第39話 『The Room Tells Us Something』

ベランダで風に身を晒しながら、夕日のかげりと共に頬の涙が乾いた時、絵梨香は目を閉じて大きく深呼吸した。

体の中の血が巡る感覚を全身で感じ、両手で頬を挟むと、ゆっくり目を開けて、フーッと息を吐いた。

そして自然と流れ込んでくる空気を胸いっぱいに吸い込んで、顔を上げる。


隣でベランダの戸が閉まった音が小さく響いた。

その音に耳を傾けながらも、零はそのまま外の景色を眺めていた。

暮れゆく夕陽に染まったその雲の行方を、このまま時が過ぎるのも忘れて、いつまでも見ていたいような……何もかも忘れて……

そんな気持ちに陥る。


部屋のドアがノックされた。

我に返った零は足早に部屋に入り、ベランダのドアとカーテンを閉めた。

部屋を横切って向かった先のドアの向こうには、蒼汰が立っていた。

中に招き入れる。


「今、絵梨香からメッセージが入ったんだ。絵梨香のばあちゃんさ、7時半頃来るらしい」

蒼汰は時計を見上げた。

「絵梨香さ……」

少し目を泳がせながら話し始めた。

「あと10分ぐらいしたら出てくるって言ったから、零の部屋で待ってるって言ったんだ」

「そうか」

おそらく蒼汰も彼女が泣いていたのに気がついたのだろう。


少しぎこちない空気を払拭しようと、蒼汰は顔をあげて話した。


「あと1時間半ぐらいあるからさ、その間にじいさんの部屋にもう一度行こうと思うんだけど、いいか?」

「ああ」

「じゃあ先に、弓枝さんにことわりを入れに行こう」

零は頷いた。


「先に話しとくな。じいさんのノートの内容。まだ途中までしか読んでなかったんだ、じいさんが絵梨香との打ち合わせに『想命館』で再会する直前くらいまでかな」

蒼汰は一通りその内容を話した。

零は机上のメモに手を伸ばし、時折手を動かしながら興味深く聞いていた。

「なるほど、後半はほぼ日記みたいだな」

「そうだろう? なんか自作の俳句とかも書いてあるし」

「鑑識が見落とすとは思えないんだが」

「確かに。オレらが見つけられるようなものだからなぁ」

「一応そのノートのことは弓枝さんにも聞いてみよう」

「なぜ弓枝さんに?」

「警察が捜査で部屋をひっくり返したその後、元通りに戻したのが弓枝さんなんだろ? ノートが本当に最初からそこにあったのか、ちょっと聞いてみたい」

「そうだな、聞いてみるか」

神妙な顔をしながらメモを睨んでいる零の横顔を見ながら、蒼汰が言った。

「あ……さっきさ、そのノートにサマコレの事が書いてあって。多分絵梨香のばあちゃんが、いつ放送されるとか言ったんだろな。それがメモされてたんだけど」

零の様子をうかがう。

とくに反応もない。

「まあ、じいさんもさ、まさか零が出演してるなんて夢にも思わなかっただろうな。っていうか、オレもお前のこと気がつかなかったしな」

零は、メモから目を離さないまま言った。

「そうだろうな、ほぼ仮装だったし」

まるで興味もないというような突き放した言い方をしながら、手元を忙しく動かしている。


その様子を見ながら、蒼汰は思い出していた。

零と絵梨香が初めて……いや厳密には初めてじゃないか、にしてもまあ大人になってからは初めて会ったのは、自分が絵梨香と待ち合わせしたあの日だ。

何年も、そう16年も会っていない2人が再会する偶然、それも絵梨香の方から声をかけるなんて事が起こり得たことに、なんとも不思議な気持ちにさせられる。

2人に運命的なものを感じてやまず、零の横顔を盗み見た。


零は依然、メモ書きを眺めながら時折壁面に目をやり、時系列を確認しているかのようだった。

蒼汰が切り出す。

「なあ零、3人で『ミュゼ・キュイジーヌ』で食事した日、覚えてるか?」

「ん? ああ、この春に?」

「そう、絵梨香も一緒だったとき」

「ああ、帰りに桜川の大通りで高倉さんに会った日だな」

「あ……まあ、そうだったな。その日だ。でさ、お前はその……絵梨香にモデルを勧められて断固として拒否してたわけだろ? なのにどうしてサマコレには出演してるんだ? オレ、ずっと疑問に思ってて……」


その時ドアがノックされた。

零はその質問にも答えないまま、ドアの方に進む。

ドアを開けると、少し俯き加減の絵梨香が立っていた。

零の顔をそっと見上げる。

「あ……お待たせ。蒼汰、来てるよね?」

顔に赤みが差して、少しすっきりしたような表情だった。

「絵梨香」

奥から蒼汰も出てきた。

「じゃあ早速行こうか。とりあえず最初に弓枝さんのところに」


3人は一旦階下に向かった。

階段を降りながら、何も言わない男子2人に、絵梨香は少し浮わついた声色で話す。

「おばあちゃんね、すごく元気そうだったの! 私も会うの久しぶりだから、とっても楽しみなんだ!」

そして自分の後ろを歩く零を振り返って話す。

「おばあちゃんね、あなたに会えることも すごく喜んでたの! でね、“もう楽しみで心臓が止まりそう!” ナンテ言うのよ! おかしいでしょ?」

零の顔を見て絵梨香が笑いかけると、零も少し表情を和らげた。


蒼汰が参戦する。

「オレは恵梨香のばあちゃんに会うのは初めてだよな?」

「そうね、一応親戚って……言えるのかな?」

「待てよ、静代さんは、要するに相澤家ってことだよな、絵梨香の父さんの母親だろ? 絵梨香のお父さんの兄が由夏姉ちゃんの父親、その人と結婚したのがオレの母親の姉、妹であるオレの母親が江藤家に嫁いで……これじゃあさすがに親戚とは言えねぇか!」

「……随分ややこしいな」

零のその一言に、2人が笑った。


「オレ達も親戚とは言えないかもな」

「でも他の親戚よりも密に交流してると思うけど?」

その一言に、蒼汰は少し複雑な顔をした。

「そうだな」


ダイニングにいる弓枝のもとに行くと、彼女は他の従業員と共ににテーブルのセッティングをしていた。

「えりちゃん、聞いたわ! 今日は静代さんが来てくださるそうね。賑やかなディナーになりそう! 私もお会いしたかったの。嬉しいわ」

2人が笑顔で会話した。

蒼汰が言う。

「これからもう一度じいさんの部屋に 行ってもいいですか?」

「もちろんです。鍵はかかっていませんから」

そう言って彼女は零の方に目を向け、目を細める。

その弓枝に零が問いかけた。

「弓枝さん」

「はい、零様」

「まだ僕は見ていないのですが、蒼汰がどうも日記に近いようなものを見つけたそうです」

「はい」

「どんなノートか、見当がつきますか?」

「はい、螺鈿細工らでんざいくの表紙の」

「螺鈿?」

零が少し驚いたように言って、2人を振り返る。

蒼汰と絵梨香は頷いた。

零はわかったと言うように、また弓枝の方を向いた。

「それは鑑識から返却されたものですか?あるいは……」

そこで弓枝は、その言葉を制するように手のひらを零に向けてから、従業員に声をかけた。

「少し席をはずすので、カトラリーとグラスのチェックをして、テーブルセットをお願いするわね」

そう言うと零の方にに向き直った。

「失礼しました。旦那様のお部屋へ、改めてご案内します」

そう言って弓枝は、率先してダイニングを出た。


廊下に出てエレベーター前に着くと、弓枝は零に深々と頭を下げた。

「申し訳ありません。零様がお考えになっている通り、あのノートは警察の目には触れていません。旦那様のお部屋の捜索が終わってから、私があの引き出しに入れたのです」

「どうしてそんなことを?」

蒼汰が言った。

弓枝は到着したエレベーターに3人を促して自分も入ると、話し始めた。

「あのノートは、旦那様に持っているようにと、生前葬の前日に手渡されたものなのです」

部屋に向かいながらも話は続く。

「それは何か意味するのですか? もしくは、今回の事件と関係があるとお思いですか?」

零はそう聞いた。

「わかりません。でも旦那様は、どこかに特別な所にお出かけになるときや、しばらくお部屋をあけられる時には、必ず私にそのノートを預けてから行かれます。それはもう何年も何年も続いていることなので、特別なことではありません。今のノートも もう何代目か分からないぐらいなのです」


弓枝が章蔵の部屋の引き戸を開けた。

「どうぞ」

部屋に入ると、零はその部屋をぐるりと見渡していた。

時折、動きを止めて何かを見入るように凝視しては、また緩やかにぼんやりとした視線で辺りを埋め尽くしている。

零がその空間を感じていられるように、皆はしばし静かに後ろから見守っていた。

絵梨香がふと弓枝の方に目をやると、彼女は今にもこぼれ落ちそうな涙をこらえながらも、優しい表情で零を見つめていた。


しばらくすると、零はいつもの彼らしく、あらゆる細かいところを見て回り始めた。

彼がダッシュボードの前に立った時、絵梨香は息を殺して、彼の視線を盗み見た。

彼が花器と大皿の間に見える、あの額縁に目をやっている。

あえて興味深く顔を近づけたりはしなかったが、その横顔に見えた彼の目は、瞬きもせずその中の写真を射抜いていた。


しばらく見た後、すっと踵を返して蒼太のいるは和箪笥たんすの方に足を向けた。

蒼汰が引き出しを開けてノートを取り出す。

「これなんだけどさ」

そう言って蒼汰が零にノートを見せる。

「やはり、これか……」

零は目を見開いた。

「零、このノートに見覚えがあるのか?」

「ああ、これは俺がじいさんに買ったものだ」

「そうなのか? いつ?」

「中学の時だ、確か冬に北陸に行った時か なんか……その土地の土産屋で見つけた。螺鈿細工に玉虫塗たまむしぬりを施したこのデザインを見たときに、急にここを思い出して……それでその時買ったものを、蒼汰と一緒に夏休みにここに来た時に、じいさんに渡した」

「そうだったのか」

弓枝も後ろから付け加えた。

「旦那様はとても大事にしていらして、そのノートをしまいこんでいたみたいです。ある日ふと、今度はこれを使おうと思われたらしくて、嬉しそうに私にもおっしゃっていましたよ、零様からプレゼントされたものだって。まるでご自分がお選びになったかのように、玉虫のように美しいその表紙のデザインを自慢なさっていましたし、毎回愛でていらっしゃいました」

零はその表紙を指でなぞりながら、しばらく見ていた。


「弓枝さん、では今あるこのノートの前にも、別のノートがあったということですか?」

零が聞いた。

「ええ、そうです。いつもはご自身で文房具店に立ち寄られた時に、見つけた面白いノートや珍しいものをお使いになっていました」

「その歴代のノートの所在は分かりますか?」

「いえ……それは私も。旦那様がお亡くなりになってから、私もどうなったか気になっていました。今までの使い切った後のノートを、私は一度も見たことがないのです。ひょっとしたら処分されてるのかなと、そう思っていましたが」

「わかりました。鑑識が調べても見つかっていないということは、もう存在していないのかもしれませんね。ありがとうございました」

零は弓枝に頭を下げた。

弓枝も上品に頭を下げる。

「ではごゆっくり。またお食事の時間になったらダイニングにおいで下さい」

そう言って弓枝は章蔵の部屋を後にした。


3人はその儚げな後ろ姿を見送りながら、彼女のあるじに対する情の深さと、主を亡くしたうれいを感じていた。


第39話 『The Room Tells Us Something』ー終ー

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