく切な気な表情。
「ごめんね。ギリギリまで言うか言わないか迷ったんだけど、それが本音。言葉に出して言うことって、共有することだから……この3人ならって……そう思って、素直に言ってみたの」
蒼汰の表情から緊張が消えた。
「話してくれて良かったよ。もう無理はしないでくれよ。その調子でなんでも話して」
いつになくゆっくりした口調で、そう優しく言うと、笑顔を見せて前を向いた。
サイドミラー越しに零を見てみる。
しかし零からは、表情も目の奥もなにも見えなかった。
この人は、私たちとは立場が違いすぎる。
私のように心を共有しようなんて気持ちは持ち合わせていないのかもしれない。
どんな気持ちであの場所に向かっているのだろう。
幸せいっぱいで始まるはずだった あの場所から、悲惨な出来事が起こってしまって……
彼は一体、どう思って、どう心の処理をしているのだろうか。
『
絢爛豪華なエレベーターに乗り込んでロビーに上がってくると、フロントに小田原佳乃が待ち構えていた。
「こんにちは」
「あら? 絵梨香さんも一緒だったのね?」
明るい声で佳乃が言った。
零を、少し意味ありげに一瞥した佳乃は、カウンターから回って出てきて、まっすぐ蒼汰の方に向かう。
「江藤さんも来てくださったのね! 嬉しいわ。では、どうぞこちらへ」
小田原佳乃が案内するのは、あの空中庭園のある上階のフロアだった。
豪華なエレベータに乗るも、終始無言の3人とは対照的に、小田原佳乃は明るく問いかける。
「来栖さんって、てっきり警察官だと思ってたんです。でも違ったんですね? どうして警察官みたいなことをされてるんですか? あ、そうだ! もう一人のイケメン! お兄さんですよね? お兄さんは警察官みたい。だって警察のお偉方が皆、彼に群がってたもの。すごい権力者なんでしょうね。警察の上層部の方の人とか? じゃあ、あなたも……実は?」
「いいえ、俺は一般人ですけど」
「そうなんですか? でも警察官みたいに聞き込みする権利があるんですね? それってお兄さんのおかげとか?」
それまで無表情のまま黙っていた蒼汰が、聞き捨てならないと言うように顔を上げた。
「いや、こいつは!……」
蒼汰がそう言いかけるのを、零は遮った。
「ええ、そうなんですよ。兄貴に
零が涼しげにそう言うと、しばしの沈黙が流れた。
エレベーターが開くと、あの日絵梨香が座り込んでいた猫足の椅子が現れた。
心が引き込まれそうになるのを感じる。
「大丈夫か?」
蒼汰にそう声をかけられなければ、一人違う方向に歩き出していたかもしれない。
エレベータホールから、あのパノラマの窓が見えてきた。
あの頃は燃えるような陽射しと共に、生命力溢れる木々の揺れる姿があった。
あの蝉の声が、耳の奥で昨日の事のように蘇ってくる。
しかし今は、静かで穏やかな風がそよいでいた。
大きいキャンバスのような窓を右手に、奥の扉に目をやる。
あの日の零を、思い出した。
私に息をさせてくれた。
私の背中を押し、心を解放させてくれた。
“俺の分まで泣いてくれ”と、ここでそう言った彼の事が、忘れられない。
あんなに憂いをたたえた彼の頬を初めて見たと感じたことを思い出す。
そして、彼が私にハンカチを手渡したその時の彼の冷たい指先の温度も思い出された。
カバンに手をやって、その中にあるものを意識すると、幾つかのシーンが心の中に蘇って、クッと胸に痛みが走った。
歩くペースが一瞬乱れなかったかが気になって、すぐ隣を歩く蒼汰に目をやる。
彼は真っ直ぐに前を向いていて、ほっとしてしまう自分がいた。
自分の斜め前を歩いている無表情な彼の背中を見つめながら、彼の中にも、私と同じような懐旧の念に囚われるような感情があったりするのだろうか、と思った。
本当はどんな想いがその胸にあるのか……
そしてそれは私の知るものではないのか……
第78話 『捜査始動~想命館ハートフルライフ~』
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